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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第19話:重すぎる鎧、守れないルール 〜「規律」とは、「中身を守るために自分を殺す棺桶」である〜

北の森に、奇妙な静けさが落ちていた。


先ほどまで地面を揺らしていた土石ゴーレムは、すでに崩れていた。泥と岩の塊は森の地面に散らばり、赤黒く光っていた胸の核も、今は濁った石ころのように沈黙している。


雨上がりの森には、濡れた葉の匂いが満ちていた。腐葉土を踏むと、ぐちゅりと湿った音がする。木々の枝からは、まだ水滴が落ちていた。


ぽたり。


ぽたり。


その小さな音だけが、戦いの後の静寂を細く震わせている。


メイは白いアイガードに触れたまま、崩れたゴーレムの残骸を見つめていた。


胸の奥が、まだどくどくと鳴っている。


怖かった。


森も、戦いも、騎士も、全部怖かった。


けれど、彼女は声を出した。胸ではなく首の後ろだと伝えた。瞬はそれを聞き、ゼイクも作戦を変えた。


それだけで、メイの中に小さな熱が残っていた。


自分の声が、誰かに届いた。


それは、メイにとって信じられないほど大きな出来事だった。


「……任務完了だ」


ゼイクが硬い声で言った。


白銀の鎧には泥がついていた。肩にも、胸にも、膝にも、黒いしみが飛んでいる。普段の彼ならすぐに拭い取っただろう。


だが、今はまだ拭いていない。


彼は剣を鞘に収め、崩れたゴーレムを確認するように一歩近づいた。


「核は沈黙。外殻も崩壊。活動再開の兆候なし。帰還後、報告書を――」


その時だった。


ぐぶり。


泥が鳴った。


ゼイクの言葉が止まる。


瞬が眉をひそめた。


「……今、鳴ったよな?」


崩れたはずのゴーレムの残骸が、ゆっくりと動いた。


泥が、地面の上を這う。


岩の隙間から黒い液体のようなものが滲み出し、砕けた石片を飲み込みながら、一か所へ集まり始める。


腐葉土の匂いが、一気に変わった。


湿った森の匂いに、どこか生臭い、腐った水のような臭いが混じる。


メイは思わず瞬の袖を掴んだ。


瞬はすぐに彼女の前へ半歩出た。


「メイ、下がって」


「……はい」


その声は震えていたが、メイは後ろへ下がった。


ゼイクは動かない。


いや、動けなかった。


彼の目の前で、泥が浮いた。


重さを失ったように、地面からふわりと離れる。


泥の塊は空中で丸く膨らみ、ぶくぶくと泡立った。表面には、ときおり人の顔のような模様が浮かび、苦しげに歪んではすぐに崩れる。


それは生き物には見えなかった。


魔物にも見えなかった。


森の法則の外から、間違って流れ込んできた汚れのようだった。


「……ありえない」


ゼイクの声が、兜の奥で低く震えた。


「土石系ゴーレムの残骸が自立再構成する例はある。だが、浮遊はしない。重力制御の魔法陣も、核も確認できない。泥だけが浮いているなど……理屈に合わない」


瞬が横目でゼイクを見る。


「理屈に合わないなら、とりあえず避けた方がいい」


「待て。構造を把握する。攻撃の起点がどこかを――」


泥の塊が、脈打った。


次の瞬間、黒い泥の腕のようなものが、ゼイクへ伸びた。


速い。


ゼイクは反応した。


反応はした。


だが、遅れた。


「ゼイク!」


瞬が叫ぶ。


泥の腕が、ゼイクの盾を叩いた。


鈍い音が森に響く。


盾は砕けなかった。だが、泥は盾の表面に貼りつき、まるで生き物のように鎧へ這い上がろうとした。


ゼイクの呼吸が乱れる。


「剥がれない……!」


彼は剣で泥を払おうとした。


刃が泥を裂く。


だが、裂かれた泥はすぐにまたつながった。


規則が通じない。


剣筋が通じない。


計算が通じない。


ゼイクの中で、何かが軋んだ。


「ありえない……こんな、不規則な……」


その声を聞いて、メイの胸が痛んだ。


ゼイクの声は、怒りではなかった。


恐怖だった。


完璧でなければ守れない。


乱れれば失う。


そう信じてきた人間が、乱れそのものに触れた声だった。


泥の塊がさらに膨らむ。


今度は、三本の腕が伸びた。


一本は瞬へ。


一本はゼイクへ。


そして、一本はメイへ。


瞬の目が鋭くなる。


「メイ!」


彼はメイの前へ飛び出そうとした。


だが、ゼイクが叫んだ。


「待て! 軌道が読めん! 不用意に動けば――」


「計算してる場合じゃないだろ!」


瞬は地面を蹴った。


しかし、泥の腕は途中で形を変えた。


まっすぐ伸びていたはずの腕が、風に流れる煙のように曲がり、瞬の足元へ絡みつこうとする。


「うわっ、気持ち悪っ!」


瞬は跳んだ。


跳んだ先の木の枝が、嫌な音を立ててしなった。


普通の人間なら落ちる。


だが瞬は、その枝を足場にして、さらに上へ跳んだ。


ゼイクは目を見開いた。


「貴様、どこへ――」


「ちょっと武器取ってくる!」


「今からか!?」


瞬の声だけが、森の上から降ってきた。


メイは唖然とした。


ゼイクも唖然としていた。


泥の怪物まで、一瞬だけ動きを止めたように見えた。


次の瞬間。


ばきばきばきばきっ!


森の奥で、木が折れる音がした。


一本ではない。


何本も。


メイの肩が跳ねる。


ゼイクが兜の奥で低く呻いた。


「……まさか」


空から、影が落ちた。


瞬だった。


両腕で、信じられないほど太い丸太を抱えている。


それは武器というより、森の一部を無理やり持ってきたようなものだった。濡れた樹皮には苔が貼りつき、枝葉がまだ残っている。折れた断面からは、白い木肌がむき出しになっていた。


「計算とかいいから!」


瞬が叫んだ。


「来たもんを迎撃すりゃいいんだよ!」


そのまま、彼は丸太を振り下ろした。


ゼイクの目が、大きく揺れた。


その叫び声が、記憶の奥に眠っていた声と重なったからだ。


――なんとかなるよ!


風の強い訓練場。


夕陽。


赤茶色の髪。


笑う少女。


ゼイクの胸の奥で、凍りついていた何かが、わずかに音を立てた。


だが、今はまだ思い出す時間ではない。


丸太が、泥の怪物へ叩きつけられた。


どごおおおおおんっ!


森が揺れた。


泥の塊が、横へ大きく潰れる。


しかし、砕けない。


丸太は泥の中へ半分沈み込み、黒い液体が樹皮を這い上がる。


「うわ、これ吸ってくるぞ!」


瞬が叫ぶ。


「だから先に構造を確認しろと言った!」


ゼイクが怒鳴る。


「今それ言う!?」


「今だから言う!」


泥の怪物が丸太を飲み込み始めた。


瞬は丸太から手を離し、空中で体をひねる。地面へ着地する寸前、彼はメイの近くへ滑り込んだ。


「大丈夫か?」


「私は……大丈夫です」


メイは震えながら頷いた。


本当は大丈夫ではない。


怖い。


足がすくんでいる。


でも、今は逃げなかった。


ゼイクが泥を見据えている。


白銀の鎧は、さらに汚れていた。


肩の泥は広がり、盾には黒い液体がこびりついている。


彼は震えていた。


寒さではない。


恐怖でもある。


怒りでもある。


そして、崩れかけた規律を必死に押さえつける震えだった。


「ゼイクさん」


メイは声を出した。


ゼイクは反応しない。


泥の怪物がまた脈打つ。


今度は、先ほどよりも大きく膨らんでいた。


丸太を飲み込んだせいか、体積が増えている。


瞬が顔をしかめた。


「食ってデカくなるタイプかよ。面倒だな」


ゼイクは剣を構え直した。


「斬撃無効。打撃吸収。質量増加。ならば火か凍結か――いや、魔法適性は不明。手順を再構築する必要がある。まず距離を取り、観察を――」


「ゼイクさん!」


今度は、メイの声が少し大きくなった。


ゼイクが振り返る。


メイは白いアイガードを押さえながら、彼を見た。


怖い。


騎士に声をぶつけるのは、まだ怖い。


それでも言わなければいけないと思った。


「鎧を守るために、中身が傷だらけになったら……それじゃ、本末転倒じゃないですか?」


ゼイクの動きが止まった。


瞬も、思わずメイを見た。


森の空気が、ほんの一瞬だけ静まる。


メイの声は震えていた。


けれど、逃げてはいなかった。


「完璧に考えてから動こうとしたら、間に合わない時もあります。怖いままでも、汚れたままでも……生きるために動かないといけない時が、あると思います」


その言葉は、ゼイクの鎧を叩いたのではない。


鎧の奥へ入っていった。


彼が一番聞きたくなかった場所へ。


けれど、ずっと誰かに言ってほしかった場所へ。


ゼイクの手が、剣の柄を握りしめる。


兜の奥で、息が震える。


「……貴様に、何がわかる」


低い声。


だが、そこには昨日までの鋭さだけではなかった。


痛みがあった。


メイは、小さく首を振った。


「わかりません。でも……私も、ずっと隠れていました。見られたら終わりだと思って、布の中で息をしていました。でも、隠すことだけを守っていたら……私は、どこにも行けませんでした」


ゼイクは黙った。


瞬は何も言わなかった。


泥の怪物が、また動き出す。


黒い腕が、三人へ向かって伸びる。


その瞬間、ゼイクが一歩前へ出た。


泥が跳ね、鎧にさらに黒いしみがついた。


彼は拭わなかった。


「……瞬」


「おう」


「丸太はもう使うな」


「了解」


「メイ」


「は、はい」


「視える範囲で、あの泥が動く前兆を教えろ」


メイは息を呑んだ。


命令だった。


でも、拒絶ではなかった。


役割を与えられた。


「……はい!」


ゼイクは剣を構えた。


「私は汚れる」


その声は硬かった。


だが、どこか吹っ切れた音があった。


「貴様らも巻き込まれるな」


瞬が、にっと笑った。


「いいじゃん。泥まみれの騎士、ちょっとかっこいいぞ」


「黙れ。台無しだ」


ゼイクは地面を蹴った。


泥の怪物が、三本の腕を振り上げる。


メイは目を凝らした。


白いアイガードの奥で、見えるのは右目だけ。


それでも、見た。


泥の表面に走る細い泡。


腕が伸びる前に、必ず内側から泡が集まる。


「右です!」


メイが叫ぶ。


ゼイクは即座に右へ踏み込んだ。


剣で斬らない。


受け流す。


泥の腕を自分の盾へ絡ませ、わざと引きつける。


「瞬!」


「任せろ!」


瞬は、今度は素手で突っ込まなかった。


近くの倒木を蹴り上げ、泥の腕へぶつける。


だが、吸収される前にすぐ離れる。


「左、来ます!」


メイの声。


ゼイクが動く。


瞬が動く。


二人の動きはまだ噛み合っていない。


ゼイクは堅すぎ、瞬は雑すぎる。


だが、メイの声が、その間に細い線を引いていた。


「上!」


ゼイクが身を沈める。


「足元!」


瞬がメイを抱え上げるようにして一歩下がる。


「中心、泡が集まってます!」


泥の怪物の中央に、黒い泡が渦を巻いていた。


そこだけが、他よりも濃い。


瞬が叫ぶ。


「ゼイク、あそこか?」


「おそらく核だ!」


「よし、吹き飛ばす!」


「待て! 吹き飛ばせば森ごと――」


「じゃあ、軽く!」


「貴様の軽くは信用ならん!」


メイが、思わず叫んだ。


「シュンさん、指先だけ!」


「了解!」


瞬が飛んだ。


泥の腕が彼へ殺到する。


ゼイクがその間へ入り、盾で受ける。


泥が鎧へ張りつく。


白銀が黒く染まる。


それでもゼイクは退かなかった。


「行け!」


瞬の指先が、黒い泡の中心へ届く。


ぱちん。


乾いた、小さな音。


それだけだった。


次の瞬間、泥の怪物の内部で何かが割れた。


ぐしゃり、と湿った音がして、浮いていた泥の塊が一気に重さを取り戻したように落下する。地面へ叩きつけられ、黒い泥が四方へ飛び散った。


瞬は着地しようとして、足を滑らせた。


「おわっ」


そのまま、泥の中へ顔から突っ込んだ。


べちゃっ。


森に、間抜けな音が響いた。


緊張の糸が、ぷつりと切れる。


メイは目を見開いた。


ゼイクも固まった。


泥まみれになった瞬が、顔だけを上げる。


鼻先から黒い泥が落ちた。


「……勝った」


ゼイクが低く言った。


「どの口で言っている」


瞬は親指を立てた。


「この泥まみれの口で」


ゼイクはしばらく黙った。


それから、兜の奥で、ほんの小さく息を漏らした。


笑ったのかもしれない。


メイは、それを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


勝った。


でも、それだけではない。


ゼイクが汚れた。


泥まみれになった。


それでも、壊れなかった。


彼は立っている。


瞬も泥だらけで笑っている。


自分も、怖いまま声を出せた。


森の奥を、冷たい風が通り抜ける。


濡れた葉が擦れ、ざわざわと鳴った。


その音は、少しだけ、何かがほどけていく音に似ていた。


泥は、森の地面に重く沈んだ。


先ほどまで宙に浮き、腕を伸ばし、意志を持つようにうねっていた黒い塊は、今はただの濡れた泥となって広がっている。ぬめる表面には、枝葉の影が歪んで映り、ところどころに小さな泡が残っていた。


ぱちん。


泡が一つ弾けた。


それだけで、ゼイクの肩がわずかに揺れた。


彼は剣を下ろしていなかった。


泥だらけの白銀鎧。


黒く染まった盾。


足元まで飛び散った泥。


あれほど完璧だった姿は、もうどこにもない。鎧の継ぎ目には濡れた土が入り込み、肩当てからは黒い滴が、ぽたり、ぽたりと落ちている。


けれど、ゼイクは拭わなかった。


拭えなかった。


彼の視線は、泥の上に固定されていた。


瞬が泥の中から上体を起こす。


顔も髪も服も、見事なまでに黒く汚れている。鼻の先から泥が一筋垂れ、彼はそれを袖で拭おうとして、袖も泥だらけなことに気づき、少しだけ考えた。


そして、何もなかったことにした。


「……いやあ」


瞬は立ち上がった。


べちゃ、と靴が泥から抜ける音がする。


「今回の俺、かなり抑えたよな?」


メイは、緊張で固まっていた体から、ようやく息を吐いた。


「……はい。森は、あまり壊れていません」


「そこ評価基準なんだ」


「大事だと思います」


「たしかに」


瞬は真面目に頷いた。


そのやり取りは、いつもならゼイクが硬い声で切って入るところだった。


だが、彼は何も言わなかった。


ただ、泥を見ている。


まるで、そこに今も何かが沈んでいるかのように。


メイは、その横顔を見た。


白いアイガードの奥で、左目は隠れている。けれど右目だけでも、ゼイクの異変ははっきりわかった。


戦いの恐怖ではない。


負傷の痛みでもない。


もっと古いもの。


もっと深く沈んでいたものが、泥の匂いに引きずり出されている。


「……ゼイクさん」


メイが小さく呼んだ。


ゼイクの指が、剣の柄を強く握った。


「問題ない」


声は低かった。


だが、かすかに掠れている。


「敵性存在は沈黙した。周囲の警戒を維持しつつ、残骸の性質を確認する。帰還後、詳細報告を――」


言葉が、途中で切れた。


風が吹いた。


濡れた森の匂いに混じって、黒い泥の腐ったような臭いが彼の鼻を刺した。


ゼイクの視界が揺れる。


雨。


濁流。


黒い波。


泥と水と岩が混じり合い、すべてを飲み込んでいく光景。


「リリアッ!!」


その名は、彼の口からほとんど無意識にこぼれた。


瞬の表情が変わった。


メイも息を呑む。


ゼイクは、そこにいなかった。


彼の瞳は、目の前の森ではなく、遠い過去の雨を見ていた。


崩れた崖。


押し寄せる黒い泥流。


逃げ惑う人々。


泣き叫ぶ子供。


その中で、赤茶色の髪を濡らしながら立っていた少女。


リリア。


彼女は笑う時、いつも少しだけ片方の口角を上げた。ゼイクの規律をからかい、鎧を磨きすぎだと笑い、雨の日にも平気で泥道を走った。


――ゼイク、鎧が汚れるくらいで人は死なないよ。


そう言って、彼女は泥だらけの手でゼイクの肩を叩いた。


あの時も、雨が降っていた。


山間の村を襲った土砂崩れ。


救助の最中、ゼイクは計算していた。安全な経路。避難の順番。崩落までの猶予。手順通りなら、全員を助けられるはずだった。


だが、現実は手順通りには動かなかった。


泣いて動けなくなった子供。


それを抱き上げたリリア。


そして、予測より早く崩れた斜面。


黒い泥の壁が、彼女の背後から迫っていた。


ゼイクは走った。


届くはずの距離だった。


普段の自分なら、届くはずだった。


だが、ぬかるんだ地面が足を奪った。


一瞬。


たった一瞬。


その一瞬が、永遠になった。


「キャッチして! ゼイク!」


リリアは、子供を投げた。


ゼイクは受け止めた。


受け止めてしまった。


その反動で、足が止まった。


黒い泥流が、リリアを飲み込んだ。


彼女は最後に、何かを叫んでいた。


助けて、ではない。


ゼイクには、そう見えた。


――逃げて。


その口の動きが、今でも夢に出る。


そして、泥の中に赤いものが浮かんだ。


リリアが髪に結んでいた、赤いリボン。


それが泥水に揉まれ、沈んでいく。


ゼイクの膝が、森の地面に落ちた。


がしゃん。


鎧が濡れた土を打つ音がした。


「ゼイク!」


瞬が駆け寄ろうとした。


だが、メイが袖を掴んだ。


強くではない。


けれど、止めるには十分だった。


瞬は振り返る。


メイは首を小さく振った。


「……今は、少しだけ」


その声は震えていた。


「近づきすぎない方が、いい気がします」


瞬はゼイクを見た。


泥だらけの鎧で膝をつく騎士。


完璧に立っていた男が、初めて地面に崩れている。


瞬は奥歯を噛み、足を止めた。


メイはゆっくりとゼイクへ近づいた。


怖かった。


騎士は怖い。


怒鳴られるかもしれない。


拒まれるかもしれない。


けれど、今のゼイクは、誰かを斬る騎士には見えなかった。


ただ、失ったものの前で膝をついた人に見えた。


「ゼイクさん」


メイは、少し離れた場所で立ち止まった。


「……誰かを、思い出したんですか」


ゼイクは答えなかった。


雨上がりの森に、彼の荒い息だけが聞こえる。


メイは、白いアイガードにそっと触れた。


「私も……思い出すものがあります」


ゼイクの指が、わずかに動いた。


「泥の匂いとか、石の音とか、人の声とか……何でもないはずのものが、急に昔の場所に引き戻してきます」


彼女の声は静かだった。


「今ここにいるのに、体だけが、あの時に戻ってしまうんです」


ゼイクは、ゆっくりと顔を上げた。


兜の奥の青い瞳が、メイを見る。


そこには、いつもの冷たさはなかった。


むき出しの痛みだけがあった。


「貴様は……」


声が掠れる。


「どうやって、そこから戻る」


メイは答えに迷った。


自分だって、まだ戻れていない。


紫の瞳を見られた瞬間、何度でも過去へ引き戻される。


人の声が怖い。


石の音が怖い。


優しさでさえ怖い。


だから、立派な答えなど持っていなかった。


彼女は、瞬の方を一度見た。


泥まみれのまま、少し離れたところで黙って待っている男。


手を伸ばしたくても、今は伸ばさないでいる男。


その姿を見て、メイは小さく息を吸った。


「……戻れていません」


正直に言った。


「でも、戻れなくても……今ここにいるって、誰かが言ってくれると、少しだけ息ができます」


ゼイクの瞳が揺れた。


メイは続ける。


「ゼイクさんは、今ここにいます」


風が通る。


濡れた葉が擦れ、ざわざわと鳴った。


「泥の中じゃありません。森にいます。私と、シュンさんと、一緒にいます」


その言葉は、ゼイクの胸の奥へ、ゆっくりと沈んだ。


彼は、自分の手を見た。


泥に汚れた籠手。


リリアを掴めなかった手。


子供を受け止めた手。


その手が、今も震えている。


「私は……」


ゼイクの声は低かった。


「守るために、完璧でなければならなかった」


瞬が、黙って聞いている。


「次に同じことが起きても、二度と迷わぬように。二度と遅れぬように。二度と失わぬように。手順を作り、規律を守り、鎧を磨き、乱れを消した」


彼は泥のついた鎧を見下ろした。


「だが……また乱れた」


メイは首を振った。


「でも、今回は誰も飲み込まれていません」


ゼイクの息が止まる。


「泥は怖かったです。でも、ゼイクさんが前に立ってくれました。シュンさんが無茶をして、泥まみれになりました。私も……少しだけ、声を出せました」


メイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「完璧じゃなかったけど、誰も失っていません」


その言葉に、ゼイクは何も返せなかった。


ただ、膝をついたまま、長く息を吐いた。


それは、押し殺していた何かが少しだけ抜けるような息だった。


瞬が、そこでようやく口を開いた。


「ゼイク」


ゼイクは視線だけを動かす。


瞬は、泥だらけの顔で言った。


「飯にしよう」


沈黙。


森が静まり返った。


メイは目を瞬かせた。


ゼイクは、兜の奥で完全に固まった。


「……今、その流れで食事の話をするのか」


「する。人間、重い話の後は温かいものを食った方がいい」


「貴様は本当に……」


ゼイクは言葉を探した。


怒鳴るのかと思った。


だが、出てきたのは、呆れに近い息だった。


「本当に、規律の外側から来る男だな」


「よく言われる」


「誰にだ」


「だいたい全員に」


メイは、思わず小さく笑った。


瞬も笑った。


ゼイクだけが笑わなかった。


だが、彼はゆっくりと立ち上がった。


泥が鎧から落ちる。


べちゃり、と重い音がした。


ゼイクはその音を聞き、顔をしかめた。


一瞬、布を取り出しかける。


しかし、彼は途中で手を止めた。


そして、泥のついた鎧のまま剣を収めた。


「……野営する」


瞬が首を傾げた。


「帰らないのか?」


「この森は異常だ。土石系ゴーレムの残骸から、未確認の浮遊泥状存在が発生した。通常の魔物発生ではない。報告だけで帰還するには危険が残る」


ゼイクは森の奥を見た。


「夜間の観察を行う。明朝、周辺を再確認してから戻る」


瞬はうなずいた。


「つまり、キャンプだな」


「野営だ」


「同じじゃない?」


「響きが違う」


「そこ大事か?」


「大事だ」


瞬はメイを見た。


「メイ、大丈夫か? 森、怖いなら王都に戻るぞ」


メイは森の奥を見た。


怖い。


もちろん怖い。


雨の夜に罠にかかった記憶は、まだ体に残っている。足首の包帯の下が、じくりと痛んだ気がした。


けれど、王都も怖い。


人の声も、視線も、噂も怖い。


どちらにも怖さはある。


でも今は、一人ではなかった。


瞬がいる。


ゼイクもいる。


まだ完全には信じられない。


それでも、二人とも自分の前から消えていない。


メイは、ゆっくり頷いた。


「……ここに、います」


瞬は静かに笑った。


「わかった」


ゼイクはすぐに動き出した。


野営地を選ぶ手際は完璧だった。


木々の間で風を避けられる場所。


地面が比較的乾いている場所。


周囲を見渡せる場所。


雨水が流れ込まない場所。


彼は地面を確認し、枝を払い、石を並べ、荷を置く位置まで正確に決めていく。


瞬は、その様子を見ながら感心したように言った。


「ゼイク、こういうのはめちゃくちゃ頼りになるな」


「当然だ。野営は規律の集積だ」


「キャンプも奥が深い」


「野営だ」


「はいはい」


瞬は薪を集めに向かった。


ただし、今度は木をへし折らなかった。


落ちている枝を拾った。


一本。


二本。


三本。


途中で明らかに太すぎる倒木を持ち上げかけ、メイに見られていることに気づき、そっと戻した。


「……今、やめましたね」


メイが小さく言った。


瞬は真顔で答える。


「俺は成長する男だからな」


ゼイクが遠くから言う。


「ようやく人並みの判断だ」


「褒め方が辛い」


「事実だ」


メイはまた少し笑った。


その笑い声は、濡れた森の中で本当に小さかった。


けれど、瞬にははっきり届いた。


ゼイクにも、きっと届いていた。


やがて火が起こされた。


瞬は慎重に火をつけた。


指先から小さな火花を出し、乾いた枝の端だけを温める。以前なら無駄に火柱を上げたかもしれないが、今回は違った。炎は小さく生まれ、少しずつ薪へ移った。


焚き火の赤い光が、三人の顔を照らす。


瞬の泥だらけの顔。


ゼイクの泥だらけの鎧。


白いアイガードをつけたメイの横顔。


火の粉が夜空へ舞い上がり、濡れた葉の間を抜けて消えていく。


森は少しずつ暗くなっていた。


夕暮れの光が木々の奥へ沈み、幹の影が太く長く伸びる。鳥の声は減り、代わりに虫の小さな音が草の間から聞こえ始めた。


瞬は持ってきていたパンと干し肉を取り出した。


それを見て、ゼイクが眉をひそめる。


「貴様、いつの間に食料を」


「備えあれば飯がうまい」


「言葉の意味が違う」


「でも助かっただろ」


ゼイクは黙った。


メイはパンを受け取り、両手で包んだ。


少し硬いパンだった。


それでも、焚き火の前で食べると、不思議と温かく感じた。


瞬が干し肉を火で炙る。


脂が少し溶け、じゅ、と小さな音を立てた。香ばしい匂いが広がる。


メイの腹が、控えめに鳴った。


くう。


瞬は聞こえないふりをした。


ゼイクは聞こえたが、何も言わなかった。


代わりに、干し肉を少しだけメイの方へ寄せた。


「食え。体力の回復が優先だ」


言い方は硬い。


しかし、そこに拒絶はなかった。


メイは驚いたようにゼイクを見る。


「……ありがとうございます」


ゼイクは視線を逸らした。


「礼は不要だ。必要な配分をしただけだ」


瞬がにやにやした。


「優しさを規律で包む男」


「黙れ」


ゼイクの声は硬かったが、先ほどより少しだけ弱かった。


食事の間、三人は長く黙っていた。


けれど、その沈黙は悪いものではなかった。


焚き火の音。


森の虫の声。


遠くで流れる水の音。


それらが、言葉の代わりに空間を満たしていた。


やがて、ゼイクがぽつりと言った。


「リリアは」


瞬とメイが顔を上げる。


ゼイクは焚き火を見ていた。


火の赤が、泥のついた鎧に揺れている。


「規律を嫌っていた」


彼の声は低く、硬い。


だが、いつものように閉じた声ではなかった。


「私が一日の訓練予定を分刻みで組むと、彼女は必ず五分遅れて現れた。理由を聞くと、空が綺麗だったから見ていたと言った」


瞬は黙っていた。


メイも、パンを握ったまま聞いていた。


「私は怒った。任務に空の色は関係ないと」


ゼイクの口元が、ほんのわずかに動いた。


笑ったのか、痛んだのか、わからない。


「すると彼女は言った。空を見上げる余裕のない騎士は、守った人たちがどんな顔で笑っているかも見落とす、と」


風が吹いた。


焚き火の炎が横へ揺れる。


「……正しかったのは、彼女だったのかもしれない」


その声は、火の音に紛れそうなほど小さかった。


メイは、胸の奥が痛くなった。


リリア。


名前しか知らない。


けれど、その人がゼイクにとってどれほど大切だったのか、今の声だけでわかった。


「ゼイクさん」


メイは小さく言った。


「リリアさんは……ゼイクさんが今も誰かを守ろうとしていることを、怒るでしょうか」


ゼイクは答えなかった。


メイは続けた。


「鎧が汚れても、怖くても、立っていたことを……怒るでしょうか」


ゼイクの青い瞳が、焚き火の奥で揺れた。


長い沈黙があった。


やがて彼は、低く言った。


「……笑うだろうな」


「笑う?」


「泥まみれの私を見て、腹を抱えて笑う」


瞬が思わず言った。


「いい人そうだな」


ゼイクは瞬を睨んだ。


しかし、その目に本気の怒りはなかった。


「失礼な女だった」


「大事な人だったんだな」


ゼイクは、今度は睨まなかった。


ただ、焚き火を見つめた。


「……ああ」


その短い返事だけで、十分だった。


夜が深くなっていく。


森の奥では、時折、低い音がした。


地面の下で何かが動くような、遠い震え。


メイはそのたびに顔を上げた。


瞬も気づいていた。


ゼイクも当然気づいている。


「まだ、何かいるんだな」


瞬が言った。


ゼイクは頷いた。


「先ほどの泥状存在が単独とは限らない。この森の魔力の流れが乱れている。明朝、さらに奥を調査する」


「また変なのが出るかもってことか」


「可能性は高い」


瞬は干し肉をかじりながら、真剣な顔をした。


「物理でいけるやつならいいけどな」


ゼイクは冷静に言う。


「むしろ、先ほどのように物理的干渉を吸収する相手が続く可能性もある」


瞬は口の動きを止めた。


「……物理攻撃が効かない敵ってこと?」


「あり得る」


瞬は、ゆっくりと眉を寄せた。


「それは困るな」


「貴様が困るなら、世界の常識としては相当な異常だ」


「俺、だいたい殴って解決してきたからな」


「誇るな」


メイは、二人の会話を聞きながら、森の奥を見た。


暗い。


何がいるのかわからない。


怖い。


でも、さっきとは違う怖さだった。


一人で雨の森に倒れていた時の、底のない絶望ではない。


今は、火がある。


瞬がいる。


ゼイクがいる。


完全ではない。


安全でもない。


けれど、誰かと同じ火を見ている。


それだけで、闇の深さが少しだけ違って見えた。


瞬は、火に薪を足した。


ぱち、と火の粉が跳ねる。


「明日、何が出てもさ」


彼は言った。


「俺一人でどうにかしようとしない。メイの目も、ゼイクの判断も借りる」


ゼイクが横目で見る。


「ようやく学習したか」


「俺は成長する男だから」


「成長速度にむらがありすぎる」


「そこは個性で」


メイは、静かに笑った。


今度は、少しだけ長く。


瞬はその笑みを見て、胸の奥が温かくなった。


彼女はまだ救われきっていない。


怖さも、傷も、過去も、消えていない。


でも、焚き火の前で笑った。


騎士の過去に耳を傾け、自分の言葉で誰かを少しだけ支えた。


その姿が、瞬にはやはり眩しかった。


ゼイクは、泥のついた鎧のまま座っていた。


布はまだ懐にある。


だが、彼は拭かなかった。


その代わり、焚き火の光を受けながら、泥のしみを見下ろした。


「……任務中だ」


彼は、誰に言うでもなく呟いた。


瞬が笑う。


「それ、便利な言葉だな」


「便利ではない。規律だ」


「そうか」


瞬は少しだけ優しく言った。


「でも、今日はそのままでいいと思うぞ」


ゼイクは答えなかった。


しかし、泥を拭わなかった。


夜はさらに深くなる。


三人は交代で見張りをすることにした。


最初はゼイク。


次に瞬。


最後に、メイは申し出たが、二人に同時に止められた。


「怪我人は寝ろ」


「怪我人は休息だ」


声が重なった。


メイは驚いて二人を見る。


瞬とゼイクも、互いを見た。


そして、瞬が笑った。


「今、ちょっと息合ったな」


「不本意だ」


ゼイクは即答した。


メイは、外套にくるまりながら、小さく息を吐いた。


怖い森。


泥の記憶。


明日の不安。


それらは消えない。


それでも、火の音がある。


誰かが見張ってくれている。


名前を呼んでくれる人がいる。


泥を拭わずに座る騎士がいる。


メイは白いアイガードに触れた。


その下の紫の瞳は隠れている。


でも、今は閉じ込められているだけではなかった。


明日を見るために、少し休ませている。


そんなふうに思えた。


目を閉じる直前、森の奥からまた低い音がした。


ずず……。


地面の下を、何かがゆっくり移動するような音。


瞬が顔を上げる。


ゼイクが剣に手をかける。


しかし、音はそれ以上近づいてこなかった。


ただ、闇の奥で何かが待っている。


そんな気配だけを残して、森は再び静かになった。


メイはその気配を感じながら、眠りへ落ちていった。


明日、何が待っているのかはわからない。


物理の力さえ通じない何かが、森の奥で口を開けているのかもしれない。


けれど、今夜だけは。


焚き火の赤い光の中で、三人の影が同じ地面に揺れていた。


規律で心を閉じた騎士。


力で世界を押し広げてきた英雄。


そして、絶望の底から少しずつ戻り始めた少女。


まだ歪で、まだ弱く、まだ仲間とは呼びきれない。


それでも、その夜、三人は同じ火を囲んだ。


北の森の闇は、静かに息を潜めていた。


翌朝、その闇が、これまでのどんな相手とも違う形で牙を剥くことを、まだ誰も知らなかった。

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