表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/22

第17話:白いアイガードと、最初の一歩 〜明日とは、怖いまま足を出した先にあるものである〜

雨が上がってから、三日が過ぎた。


王都グランドルの空は、嘘のように晴れていた。


嵐の夜に厚く垂れ込めていた雲はどこかへ流れ去り、朝の空には薄い青が広がっている。古い屋根の端にはまだ雨粒が残り、太陽が昇るたび、それらは小さな光の粒になって震えた。


空き家の板張りの窓にも、細い光が差し込んでいる。


斜めに落ちた光の筋の中で、埃がゆっくり舞っていた。雨で湿っていた床は、暖炉の火で少しずつ乾き、壁際に寄せた落ち葉からは、乾いた草の匂いがかすかに立っている。


外では、遠くの大通りから人の声が聞こえた。


荷馬車の車輪が石畳を踏む音。


パン屋の鐘。


市場へ向かう人々の足音。


雨に洗われた王都は、何事もなかったように日常へ戻っていた。


けれど、メイの中では、まだ夜が続いていた。


彼女は暖炉のそばに座り、膝の上で古びた布を握っていた。


左目には、いつものようにその布を巻いている。何度も雨を吸い、泥に汚れ、血の跡まで残った布だ。洗ってはある。瞬が不器用に何度も水を替え、乾かしてくれた。


けれど、汚れは完全には落ちなかった。


赤黒く沈んだ染み。


擦り切れた端。


ほどけかけた糸。


それは、メイが歩いてきた道そのもののようだった。


「……」


メイは指で布の端を撫でた。


この布がなければ、人前には出られない。


けれど、この布を見るたび、思い出してしまう。


石を投げられた夜。


宿場町の雨。


騎士の剣先。


渓谷の砂。


王都の月明かり。


布は守ってくれた。


でも同時に、閉じ込めてもいた。


そのことを、メイは少しだけわかり始めていた。


「起きてるかー」


空き家の扉が、ぎい、と鳴った。


メイの肩が小さく跳ねる。


入ってきたのは瞬だった。


両腕いっぱいに、紙包みや布袋を抱えている。髪は寝癖のように跳ねていて、服はまだどこか泥の跡が残っている。だが、顔だけはやけに明るかった。


「朝飯、確保してきた」


瞬は勝ち誇った顔で言った。


「ちゃんと買った。盗んでない。偉い」


メイは少しだけ目を瞬かせた。


「……買うのは、普通では」


「普通をちゃんとできるのは偉いって、昨日俺が言っただろ」


「それは、私に言った言葉です」


「俺にも適用される。自分を褒めて伸ばす方針でいく」


瞬はそう言って、床に布を広げた。


中から出てきたのは、丸いパン、干し肉、温かさの残るスープを入れた蓋つきの壺、それから焼き菓子が二つ。


メイは、焼き菓子を見て固まった。


「……それは」


「甘いやつ」


「見れば、わかります」


「じゃあ説明いらなかったな」


瞬は真剣に頷いた。


メイの口元が、ほんの少しだけ緩みかけた。


それに気づいて、彼女は慌てて顔を伏せる。


瞬は見なかったふりをした。


この三日で、少しだけわかってきた。


メイは、笑いそうになると隠す。


嬉しい時ほど、怖がる。


何かを受け取る時、必ず一度ためらう。


そして、ありがとうと言う時には、まるで許しを乞うように小さくなる。


だから瞬は、急がないことにした。


食べろ、と押しつけない。


笑え、と言わない。


信じろ、と迫らない。


ただ、そこに置く。


彼女が手を伸ばせる場所に、温かいものを置く。


それが今の自分にできる、一番壊さないやり方だと思った。


「スープ、飲めそうか?」


「……はい」


メイは小さく頷いた。


声はまだ細い。


けれど、初日の朝のように震えてはいなかった。


瞬は壺からスープを器へ注いだ。


湯気が立つ。


根菜と鶏肉の匂いが、古い空き家の湿った空気を少しだけ押しのけた。暖炉の火がぱちりと鳴り、窓から差し込む光が湯気に触れて、白く揺れる。


メイは器を受け取った。


一瞬だけ、瞬の指と触れそうになり、びくりとした。


瞬はすぐに手を引いた。


「悪い」


「……いえ」


メイは器を両手で包み込む。


温かい。


この温もりは、まだ怖い。


でも、以前ほど痛くはない。


彼女は、ゆっくりと一口飲んだ。


喉を通る熱。


体の奥へ落ちる感覚。


昨日より、少し味がわかった。


「……おいしいです」


その言葉を聞いて、瞬は露骨に嬉しそうな顔をした。


「よし。店のおばちゃんに伝えとく」


「お店の人に、私のことは……」


メイの声が急に細くなった。


瞬は首を振った。


「言ってない。俺が食うって言って買った」


「でも、こんなにたくさん……」


「俺が大食いに見えたんだろ」


メイは瞬を見た。


たしかに、食べそうではある。


そう思ってしまった自分に気づき、彼女は慌てて視線を伏せた。


瞬はなぜか胸を張った。


「今、納得した顔したな」


「してません」


「いや、した。俺は今、食いしん坊認定された」


「してません」


「まあ、実際食べるけど」


「……」


メイは匙を持ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。


この会話には、罠がない。


正しさを押しつけられることもない。


何かを試されているわけでもない。


ただ、どうでもいいことを言い合っているだけ。


それが、こんなにも呼吸を楽にするのだと、メイは知らなかった。


しばらく、二人は黙って朝食を食べた。


沈黙はあった。


けれど、それは怖い沈黙ではなかった。


薪の弾ける音。


スープをすする小さな音。


外を通る荷車の遠い響き。


屋根から最後の雫が落ちる、ぽたりという音。


それらが、言葉の隙間を静かに満たしていた。


食事が終わる頃、瞬は少しだけ表情を改めた。


「メイ」


名前を呼ばれて、メイは顔を上げた。


まだその音に慣れない。


けれど、逃げたくなるほどではなくなっていた。


「これ、渡したくて買ってきた」


瞬は、布袋の中から小さな包みを取り出した。


白い布で丁寧に包まれている。


メイは、それを見つめた。


「……何ですか」


「見てから判断してくれ。嫌だったら使わなくていい」


瞬はそう言って、包みをメイの前に置いた。


手渡ししない。


いつものように、選べる距離に置く。


メイは、恐る恐る手を伸ばした。


布をほどく。


中にあったのは、白い革で作られた小さなアイガードだった。


片目を覆うためのもの。


だが、これまでメイが使っていた古布とはまるで違った。


革は柔らかく、丁寧に磨かれている。縁には細い銀色の糸が縫い込まれ、留め具も小さく、肌に当たる部分には薄い布が貼られていた。実用品ではあるが、粗末なものではない。


白。


汚れを隠す色ではなく、朝の光を受ける色。


メイは息を止めた。


「……これ」


「店で見つけた。いや、正確には、防具屋のおっちゃんに聞きまくって作ってもらった。片目を保護する装具ってないかって」


瞬は少しだけ照れたように頬をかいた。


「古い布だと、傷にもよくなさそうだし。雨で濡れると冷たいし。あと……」


そこで、彼は言葉を選んだ。


「お前が隠したい時に、ちゃんと隠せるものがあった方がいいと思った」


メイは、白いアイガードから目を離せなかった。


隠すもの。


でも、押しつけられたものではない。


恐怖で巻きつけるものでもない。


これは、瞬が買ってきたものだ。


メイが外へ出るために。


メイが自分で選べるように。


「俺は、隠さなくてもいいと思ってる」


瞬は静かに言った。


メイの指が震える。


「でも、怖いなら隠していい。隠してるから弱いとか、隠さないから強いとか、そういう話じゃないと思う」


瞬は、真っ直ぐにメイを見た。


「お前が今日、外に出るために必要なら、それは逃げじゃない。準備だ」


準備。


メイは、その言葉を胸の中で繰り返した。


今まで、布は逃げるためのものだった。


見つからないためのものだった。


嫌われないために、存在を小さくするためのものだった。


でも、これは違うのだろうか。


外へ出るためのもの。


歩くためのもの。


誰かの隣に立つためのもの。


メイの目に、熱が滲んだ。


「……白いんですね」


「うん」


「汚したら……」


「洗えばいい」


瞬は即答した。


「破れたら?」


「直す。俺が無理なら、直せる人を探す」


「なくしたら……」


「また買う」


「迷惑です」


「迷惑じゃない」


「でも……」


瞬は、少しだけ笑った。


「メイ」


その声は優しかった。


けれど、甘やかすだけではなかった。


「俺は、お前に何かしてやりたいんだ。だから、俺が勝手にしたいことまで全部“迷惑”って言われると、ちょっと困る」


メイは、言葉に詰まった。


瞬は続ける。


「もちろん、嫌なことは嫌って言っていい。いらないものはいらないって言っていい。でも、これが少しでも助けになるなら、受け取ってほしい」


メイは、白いアイガードを両手で包み込んだ。


革はまだ新しく、少しだけ硬い。


けれど、手の中で確かに形を持っている。


「……怖いです」


メイは正直に言った。


「これをつけても、外に出るのは怖いです」


「うん」


「人に見られるのも、噂されるのも、怖いです」


「うん」


「シュンさんが隣にいても……怖いです」


瞬は、少しだけ目を伏せた。


それから頷いた。


「それでいい」


メイは顔を上げた。


「怖いままでいい。怖くなくなってから外に出るんじゃ、たぶん一生出られない日もある」


瞬は扉の方を見た。


古い木の扉。


その向こうには、王都の朝がある。


人の声。


視線。


噂。


怖いものばかりだ。


けれど、その中にしか次の道もない。


「だから、今日は一歩だけでいい」


瞬は言った。


「空き家の扉を出る。無理ならそこで戻る。もう一歩行けそうなら、通りの角まで行く。それも無理なら戻る」


彼は、少し照れたように笑った。


「で、もし行けたら、うまいもの食って帰る」


メイは目を瞬かせた。


「結局、食べるんですね」


「食事は大事だ。世界平和の八割は飯でどうにかなる」


「それは多すぎると思います」


「じゃあ七割」


「まだ多いです」


「六割五分」


「細かくなりました」


メイの口元が、わずかにほどけた。


瞬は、その小さな笑みを見て、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


やっぱり、と思った。


この笑みを守りたい。


いや、守るというより、もっと見たい。


怯えの奥に隠れている、この不器用な柔らかさを。


傷ついたままでも、まだ笑おうとする力を。


瞬は、その強さに惹かれていた。


メイは白いアイガードを見つめた。


そして、ゆっくりと古い布へ手をかけた。


一瞬、指が止まる。


布を外すことは、今でも怖い。


でも、瞬は視線を逸らしていた。


見ないでくれている。


見ようと思えば見られるのに。


見たいと言えば、きっとメイは断れないのに。


それでも、彼は待っている。


メイは、少しだけ息を吸った。


古びた布を外す。


左目に朝の空気が触れる。


心臓が跳ねる。


だが、瞬は見ていない。


メイは、白いアイガードをそっと当てた。


留め具を探す。


指が震える。


うまく留まらない。


何度か失敗する。


瞬は、まだ見ない。


「……シュンさん」


「ん?」


「少しだけ……手伝って、もらってもいいですか」


瞬の呼吸が、一瞬止まった。


けれど、彼はすぐに頷いた。


「もちろん」


ゆっくり近づく。


急がない。


手を伸ばす前に、確認する。


「触るぞ」


メイは小さく頷いた。


瞬の指が、留め具に触れた。


彼の手は温かかった。


怖くない、と言えば嘘になる。


でも、以前のように全身が凍るほどではなかった。


カチリ。


小さな音がした。


白いアイガードが、メイの左目を覆った。


視界の半分が暗くなる。


けれど、その暗さは、古い布の時とは少し違った。


息苦しさではない。


準備のための暗さ。


前へ進むために、自分で選んだ暗さ。


瞬は一歩下がり、そこで初めてメイを見た。


白いアイガード。


柔らかな銀髪。


まだ疲れの残る頬。


細い肩。


けれど、昨日までの泥と雨に沈んだ少女とは違って見えた。


傷はある。


怯えも残っている。


でも、朝の光の中で、彼女は確かに立とうとしていた。


瞬は、息を呑んだ。


今度は、遅れなかった。


「似合ってる」


メイの頬が、ほんの少し赤くなった。


「……変じゃ、ないですか」


「全然。めちゃくちゃ可愛い」


「……かわっ」


メイは固まった。


瞬は真顔で言った。


「可愛い。白、すごく似合う」


「そ、そんなこと……」


「ある」


瞬は迷わず言った。


「あと、これは大事なことだから何度でも言うけど、アイガードをつけてても、つけてなくても、メイはメイだ」


メイは、何も言えなかった。


胸の奥が熱い。


怖い。


でも、逃げたいだけではない。


その熱を、もう少しだけ持っていたいと思ってしまう。


瞬は扉の方を指さした。


「じゃあ、どうする?」


メイは白いアイガードに触れた。


革の感触。


留め具の小さな硬さ。


頬に触れる柔らかな布。


そして、扉の向こうから聞こえる王都の声。


怖い。


怖いままだ。


けれど、瞬は言った。


怖いままでいいと。


メイは、ゆっくり立ち上がった。


足首に少し痛みが残る。


けれど、立てる。


歩ける。


彼女は、瞬を見た。


「……一歩だけ」


声は小さかった。


それでも、確かに自分で選んだ言葉だった。


「外に、出てみます」


瞬の顔が、ぱっと明るくなった。


「よし」


その喜び方があまりに素直で、メイは少しだけ困った。


瞬は扉へ向かう。


だが、すぐに振り返った。


「手、つなぐか?」


メイの体が固まる。


瞬は慌てて言い直した。


「いや、無理ならいい。袖でもいいし、距離を取ってもいいし、俺の背中を盾にしてもいい」


メイは瞬の袖を見た。


泥の跡が残り、片方は裂けている。


自分の傷を拭うために裂かれた袖。


その端を、メイはそっと掴んだ。


指先だけで。


ほんの少しだけ。


でも、掴んだ。


瞬は、それを見て何も言わなかった。


大げさに喜びもしなかった。


ただ、静かに頷いた。


「行こう」


扉が開く。


朝の光が、空き家の中へ流れ込んできた。


雨上がりの空気が、メイの頬を撫でる。


土の匂い。


濡れた石の匂い。


遠くから漂う焼きたてのパンの匂い。


カラスが一羽、屋根の上で鳴いた。


その声は、もう不吉なだけには聞こえなかった。


メイは、瞬の袖を掴んだまま、空き家の外へ足を出した。


一歩。


濡れた石畳が、朝日を反射して光っていた。


その光は眩しかった。


でも、もう目を閉じなかった。


朝の王都は、雨上がりの匂いに満ちていた。


石畳の隙間にはまだ水が残り、メイが一歩踏み出すたび、靴底の下で小さく湿った音がした。建物の屋根からは、残った雫が時折落ちてくる。ぽたり、ぽたり。その音が、昨日の雨の記憶をまだ街に残していた。


けれど、空は明るい。


雲の切れ間から差し込む陽光が、濡れた壁を白く照らしている。軒先に吊るされた看板が風に揺れ、そこから落ちた水滴が朝日に反射して、小さな光の粒になった。遠くの市場では、荷を運ぶ男たちの声が響き、木箱を置く音、馬の蹄が石を叩く音、焼きたてのパンを並べる店主の声が重なっている。


世界は、何事もなかったように動いていた。


メイだけが、その中に戻ることを怖がっていた。


彼女は瞬の袖を、指先でそっと掴んでいる。


握るというほど強くはない。


ほんの少し触れているだけ。


けれど、メイにとってはそれだけで精一杯だった。


袖を掴んでいる指先は、まだ震えている。白いアイガードの奥で、隠された左目が熱を持っているような気がする。誰かが見ているのではないか。誰かが気づくのではないか。昨日の夜と同じように、叫び声が上がるのではないか。


怖い。


足を出すたび、胸の奥が冷たく縮む。


それでも、メイは戻らなかった。


「大丈夫か?」


瞬が、声を落として聞いた。


メイは少し迷ってから、小さく首を振った。


「……大丈夫じゃ、ないです」


その答えに、瞬は驚いたように一瞬だけ目を開いた。


それから、少し笑った。


「そっか」


責める声ではなかった。


困った声でもない。


ただ、その答えを受け取る声だった。


「じゃあ、大丈夫じゃないまま、ゆっくり行こう」


メイは、瞬の袖を少しだけ強く握った。


大丈夫じゃないと言っても、怒られなかった。


弱音を吐いても、置いていかれなかった。


それだけのことが、胸の奥に小さく残った。


二人は、古い区画の細い道を抜けた。


最初は人通りの少ない裏道を選んだ。瞬はわざと大通りを避け、建物の影が続く道を歩いた。道端には雨に濡れた木箱が積まれ、古い樽の中には雨水が溜まっている。そこに朝の光が落ち、水面に揺れる空の色が映っていた。


やがて、角を曲がった先で、小さなパン屋が見えた。


開け放たれた窓から、焼きたての匂いが流れてくる。


温かく、甘く、柔らかい匂い。


メイの足が、ほんの少し止まった。


瞬はそれに気づいた。


「パン、買うか」


「……さっき、食べました」


「食べたけど、パンは別枠だ」


「別枠……?」


「そう。パンは心の安全装置だから」


「意味が、わかりません」


「俺も今考えた」


メイは、ほんの少しだけ瞬を見上げた。


呆れていいのか、笑っていいのかわからない。


その迷いが、少しだけ表情を緩めた。


瞬は店へ近づき、店主に声をかけた。


「すみません。パン二つください」


店主は瞬の顔を見て、すぐに目を丸くした。


「英雄様じゃないか!」


その声が少し大きく、メイの肩が跳ねた。


瞬はすぐに片手を上げ、声を抑えた。


「しー。今日は英雄じゃなくて、普通にパン買いに来た客です」


「いや、英雄様は英雄様だろう」


「じゃあ、小声の英雄でお願いします」


「なんだそりゃ」


店主は笑いながらも、声を落としてくれた。


その視線が、瞬の後ろにいるメイへ向きかける。


メイは反射的に顔を伏せた。


白いアイガード。


顔の半分を隠すそれを見て、店主の目がわずかに止まる。


その一瞬で、メイの背中に冷たい汗がにじんだ。


まただ。


そう思った。


だが、瞬が自然に一歩横へ動いた。


メイを完全に隠すのではない。


見世物にならない角度に立つ。


「この子の分も。柔らかいやつで」


店主は、何かを聞きかけたようだった。


けれど、瞬の目を見て、口を閉じた。


「……なら、こっちだな。今焼けたばかりだ。中が柔らかい」


店主は、紙に包んだパンを二つ渡した。


瞬は代金を払い、そのうち一つをメイの方へ差し出しかけて、いつものように途中で止めた。


「持てそうか?」


メイは頷き、両手で受け取った。


紙越しに、熱が伝わる。


指先が温まる。


その温かさに、胸が少し痛くなった。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


当たり前のように返ってくるその言葉にも、少しずつ慣れてきた。


まだ怖い。


でも、聞くたびに心が少しだけ覚えていく。


ありがとうに、罵声が返ってこないこともあるのだと。


二人は再び歩き出した。


市場へ近づくにつれ、人の数が増えた。


野菜を並べる女。


魚を運ぶ少年。


濡れた荷車を押す男。


旅人。


兵士。


冒険者。


多くの視線が交差する。


そのうちいくつかが、メイの白いアイガードに引っかかった。


「見たことない装具だな」


「怪我か?」


「英雄様の連れか?」


囁き声が聞こえた。


メイの指が、瞬の袖を強く掴む。


瞬は足を止めなかった。


けれど、歩幅を少しだけ小さくした。


メイが無理なくついてこられる速さにした。


「昨日より、ちゃんと歩けてる」


瞬が静かに言った。


「え……」


「怖いのに、ちゃんと歩いてる」


メイは、返事ができなかった。


怖いのに歩く。


それを、瞬は見ている。


紫の瞳でもなく、噂でもなく、怯えていることを隠しきれない足取りでもなく。


その足が、それでも前へ出ていることを見てくれている。


メイは、紙包みのパンを胸元に抱いた。


歩いているだけ。


ただ、それだけなのに。


誰かに認められることがあるのだと、初めて知った。


市場の奥へ進むと、冒険者ギルドの建物が見えてきた。


大きな石造りの建物だった。


入口の上には剣と盾を組み合わせた看板があり、朝から人の出入りが多い。革鎧を着た男、杖を持つ女、荷物を背負った若者。中からは、笑い声と怒鳴り声、木の椅子を引く音が混じって聞こえてくる。


メイは思わず足を止めた。


人が多い。


声が多い。


視線が多い。


瞬は、すぐには入らなかった。


「無理なら戻る」


彼は言った。


「ここまで来ただけで、かなりすごい」


メイは入口を見つめた。


怖い。


今すぐ逃げたい。


だが、瞬の袖を掴む指は、離れなかった。


「……入ります」


声は小さかった。


けれど、自分の言葉だった。


瞬は、静かに頷いた。


「わかった」


扉を開ける。


中の空気が、一気に流れてきた。


酒と木材の匂い。


乾いた革の匂い。


朝から煮込まれている肉の匂い。


床板を踏む靴音。


笑い声。


紙をめくる音。


それらが、メイの全身へ押し寄せる。


彼女は一瞬、息を詰めた。


視線が集まる。


英雄である瞬に。


そして、その袖を掴む白いアイガードの少女に。


ざわめきが、わずかに変わった。


「英雄様だ」


「隣の子は?」


「昨日の噂の……」


その言葉が形になる前に、瞬は明るい声で言った。


「おはようございます! 腹減ってます!」


ギルド内が一瞬、止まった。


受付にいたリナが、目を瞬かせる。


「……第一声がそれですか、瞬さん」


「大事な報告です」


「ここは食堂ではなく冒険者ギルドです」


「でも奥で肉煮込んでますよね」


「嗅覚だけは鋭いですね」


そのやり取りに、何人かの冒険者が笑った。


空気が少し緩む。


瞬は、わざとそうしたのだと、メイは気づいた。


自分に集まりかけた視線を、くだらない会話で逸らした。


笑いに変えた。


守るために、前へ出た。


メイの胸の奥が、静かに温かくなった。


リナは、メイを見た。


白いアイガードに視線が止まる。


けれど、そこに露骨な恐怖はなかった。


驚きはある。


事情を察する目もある。


だが、彼女はすぐに視線を瞬へ戻した。


「その方は?」


瞬は、少しだけ真面目な顔になった。


「メイです」


その紹介の仕方に、メイは息を呑んだ。


魔女でも。


拾った子でも。


助けた子でも。


紫の瞳の少女でもなく。


ただ、メイ。


リナは一度だけ頷いた。


「メイさんですね。ようこそ、冒険者ギルドへ」


それだけだった。


メイの胸が震えた。


普通の挨拶。


ただの挨拶。


けれど、それは今のメイにとって、信じられないほど大きなものだった。


瞬は受付に近づいた。


メイは袖を掴んだまま、半歩後ろにいる。


「リナさん、相談があるんですけど」


「嫌な予感しかしません」


「まだ何も言ってないのに」


「瞬さんの相談は、だいたい常識が壊れる音を連れてきます」


「偏見がすごい」


「実績です」


周囲の冒険者たちがまた笑った。


メイは、その笑い声に一瞬だけ体を強張らせたが、今度はすぐに逃げなかった。


笑いの矛先が自分ではないと、少しだけわかってきたからだ。


瞬は言った。


「俺、仲間が欲しいんです」


リナの表情が少し変わった。


「仲間、ですか」


「はい。メイを守れる人。あと、俺がやらかしそうな時に止めてくれる人」


「後半の条件が非常に重要ですね」


「自覚はあります」


「あるなら、なぜ毎回やらかすんですか」


「体が先に」


「最悪です」


リナは額に手を当てた。


だが、すぐに仕事の顔へ戻る。


「実力者で、なおかつ瞬さんの規格外さに耐えられる人物となると……かなり限られます」


「います?」


「一人だけ、心当たりがあります」


ギルドの空気が、少しだけ変わった。


近くの冒険者が、聞き耳を立てる。


リナは資料棚から一枚の紙を取り出した。


「実力だけなら、間違いなく上位です。剣の腕も、護衛能力も、判断力も高い。依頼達成率も悪くありません」


「おお、完璧じゃないですか」


瞬が目を輝かせる。


リナは、そこで深くため息をついた。


「ただし、問題があります」


「問題?」


「石頭です」


「石頭?」


「はい。信念が強すぎると言えば聞こえはいいですが、要するに、曲がりません。折れません。譲りません。仲間と組んでも、正しさの角で全員を殴ります」


メイは思わず瞬を見た。


瞬も真顔でリナを見ている。


「正しさの角……」


「比喩です」


「机の角とどっちが強いですかね」


「なぜそこで机の角が出てくるんですか」


瞬は少しだけ遠い目をした。


「俺の始まりなので」


「説明されても困ります」


リナは紙を机に置いた。


そこには、一人の騎士の名前が書かれていた。


ゼイク。


瞬はその名を見つめた。


メイも、白いアイガードの奥で、そっと紙を見た。


騎士。


その言葉に、胸の奥が冷える。


霧の湖畔で剣を向けたアレインを思い出した。


正しいことを語りながら、自分を切り捨てた男。


メイの指が、瞬の袖を握る。


瞬はそれに気づいた。


「メイ」


小さく声をかける。


「嫌ならやめる」


メイは、ゼイクの名前を見つめた。


怖い。


騎士は怖い。


正しさを語る人は怖い。


でも、瞬は今、聞いてくれている。


メイが嫌ならやめると言っている。


それは、アレインとは違った。


「……会うだけなら」


メイは、震える声で言った。


「会うだけなら……できます」


瞬は、嬉しそうに笑いかけて、また少しだけ抑えた。


「わかった。会うだけな」


リナは二人を見て、少しだけ目を細めた。


何かを察したようだったが、余計なことは言わなかった。


「では、ゼイクさんの居場所を確認します。たぶん、朝から訓練場にいるはずです」


「朝から?」


「彼は毎朝、雨でも嵐でも剣を振っています」


瞬は感心した顔をした。


「真面目だ」


リナは静かに言った。


「真面目すぎるんです」


その一言に、近くの冒険者たちが深く頷いた。


まるで全員、何かを思い出したかのようだった。


メイは、その空気を見て、ほんの少しだけ不安になった。


けれど、逃げたいだけではなかった。


白いアイガードに、そっと触れる。


自分で選んだもの。


外に出るためのもの。


そして今、自分はギルドに立っている。


昨日の自分なら、信じられない場所に。


瞬の袖を掴む指が、少しだけ緩んだ。


でも、離さなかった。


瞬は、その小さな変化に気づいていた。


メイはまだ怖がっている。


信じきってはいない。


けれど、逃げていない。


怖いまま、自分で一歩を選んでいる。


その姿が、やはり胸に深く残った。


瞬は思った。


この子は、救われるだけの存在ではない。


立とうとしている。


折れかけた足で。


震える手で。


それでも、自分の明日を選ぼうとしている。


そこに惹かれているのだと、瞬は改めて感じた。


リナが紙を差し出す。


「ゼイクさんに会うなら、訓練場へ。ですが、くれぐれも慎重にお願いします」


「俺が?」


「主に瞬さんが」


「信用がない」


「積み重ねです」


瞬は苦笑しながら紙を受け取った。


そして、メイを見る。


「行けそうか?」


メイはギルドの扉を見た。


外には、雨上がりの朝が広がっている。


怖い。


でも、さっきよりは少しだけ息ができる。


彼女は、小さく頷いた。


「……一歩ずつなら」


瞬は、穏やかに笑った。


「じゃあ、一歩ずつ行こう」


ギルドの扉が開く。


外から、朝の光と風が入り込む。


白いアイガードが、その光を受けて淡く光った。


メイは、瞬の袖を掴んだまま歩き出した。


もう、昨日のように逃げるためだけの足ではなかった。


怖いまま。


震えたまま。


それでも、自分で前へ出す一歩だった。


王都の石畳が、雨上がりの光を反射している。


その上に、瞬とメイの影が並んだ。


まだ近すぎない。


まだ完全には重ならない。


けれど、同じ方向へ伸びていた。


そしてその先に、石頭すぎる騎士――ゼイクとの出会いが待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ