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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第18話:直角に歩く男、騎士ゼイク 〜「完璧」とは、「一箇所のヒビで全壊するガラス細工」である〜

王都の北側へ向かう道には、冷たく澄んだ風が流れていた。


雨上がりの湿り気は、朝の陽射しに少しずつほどかれている。石畳の隙間に残った水は細く光り、通りの端に生えた草の先では、雫が小さな玉になって震えていた。


空は高い。


青というより、薄い氷を一枚張ったような色だった。そこから降りてくる光は柔らかいのに、どこか冷たく、建物の壁も、人々の影も、道端に転がる小石までも、くっきりと輪郭を持って見えた。


メイは、瞬の袖を掴んで歩いていた。


指先だけ。


ほんの少しだけ。


けれど、彼女にとってはそれで十分だった。


白いアイガードが左目を覆っている。朝の光を受けるたび、その白い革の縁が淡く光った。古びた布と違い、肌に当たる部分は柔らかく、視界を塞ぐ暗さも少しだけ整っている。


それでも、怖さが消えたわけではない。


通りを行き交う人の視線が、アイガードに触れるたび、胸の奥が冷たく縮む。誰かがひそひそと話す声。遠くで笑う声。金属の鎧が擦れる音。そういうものすべてが、過去の記憶を連れてくる。


霧の湖畔。


白銀の騎士。


剣先。


「正しい」と言いながら、自分を切り捨てた男。


メイは、瞬の袖を少し強く握った。


瞬はそれに気づき、歩幅をゆっくりにした。


「やっぱり、騎士は怖いか?」


メイは、少し迷ってから頷いた。


「……はい」


瞬は、茶化さなかった。


「そっか」


ただ、それだけ言った。


その受け止め方に、メイは少しだけ息がしやすくなった。


「でも、会うだけなら……できます」


「うん。会うだけな。嫌だったら帰る。ゼイクが変なこと言ったら、俺が全力で変なこと言い返す」


「それは、やめた方がいいと思います」


「大丈夫。俺の変なことは、だいたい世界を少し明るくする」


「昨日、石畳を少し割っていました」


「世界を物理的にも明るくしようとしたんだな」


「穴を開けたら、危ないです」


「正論が痛い」


瞬は胸を押さえた。


その大げさな仕草に、メイの口元がわずかに緩みかける。


けれど、すぐに訓練場の音が聞こえてきた。


金属のぶつかる音。


木剣が空を切る音。


兵士たちの掛け声。


その硬い響きに、メイの表情はまた少し強張った。


第四演習場は、石造りの高い壁に囲まれていた。


入口の両側には槍を持った兵士が立ち、内側からは、規則正しい足音と号令が流れてくる。雨に濡れた土は朝日を受けて少し乾きかけ、風が吹くたび、土と鉄と革の匂いが混じって鼻を打った。


瞬は入口で足を止めた。


「入れるか?」


メイは訓練場の中を見た。


怖い。


でも、逃げたいだけではなかった。


自分でここまで歩いてきた。


白いアイガードをつけて。


瞬の袖を掴んで。


一歩ずつ。


だから、ここで引き返すこともできる。進むこともできる。


選べる。


そのことが、彼女の胸に小さな支えを作っていた。


「……入ります」


「わかった」


瞬は頷き、訓練場へ足を踏み入れた。


その瞬間、空気が変わった。


広い演習場では、何十人もの兵士たちが訓練していた。木剣を打ち合う者。槍を構える者。走り込みをする者。掛け声が重なり、地面を踏む足音が低く響いている。


だが、その喧騒の中に、一か所だけ、異様なほど静かな場所があった。


演習場の隅。


そこだけが、まるで冬の朝の湖面のように張り詰めていた。


兵士たちは、その場所へ近づかない。


遠巻きに見ている。


尊敬というより、扱いに困っているものを見る目だった。


その中心に、一人の男がいた。


白銀の全身鎧。


磨き上げられた甲冑は、朝の光を受けて眩しいほど輝いている。肩にも胸にも泥一つない。雨上がりの演習場に立っているのに、まるで彼の周りだけ土が跳ねることを許されていないようだった。


その男は木剣を構えていた。


「……せいッ!」


木剣が振り下ろされる。


ひゅん、と鋭い音が空気を裂いた。


そして、地面すれすれでぴたりと止まる。


動かない。


呼吸さえ止まったような静止。


次の瞬間、男はまったく同じ動作で構え直し、同じ角度、同じ速度、同じ間合いで、再び木剣を振り下ろした。


「……せいッ!」


寸分の狂いもない。


一回目と二回目の違いが見えない。


人間の動きというより、精密に組まれた時計の歯車が、同じ音を刻み続けているようだった。


瞬は、思わず小さく声を漏らした。


「うわ、すげぇな」


メイも、息を呑んでいた。


怖い、と思った。


けれど、それだけではなかった。


完璧すぎる。


あまりにも整いすぎている。


それは強さにも見える。


でも、同時に、少しでも崩れたら二度と戻れないものを必死に守っているようにも見えた。


メイは、自分の白いアイガードに触れた。


隠すためのもの。


進むためのもの。


自分を守るための殻。


あの鎧も、もしかしたら同じなのかもしれない。


「リナさんが言ってた人、たぶんあれだな」


瞬が言う。


「ゼイクさん……」


メイは小さく名前を呟いた。


瞬は軽い足取りで近づこうとして、すぐに振り返った。


「メイ、ここで待つか?」


メイは首を振った。


「行きます」


「無理するなよ」


「……少し、気になります」


瞬は少しだけ目を丸くした。


それから、嬉しそうに笑いかけて、また抑えた。


「そっか。じゃあ、一緒に行こう」


二人が近づいても、ゼイクは素振りを止めなかった。


じゃり。


じゃり。


土を踏む音が近づく。


それでも、彼の木剣は同じ軌道を描き続ける。


「よう! こんにちは!」


瞬が明るく声をかけた。


ピタリ。


木剣が止まった。


地面から数ミリの位置で、完全に静止している。


風が吹いた。


訓練場の端に溜まっていた枯れ葉が、乾いた音を立てて転がっていく。


ゼイクは、ゆっくりと首だけをこちらへ向けた。


兜の奥から、青い瞳が覗く。


冷たい目だった。


だが、メイはその冷たさの奥に、別のものを感じた。


張り詰めすぎた糸のような緊張。


少しでも緩めれば切れてしまうものを、必死に保っている目。


「……貴様らか」


低い声。


感情の起伏はほとんどない。


「ギルドから連絡のあった、無礼極まりない英雄というのは」


瞬が目を丸くした。


「無礼!? 第一声からなかなか尖ってるな!」


ゼイクは答えず、懐から真っ白な布を取り出した。


そして、自分の鎧の肩を、さっ、と拭う。


まるで瞬の声が埃として付着したかのように。


瞬はその動作を見て、真顔になった。


「今、俺の挨拶、拭かれた?」


「雑音は鎧に悪い」


「挨拶にそんな物理効果あるの?」


ゼイクは無視した。


視線が、メイへ向く。


白いアイガード。


細い肩。


瞬の袖を掴む指。


ほんの一瞬、メイの体が硬くなった。


また来る。


魔女。


災い。


そう呼ばれるかもしれない。


だが、ゼイクの反応は違った。


彼はメイをじっと見たあと、すぐに視線を瞬へ戻した。


「そして、その連れか」


それだけだった。


拒絶の色は、薄い。


興味がないというより、判断を保留したような声だった。


メイは、自分でも気づかないほど小さく息を吐いた。


ゼイクは木剣を腰に戻し、瞬へ向き直る。


「帰れ」


「早っ」


「私は、貴様のような規律を持たぬ者とは組まない」


瞬は腰に手を当てた。


「まだ何も話してないだろ。俺の中にも規律くらいあるぞ」


「ほう」


ゼイクの瞳が、わずかに細くなる。


「では聞こう。貴様の規律とは何だ」


瞬は胸を張った。


「腹が減ったら飯を食う」


沈黙。


演習場の空気が、一瞬で固まった。


近くで訓練していた兵士の一人が、木剣を取り落とした。


からん。


乾いた音が響く。


ゼイクは、ゆっくりと目を閉じた。


「帰れ」


「なんでだよ! 生命活動の基本だろ!」


「基本すぎて規律ではない」


「じゃあ、困ってる子がいたら助ける」


ゼイクの目が開いた。


一瞬だけ、そこに揺れが走った。


瞬は続ける。


「あと、飯は温かいうちに食べる」


「後半が余計だ」


「大事だぞ」


「戦場で湯気を気にするな」


「冷めたスープは悲しいだろ」


ゼイクは眉間にしわを寄せた。


兜越しでもわかるほど、困惑している。


メイは、そのやり取りを聞きながら、不思議な感覚を覚えていた。


ゼイクは怖い。


声も冷たい。


立ち姿も、鎧も、すべてが硬い。


けれど、アレインとは違う。


アレインの正しさは、最初から自分を外側に置いていた。美しいもの、清らかなもの、守るべきもの。そこから外れた瞬間、剣を向けた。


でも、ゼイクはまだ何も決めていない。


冷たいけれど、切り捨ててはいない。


彼はただ、崩れることを恐れているように見えた。


「貴様」


ゼイクは瞬を上から下まで見た。


「立ち方が悪い。重心が右に寄りすぎている。姿勢に緊張感がない。装備の紐が二ミリほど解けている。髪も跳ねている。全体的に、美しくない」


瞬は自分の髪を触った。


「髪は寝癖じゃなくて個性だ」


「寝癖だ」


「断言された」


ゼイクはさらに続ける。


「何より、そのヘラヘラした顔だ。戦場に笑顔は不要。必要なのは冷静な判断、正確な手順、乱れなき規律。それだけだ」


「笑顔も結構大事だと思うけどな」


「不要だ」


「メイがちょっと笑うと、世界がだいぶ救われるぞ」


「なっ……」


メイが固まった。


頬に熱が集まる。


「しゅ、シュンさん、今それは……」


「事実だから」


「事実でも、言い方が……」


ゼイクは二人を見た。


その視線は冷たいままだった。


けれど、わずかに困惑している。


彼の整った世界の中に、瞬の言葉はあまりにも雑に入り込んでくるのだろう。


ゼイクは踵を返した。


その動作は、見事な直角だった。


九十度。


一歩。


また九十度。


正方形を描くように、彼は元の位置へ戻っていく。


瞬は口を開けた。


「……歩き方まで定規かよ」


メイは、じっとゼイクを見ていた。


そして、小さく言った。


「……あの人、怖がってる」


瞬が振り返る。


「怖がってる? ゼイクが?」


メイは頷いた。


「たぶん……失敗するのが、怖いんだと思います」


ゼイクの背中は、硬かった。


白銀の鎧は完璧に磨かれている。


泥一つない。


傷一つない。


でも、それは強さだけではない。


傷をつけられたら終わると思っている人の、必死な守りにも見えた。


「私も、ずっと隠してました」


メイは、白いアイガードに触れる。


「見られたら終わると思って。少しでも間違えたら、また嫌われると思って。だから、布の下に閉じこもっていました」


風が吹いた。


演習場の砂が、低く流れる。


「ゼイクさんの鎧も……少し、似てる気がします」


瞬は、しばらくメイを見ていた。


胸の奥が、また静かに熱くなる。


この子は、自分の傷に沈むだけではない。


自分と似た痛みを、他人の中に見つけようとしている。


あれほど傷つけられてきたのに。


まだ、誰かの痛みに気づこうとしている。


瞬は思った。


やっぱり、そこに惹かれているのだと。


「……話してみるか?」


瞬が聞いた。


メイは少しだけ怖そうにゼイクを見た。


それでも、頷いた。


「はい」


メイは一歩前へ出た。


瞬の袖から、指が離れる。


ほんの少し。


けれど、それは大きな一歩だった。


ゼイクの素振りが止まる。


彼は振り返らない。


「去れと言ったはずだ」


低い声。


メイの足がすくみかける。


だが、彼女は止まらなかった。


「……鎧、重くないですか?」


ゼイクの肩が、わずかに動いた。


「何の話だ」


「その鎧です。とても綺麗です。傷もなくて、汚れもなくて……すごく大切にしているんだと思います」


ゼイクはゆっくり振り返った。


青い瞳が、メイを射抜く。


メイの膝が震える。


怖い。


それでも、声を続けた。


「でも、それをずっと綺麗なままにしておくのは……苦しくないですか」


演習場の音が、少し遠のいた。


ゼイクの目が、初めて明確に揺れた。


「……貴様に、何がわかる」


声は低かった。


怒りも混じっていた。


だが、その怒りはメイへ向けた刃というより、自分の奥へ踏み込まれた者の防御に見えた。


「騎士たるもの、常に整っていなければならない。鎧の乱れは心の乱れ。心の乱れは判断の乱れ。判断の乱れは、守るべき者の死に直結する」


ゼイクは言い切った。


「完璧でなければ、人は守れない」


その言葉に、メイの胸が痛んだ。


完璧でなければ。


正しくなければ。


綺麗でなければ。


受け入れられない。


その考えは、自分を追い詰めてきたものと似ていた。


メイは、小さく首を振った。


「でも……」


声が震える。


「ずっと完璧じゃなきゃいけないなら、転んだ時、立てなくなります」


ゼイクの表情が止まった。


メイは続けた。


「泥がついたら終わりだと思っていたら、雨の日に外へ出られなくなります」


瞬は、その言葉を黙って聞いていた。


昨日までのメイなら、きっとこんなことは言えなかった。


怖い相手に向き合い、自分の痛みを言葉に変え、誰かへ渡すこと。


それは、ただ守られるだけの姿ではない。


救われ始めた人間が、今度は誰かの傷に触れようとする姿だった。


ゼイクは、しばらくメイを見つめていた。


やがて、ふん、と鼻を鳴らす。


「詭弁だ」


「……そうかもしれません」


「私は転ばない」


「転んだことが、ないんですか」


ゼイクは答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


瞬は横から小さく呟いた。


「絶対あるやつだ」


「黙れ、無礼な英雄」


「すみません」


瞬は素直に謝った。


ゼイクは懐から真っ白な布を取り出し、鎧の肘を拭った。


そこには何もついていない。


それでも、拭かずにはいられないようだった。


やがて彼は、低く言った。


「いいだろう」


瞬が首を傾げる。


「何が?」


「貴様らが、私の隣に立つ資格があるか試してやる」


ゼイクは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


几帳面に折り畳まれたそれを広げると、そこには細かな図形と、びっしりと書き込まれた文字が並んでいた。


瞬は覗き込み、三秒で顔をしかめた。


「字が多い」


「情報量が多いと言え」


「読む前に心が負けそう」


「軟弱な心だ」


ゼイクは羊皮紙を瞬の胸元へ突きつけた。


「北の森に、暴走した土石系ゴーレムが出現している。ギルド経由で討伐依頼が回ってきたが、私は単独で十分だと判断していた」


「単独で十分なら、俺たちいらなくない?」


「本来ならな」


ゼイクの視線が、わずかにメイへ向く。


「だが、その娘の言葉が少し気に入らん」


「気に入らないから試すのか?」


「そうだ。間違っていることを証明するためだ」


瞬はメイを見た。


メイは少し困ったように眉を寄せた。


「……怒らせてしまいましたか」


「いや、たぶん刺さったんだと思う」


「刺さった?」


「心の関節に」


「心に関節があるんですか」


「たぶんある。ゼイクは全部直角に曲がりそうだし」


「聞こえているぞ」


ゼイクの声が飛んだ。


瞬は肩をすくめる。


ゼイクは羊皮紙を掲げた。


「条件は一つ。私の作戦に従うこと。一歩の遅れも、一手の無駄も許さない。私の指示通りに動けるなら、組んでやらんでもない」


上から目線だった。


完全に上からだった。


だが、メイには、その言葉の奥に別のものが聞こえた。


自分の世界を壊されるのが怖い。


だから、自分の決めた形の中へ相手を入れようとしている。


それは拒絶ではある。


でも、完全な拒絶ではない。


試す、という形で、ほんの少しだけ扉を開けている。


瞬は羊皮紙を受け取った。


そして、にっと笑った。


「面白そうじゃん」


ゼイクの眉が動く。


「遊びではない」


「わかってる。でも、やってみよう」


瞬はメイを見る。


「どうする? メイが嫌なら断る」


メイはゼイクを見た。


怖い。


森も怖い。


戦いも怖い。


でも、ゼイクの鎧の奥にあるものが気になった。


それに、瞬は聞いてくれている。


行くかどうかを、自分に選ばせてくれている。


メイは白いアイガードに触れた。


「……会うだけのつもりでしたけど」


「うん」


「少しだけ……見てみたいです」


「ゼイクを?」


「はい。あの鎧の中が、どんな人なのか」


瞬は、静かに笑った。


「わかった」


ゼイクはふんと鼻を鳴らした。


「私の内側など詮索するな。不愉快だ」


瞬は軽く手を上げる。


「じゃあ外側からいくか。まずそのピカピカの鎧、すごいな。俺の顔が映る」


「近づくな。指紋がつく」


「サイン書いたら映えるぞ」


「貴様、私の甲冑に落書きする気か」


「落書きじゃない。英雄サインだ。将来プレミアつく」


「今すぐ貴様の額に『無礼』と書いてやろうか」


「それはそれで異世界っぽいな」


メイは、二人のやり取りを聞いて、ほんの少しだけ笑った。


緊張が残る訓練場の中で。


騎士の冷たい声と、瞬の明るすぎる声がぶつかる中で。


その笑みは、まだ小さかった。


けれど、確かにそこにあった。


ゼイクは、その笑みに一瞬だけ視線を止めた。


白いアイガードの少女。


紫の瞳の噂を背負っているはずの少女。


怖がりながらも、自分へ言葉を投げた少女。


その存在は、彼の完璧な手順書には載っていなかった。


だからこそ、不愉快で。


だからこそ、無視できなかった。


「準備しろ」


ゼイクは踵を返した。


また直角に。


「北の森へ向かう。時間厳守だ」


瞬は羊皮紙をひらひらさせた。


「今から?」


「当然だ」


「昼飯は?」


「任務後だ」


「メイ、これは重大な問題だ」


「……任務後に、温かいものを食べましょう」


メイが小さく言った。


瞬は真剣に頷いた。


「よし。世界を救う理由ができた」


「ゴーレム一体で世界を背負うな」


ゼイクが即座に言った。


そのツッコミは硬かった。


だが、初めて少しだけ会話になっていた。


冬の風が演習場を吹き抜ける。


枯れ葉が一枚、白銀の鎧の足元へ滑ってきた。


ゼイクはそれを見て、わずかに眉をひそめた。


だが、今回は拭わなかった。


ただ、木剣を置き、実剣を腰に差す。


瞬はメイの方へ手を出しかけ、途中で止める。


代わりに、袖を少しだけメイの方へ寄せた。


掴むかどうかは、彼女に任せるように。


メイはそれを見て、少し迷った。


それから、また指先で袖を掴んだ。


怖いまま。


でも、戻らずに。


三人は演習場の出口へ向かった。


直角に歩く騎士。


規格外の英雄。


白いアイガードの少女。


まだ仲間ではない。


まだ信頼も薄い。


けれど、三つの違う孤独が、初めて同じ方向へ歩き出した。


北の森には、想定外のものが待っている。


そしてその想定外こそが、ゼイクの完璧な鎧に、最初のヒビを入れることになる。


北の森へ向かう道は、王都の喧騒から離れるほど静かになっていった。


雨上がりの街道には、まだ水の匂いが残っている。石畳はやがて土の道へ変わり、馬車の轍には薄く水が溜まっていた。風が吹くたび、道端の草が低く波打ち、葉先についた雫がきらりと光っては落ちる。


遠くで鳥が鳴いた。


王都の鐘の音はもう聞こえない。代わりに、森の奥から流れてくる葉擦れの音が、少しずつ大きくなっていく。ざわ、ざわ、と木々が揺れ、そのたびに濡れた枝から水滴がこぼれた。


先頭を歩くのはゼイクだった。


背筋はまっすぐ。


歩幅は一定。


鎧の揺れさえ整っている。


彼は街道の泥を避けるため、わずかに足を置く位置を変えながら歩いていた。だが、その動きすら規則正しい。まるで地面に見えない線が引かれていて、その上だけを正確に進んでいるようだった。


瞬はその後ろを歩きながら、ぼそりと呟いた。


「泥にすら礼儀正しく勝ってるな」


「聞こえている」


ゼイクが前を向いたまま言った。


「褒めてる」


「貴様の褒め言葉は、なぜ毎回、人を微妙に不快にする」


「才能かな」


「不要な才能だ」


メイは二人の後ろで、瞬の袖を指先で掴んでいた。


白いアイガードの下、左目は隠れている。けれど、隠していることを責められないだけで、胸の中の息苦しさは少し違っていた。


森へ向かうことは怖い。


戦いも怖い。


ゼイクもまだ怖い。


けれど、今は逃げるために歩いているのではない。


自分で「見てみたい」と言ったから、ここにいる。


その事実が、足元に小さな芯を作っていた。


やがて、森の入口が見えた。


北の森は、王都近くにあるとは思えないほど深かった。幹の太い木々が立ち並び、湿った土の匂いが風に乗って流れてくる。雨を吸った苔が石に貼りつき、低い草が道の端を覆っていた。


森の中へ入った瞬間、空気が変わった。


光がやわらかく遮られる。


枝葉の隙間から差し込む陽射しは細い線となり、地面にまだらな模様を落としていた。鳥の声は遠く、代わりに、どこかで水が滴る音が響いている。


ぴちょん。


ぴちょん。


その音が、森の静けさの中で妙に大きく聞こえた。


メイは、無意識に足を止めかけた。


雨の森。


罠。


泥。


冷たい地面。


記憶が胸の奥を掴む。


瞬は、すぐに気づいた。


「戻るか?」


メイは首を振った。


声を出すには少し時間がかかった。


「……大丈夫じゃないです」


「うん」


「でも……進みます」


瞬は、静かに頷いた。


「わかった」


ゼイクが振り返る。


「任務中に感情の確認を挟むな。隊列が乱れる」


瞬は言い返そうとした。


だが、その前にメイが小さく言った。


「……乱れても、確認した方がいいこともあると思います」


ゼイクの眉が動いた。


メイ自身も、自分が言ったことに驚いたように口を閉じる。


瞬は、驚きを隠しきれない顔でメイを見た。


その視線に気づき、メイは慌てて俯く。


「す、すみません……」


「いや」


瞬は笑った。


「今の、すごくよかった」


メイの頬が少し赤くなった。


ゼイクは、ふんと鼻を鳴らした。


「甘い。だが、記録しておく価値はある」


「今、ちょっと認めた?」


「記録すると言っただけだ」


「ゼイク語では認めたって意味だな」


「違う」


その時だった。


森の奥から、低い地鳴りが響いた。


ずずん。


木々の葉が震えた。


地面に溜まった水が、小さく波打つ。


メイの指が、瞬の袖を強く掴む。


ゼイクが瞬時に剣へ手をかけた。


表情が変わる。


先ほどまでの硬い不機嫌さが消え、冷たい集中が宿る。


「来る」


その声の直後、前方の木々が大きく揺れた。


幹と幹の間から、巨大な影が現れる。


土と石でできた体。


雨を吸った泥が固まり、岩の塊が関節のように重なっている。肩の部分からは木の根が垂れ、赤黒い光が胸の奥で鈍く明滅していた。


ゴーレムだった。


人の背丈の三倍はある。


歩くたびに、地面が沈んだ。濡れた土が跳ね、倒れた枝がその足に踏み砕かれて、ばきり、と乾いた音を立てる。


ゼイクが剣を抜いた。


「作戦通りに動く。私が前衛で注意を引く。瞬、貴様は右側面へ回り、関節部を――」


「殴れば倒れる?」


「最後まで聞け!」


ゼイクの声が森に響いた。


瞬は真面目に頷いた。


「聞く。今度はちゃんと聞く」


その言葉には、昨日までとは違う重みがあった。


メイはそれに気づいた。


瞬は、本当に学ぼうとしている。


力で全部を押し切るのではなく、誰かの言葉を聞こうとしている。


それは小さな変化だった。


でも、メイには眩しかった。


ゼイクは一瞬だけ意外そうにしたが、すぐに指示を続けた。


「胸部の赤い核が弱点だ。だが正面から狙えば泥の外殻に阻まれる。足を崩し、姿勢を落とす。その後、核を狙う」


「了解」


「メイ、貴様は後方に下がれ」


ゼイクが言った。


メイは頷きかけた。


その時、ゴーレムの胸の光が強く脈打った。


赤黒い光。


不規則な鼓動。


それを見た瞬間、メイの胸がざわついた。


「……待って」


声が出た。


ゼイクが振り返る。


「何だ」


「胸じゃ……ないかもしれません」


瞬とゼイクが、同時にメイを見る。


メイはアイガードの縁を押さえた。


怖い。


間違っているかもしれない。


自分が口を出して、作戦を乱すかもしれない。


でも、見えた。


胸の光は目立つ。


けれど、ゴーレムが足を踏み出すたび、首の後ろにある小さな石片がわずかに光っている。


まるで、操り糸の結び目のように。


「あそこ……首の後ろ。小さい石が光っています。胸は……たぶん、誘いです」


ゼイクの目が細くなる。


「根拠は」


「動く時、胸より先に、そこが光ります」


森が揺れる。


ゴーレムが腕を振り上げた。


時間はない。


ゼイクは、ほんの一瞬だけ迷った。


完璧な作戦。


自分の読み。


手順。


それを崩すか。


白いアイガードの少女の言葉を信じるか。


彼の指が剣の柄を強く握る。


「……作戦変更」


低い声だった。


瞬が目を丸くする。


「おお」


「感動するな。状況に応じた修正だ」


「それを柔軟って言うんだぞ」


「黙れ。右へ回れ。私が脚を止める。貴様は首の後ろを狙え」


「了解」


瞬は地面を蹴った。


だが、いつものような爆発ではない。


森を壊さないように。


メイを巻き込まないように。


必要な分だけ。


彼の体が風のように右へ回り込む。


ゼイクは正面から走った。


白銀の鎧が、森の光を弾く。


ゴーレムの腕が落ちる。


巨大な泥と岩の塊が、ゼイクを押し潰そうと迫った。


メイは息を呑んだ。


霧の湖畔の騎士を思い出す。


泥の怪物に吹き飛ばされたアレイン。


正しさを語り、救われたあとに剣を向けた男。


だが、ゼイクは違った。


彼は逃げなかった。


そして、叫ばなかった。


ただ、正確に踏み込んだ。


剣が、ゴーレムの腕の側面を滑るように走る。


斬るのではなく、受け流す。


巨大な腕がわずかに軌道を逸らし、地面へ叩きつけられた。泥が跳ね、土が爆ぜ、ゼイクの鎧に泥が散る。


白銀の胸当てに、黒い泥がついた。


メイは思わず目を見開いた。


ゼイクも、自分の鎧を一瞬見た。


完璧な鎧についた泥。


それは、彼にとって小さくないはずだった。


しかし、ゼイクは拭わなかった。


「今は後だ」


彼は低く言った。


そして、再び剣を構えた。


その姿を見て、メイの胸が震えた。


泥がついても、立っている。


完璧ではなくなっても、前にいる。


それは、ゼイク自身が自分の殻に入れた最初の小さなヒビだった。


瞬は右側面へ回り込んでいた。


「首の後ろ、確認!」


彼の声が響く。


ゴーレムが振り返ろうとする。


だが、ゼイクが脚へ斬撃を入れた。


岩と泥の足が大きく揺らぐ。


「今だ!」


瞬が飛んだ。


跳ぶ、というより、空気を踏んだような動きだった。


木々の間を抜け、ゴーレムの背後へ回る。


その拳が、首の後ろの小さな石片へ向かう。


メイは思わず叫んだ。


「強くしすぎないで!」


「了解!」


瞬は、拳を止めた。


寸前で。


そして、指先だけで石片を弾いた。


ぱきん。


乾いた音。


それは、とても小さな音だった。


だが、森全体が静まり返った。


ゴーレムの胸の赤い光が、ふっと消える。


巨体が傾いた。


泥と岩の関節が崩れ、体を支えていた力が抜けていく。ずずず、と重たい音を立てながら、ゴーレムはその場に膝をついた。


そして、ゆっくりと崩れた。


大量の泥と石が地面へ流れ、最後に、胸の赤い核もただの濁った石になって転がった。


静寂が戻った。


葉から落ちる水滴の音。


遠くの鳥の声。


風に揺れる草の音。


メイは、震える息を吐いた。


倒せた。


誰も潰されなかった。


森も、大きく壊れなかった。


瞬はゴーレムの背後から顔を出した。


「どうだ、今の力加減」


ゼイクは泥のついた鎧のまま、厳しい顔で言った。


「及第点だ」


「やった。褒められた」


「及第点は褒め言葉ではない」


「ゼイク語では最大級の称賛だろ」


「違う」


ゼイクはそう言いながら、自分の鎧を見下ろした。


泥がついている。


肩にも、胸にも、足にも。


完璧だった白銀は、今や森の土と雨の跡をまとっていた。


彼は懐から布を取り出しかけた。


だが、その手が止まる。


メイが見ていた。


白いアイガードの奥から。


怯えながらも、逃げずに。


ゼイクは、ゆっくり布をしまった。


「……任務中だ」


それだけ言った。


瞬は何も言わなかった。


茶化さなかった。


メイも、何も言わなかった。


けれど、その沈黙は温かかった。


ゼイクはメイへ向き直る。


「貴様の観察は正しかった」


メイは肩を震わせた。


褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。


「……いえ、たまたまです」


「たまたまで戦場の要点は見抜けない」


ゼイクは硬い声で言った。


「私は、胸部の光に惑わされた。貴様は違った。認める」


認める。


その言葉が、メイの胸に静かに落ちた。


騎士から向けられた言葉。


以前は、剣を向けられた。


今回は、認めると言われた。


まだ怖い。


それでも、すべての騎士が同じではないのかもしれない。


そんな考えが、ほんの少しだけ芽生えた。


瞬は嬉しそうにメイを見た。


「すごいな、メイ」


「……そんな」


「すごい。俺とゼイクだけだったら、胸を殴って、たぶん大変なことになってた」


「貴様と一緒にするな」


ゼイクが即座に言う。


「私は胸部を斬ったあと、第二案へ移行する予定だった」


「第二案って?」


「泥を浴びても続行する」


「それ、案というか根性だな」


ゼイクは黙った。


メイは、思わず小さく笑った。


本当に小さな笑みだった。


でも、ゼイクはそれを見た。


瞬も見た。


そして、誰もそれを壊さなかった。


森の中に、柔らかい風が吹いた。


濡れた葉が揺れ、水滴が光の粒になって落ちる。


メイは白いアイガードに触れた。


怖いまま来た。


怖いまま戦いを見た。


怖いまま声を出した。


でも、その声は届いた。


届いて、誰かを助けた。


瞬はメイのそばに立った。


「帰ったら飯だな」


メイは静かに頷いた。


「温かいものがいいです」


「よし。決定。ゼイクも来るか?」


ゼイクは泥だらけの鎧で硬直した。


「私は任務報告がある」


「飯の後でいいだろ」


「順序が逆だ」


「腹が減ってたら報告書の文字も曲がるぞ」


「私の文字は曲がらん」


「鎧は泥ついたぞ」


ゼイクが黙った。


瞬は勝ち誇った顔をした。


「勝った」


「勝っていない」


ゼイクはしばらく沈黙し、それから小さく息を吐いた。


「……任務報告後、十分だけなら同行してやる」


瞬が目を輝かせる。


「それ、飯来るやつだ!」


「十分だ」


「食うの速そうだな」


「食事も規律だ」


「それはちょっとわかる」


メイは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥に残っていた冷たさが少しだけ薄れていくのを感じた。


まだ救われたわけではない。


まだ人目は怖い。


紫の瞳を晒す勇気もない。


でも、今日の自分は、昨日とは少し違う。


白いアイガードをつけて外へ出た。


騎士と話した。


怖いまま、声を出した。


その声が、届いた。


それだけで、明日へ進むための小さな火種にはなった。


帰り道。


ゼイクは先頭を歩いた。


鎧には泥がついたままだった。


何度か拭きたそうに手が動いたが、そのたびに止めている。


瞬はそれを見て、にやにやしていた。


「成長だな」


「黙れ」


「泥つきゼイク、ちょっと人間味あるぞ」


「私は元から人間だ」


「最初は鎧の精霊かと思った」


「貴様の認識能力には重大な欠陥がある」


メイは、瞬の袖を掴んで歩いた。


けれど、行きより少しだけ力は弱かった。


袖を掴まなくても歩けるかもしれない。


まだそう思えるほどではない。


でも、いつか。


ほんの少しだけ、そんな未来を想像した。


森の出口が近づく。


王都の城壁が、雨上がりの光の中に見えた。


白く高く、まだ少し怖い街。


けれど、そこには温かいスープもある。


名前を呼んでくれる人もいる。


そして、少し面倒で、石頭で、泥をつけても前に立つ騎士もいる。


メイは、深く息を吸った。


濡れた草の匂い。


土の匂い。


遠くから流れてくる街の匂い。


それらが胸に入ってくる。


息が、昨日より少しだけ深く吸えた。


瞬は、その横顔を見ていた。


白いアイガードの少女。


傷つきながらも、前へ歩こうとする少女。


怖いまま誰かの痛みに気づき、声を出せる少女。


やはり、惹かれている。


その強さに。


その危うさに。


その小さな一歩に。


瞬は、少しだけ笑った。


「メイ」


「……はい」


「帰ったら、何食べたい?」


メイは少し考えた。


そして、遠慮がちに言った。


「……スープが、いいです」


瞬は大きく頷いた。


「決まりだ」


ゼイクが前を向いたまま言う。


「任務報告が先だ」


瞬とメイは、同時に言った。


「十分だけなら同行するんですよね」


「十分だけなら来るんですよね」


ゼイクの足が、一瞬止まった。


それから彼は、ほんのわずかに顔を背けた。


「……貴様ら、妙なところで息を合わせるな」


その声は、まだ硬かった。


けれど、少しだけ温度があった。


三人は王都へ向かって歩いた。


直角に歩く騎士。


規格外の英雄。


白いアイガードの少女。


まだ仲間と呼ぶには早い。


まだ傷は深い。


まだ信頼は薄い。


けれど、森の中で交わされた言葉と、泥のついた鎧と、届いた小さな声が、三人の間に細い糸を結んでいた。


それは頼りなく、いつ切れてもおかしくない糸だった。


でも、確かにそこにあった。


そしてその糸は、メイが絶望の底から戻ってくるための、最初の道しるべになるのだった。

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