第17話:白いアイガードと、最初の一歩 〜明日とは、怖いまま足を出した先にあるものである〜
雨が上がってから、三日が過ぎた。
王都グランドルの空は、嘘のように晴れていた。
嵐の夜に厚く垂れ込めていた雲はどこかへ流れ去り、朝の空には薄い青が広がっている。古い屋根の端にはまだ雨粒が残り、太陽が昇るたび、それらは小さな光の粒になって震えた。
空き家の板張りの窓にも、細い光が差し込んでいる。
斜めに落ちた光の筋の中で、埃がゆっくり舞っていた。雨で湿っていた床は、暖炉の火で少しずつ乾き、壁際に寄せた落ち葉からは、乾いた草の匂いがかすかに立っている。
外では、遠くの大通りから人の声が聞こえた。
荷馬車の車輪が石畳を踏む音。
パン屋の鐘。
市場へ向かう人々の足音。
雨に洗われた王都は、何事もなかったように日常へ戻っていた。
けれど、メイの中では、まだ夜が続いていた。
彼女は暖炉のそばに座り、膝の上で古びた布を握っていた。
左目には、いつものようにその布を巻いている。何度も雨を吸い、泥に汚れ、血の跡まで残った布だ。洗ってはある。瞬が不器用に何度も水を替え、乾かしてくれた。
けれど、汚れは完全には落ちなかった。
赤黒く沈んだ染み。
擦り切れた端。
ほどけかけた糸。
それは、メイが歩いてきた道そのもののようだった。
「……」
メイは指で布の端を撫でた。
この布がなければ、人前には出られない。
けれど、この布を見るたび、思い出してしまう。
石を投げられた夜。
宿場町の雨。
騎士の剣先。
渓谷の砂。
王都の月明かり。
布は守ってくれた。
でも同時に、閉じ込めてもいた。
そのことを、メイは少しだけわかり始めていた。
「起きてるかー」
空き家の扉が、ぎい、と鳴った。
メイの肩が小さく跳ねる。
入ってきたのは瞬だった。
両腕いっぱいに、紙包みや布袋を抱えている。髪は寝癖のように跳ねていて、服はまだどこか泥の跡が残っている。だが、顔だけはやけに明るかった。
「朝飯、確保してきた」
瞬は勝ち誇った顔で言った。
「ちゃんと買った。盗んでない。偉い」
メイは少しだけ目を瞬かせた。
「……買うのは、普通では」
「普通をちゃんとできるのは偉いって、昨日俺が言っただろ」
「それは、私に言った言葉です」
「俺にも適用される。自分を褒めて伸ばす方針でいく」
瞬はそう言って、床に布を広げた。
中から出てきたのは、丸いパン、干し肉、温かさの残るスープを入れた蓋つきの壺、それから焼き菓子が二つ。
メイは、焼き菓子を見て固まった。
「……それは」
「甘いやつ」
「見れば、わかります」
「じゃあ説明いらなかったな」
瞬は真剣に頷いた。
メイの口元が、ほんの少しだけ緩みかけた。
それに気づいて、彼女は慌てて顔を伏せる。
瞬は見なかったふりをした。
この三日で、少しだけわかってきた。
メイは、笑いそうになると隠す。
嬉しい時ほど、怖がる。
何かを受け取る時、必ず一度ためらう。
そして、ありがとうと言う時には、まるで許しを乞うように小さくなる。
だから瞬は、急がないことにした。
食べろ、と押しつけない。
笑え、と言わない。
信じろ、と迫らない。
ただ、そこに置く。
彼女が手を伸ばせる場所に、温かいものを置く。
それが今の自分にできる、一番壊さないやり方だと思った。
「スープ、飲めそうか?」
「……はい」
メイは小さく頷いた。
声はまだ細い。
けれど、初日の朝のように震えてはいなかった。
瞬は壺からスープを器へ注いだ。
湯気が立つ。
根菜と鶏肉の匂いが、古い空き家の湿った空気を少しだけ押しのけた。暖炉の火がぱちりと鳴り、窓から差し込む光が湯気に触れて、白く揺れる。
メイは器を受け取った。
一瞬だけ、瞬の指と触れそうになり、びくりとした。
瞬はすぐに手を引いた。
「悪い」
「……いえ」
メイは器を両手で包み込む。
温かい。
この温もりは、まだ怖い。
でも、以前ほど痛くはない。
彼女は、ゆっくりと一口飲んだ。
喉を通る熱。
体の奥へ落ちる感覚。
昨日より、少し味がわかった。
「……おいしいです」
その言葉を聞いて、瞬は露骨に嬉しそうな顔をした。
「よし。店のおばちゃんに伝えとく」
「お店の人に、私のことは……」
メイの声が急に細くなった。
瞬は首を振った。
「言ってない。俺が食うって言って買った」
「でも、こんなにたくさん……」
「俺が大食いに見えたんだろ」
メイは瞬を見た。
たしかに、食べそうではある。
そう思ってしまった自分に気づき、彼女は慌てて視線を伏せた。
瞬はなぜか胸を張った。
「今、納得した顔したな」
「してません」
「いや、した。俺は今、食いしん坊認定された」
「してません」
「まあ、実際食べるけど」
「……」
メイは匙を持ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。
この会話には、罠がない。
正しさを押しつけられることもない。
何かを試されているわけでもない。
ただ、どうでもいいことを言い合っているだけ。
それが、こんなにも呼吸を楽にするのだと、メイは知らなかった。
しばらく、二人は黙って朝食を食べた。
沈黙はあった。
けれど、それは怖い沈黙ではなかった。
薪の弾ける音。
スープをすする小さな音。
外を通る荷車の遠い響き。
屋根から最後の雫が落ちる、ぽたりという音。
それらが、言葉の隙間を静かに満たしていた。
食事が終わる頃、瞬は少しだけ表情を改めた。
「メイ」
名前を呼ばれて、メイは顔を上げた。
まだその音に慣れない。
けれど、逃げたくなるほどではなくなっていた。
「これ、渡したくて買ってきた」
瞬は、布袋の中から小さな包みを取り出した。
白い布で丁寧に包まれている。
メイは、それを見つめた。
「……何ですか」
「見てから判断してくれ。嫌だったら使わなくていい」
瞬はそう言って、包みをメイの前に置いた。
手渡ししない。
いつものように、選べる距離に置く。
メイは、恐る恐る手を伸ばした。
布をほどく。
中にあったのは、白い革で作られた小さなアイガードだった。
片目を覆うためのもの。
だが、これまでメイが使っていた古布とはまるで違った。
革は柔らかく、丁寧に磨かれている。縁には細い銀色の糸が縫い込まれ、留め具も小さく、肌に当たる部分には薄い布が貼られていた。実用品ではあるが、粗末なものではない。
白。
汚れを隠す色ではなく、朝の光を受ける色。
メイは息を止めた。
「……これ」
「店で見つけた。いや、正確には、防具屋のおっちゃんに聞きまくって作ってもらった。片目を保護する装具ってないかって」
瞬は少しだけ照れたように頬をかいた。
「古い布だと、傷にもよくなさそうだし。雨で濡れると冷たいし。あと……」
そこで、彼は言葉を選んだ。
「お前が隠したい時に、ちゃんと隠せるものがあった方がいいと思った」
メイは、白いアイガードから目を離せなかった。
隠すもの。
でも、押しつけられたものではない。
恐怖で巻きつけるものでもない。
これは、瞬が買ってきたものだ。
メイが外へ出るために。
メイが自分で選べるように。
「俺は、隠さなくてもいいと思ってる」
瞬は静かに言った。
メイの指が震える。
「でも、怖いなら隠していい。隠してるから弱いとか、隠さないから強いとか、そういう話じゃないと思う」
瞬は、真っ直ぐにメイを見た。
「お前が今日、外に出るために必要なら、それは逃げじゃない。準備だ」
準備。
メイは、その言葉を胸の中で繰り返した。
今まで、布は逃げるためのものだった。
見つからないためのものだった。
嫌われないために、存在を小さくするためのものだった。
でも、これは違うのだろうか。
外へ出るためのもの。
歩くためのもの。
誰かの隣に立つためのもの。
メイの目に、熱が滲んだ。
「……白いんですね」
「うん」
「汚したら……」
「洗えばいい」
瞬は即答した。
「破れたら?」
「直す。俺が無理なら、直せる人を探す」
「なくしたら……」
「また買う」
「迷惑です」
「迷惑じゃない」
「でも……」
瞬は、少しだけ笑った。
「メイ」
その声は優しかった。
けれど、甘やかすだけではなかった。
「俺は、お前に何かしてやりたいんだ。だから、俺が勝手にしたいことまで全部“迷惑”って言われると、ちょっと困る」
メイは、言葉に詰まった。
瞬は続ける。
「もちろん、嫌なことは嫌って言っていい。いらないものはいらないって言っていい。でも、これが少しでも助けになるなら、受け取ってほしい」
メイは、白いアイガードを両手で包み込んだ。
革はまだ新しく、少しだけ硬い。
けれど、手の中で確かに形を持っている。
「……怖いです」
メイは正直に言った。
「これをつけても、外に出るのは怖いです」
「うん」
「人に見られるのも、噂されるのも、怖いです」
「うん」
「シュンさんが隣にいても……怖いです」
瞬は、少しだけ目を伏せた。
それから頷いた。
「それでいい」
メイは顔を上げた。
「怖いままでいい。怖くなくなってから外に出るんじゃ、たぶん一生出られない日もある」
瞬は扉の方を見た。
古い木の扉。
その向こうには、王都の朝がある。
人の声。
視線。
噂。
怖いものばかりだ。
けれど、その中にしか次の道もない。
「だから、今日は一歩だけでいい」
瞬は言った。
「空き家の扉を出る。無理ならそこで戻る。もう一歩行けそうなら、通りの角まで行く。それも無理なら戻る」
彼は、少し照れたように笑った。
「で、もし行けたら、うまいもの食って帰る」
メイは目を瞬かせた。
「結局、食べるんですね」
「食事は大事だ。世界平和の八割は飯でどうにかなる」
「それは多すぎると思います」
「じゃあ七割」
「まだ多いです」
「六割五分」
「細かくなりました」
メイの口元が、わずかにほどけた。
瞬は、その小さな笑みを見て、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
やっぱり、と思った。
この笑みを守りたい。
いや、守るというより、もっと見たい。
怯えの奥に隠れている、この不器用な柔らかさを。
傷ついたままでも、まだ笑おうとする力を。
瞬は、その強さに惹かれていた。
メイは白いアイガードを見つめた。
そして、ゆっくりと古い布へ手をかけた。
一瞬、指が止まる。
布を外すことは、今でも怖い。
でも、瞬は視線を逸らしていた。
見ないでくれている。
見ようと思えば見られるのに。
見たいと言えば、きっとメイは断れないのに。
それでも、彼は待っている。
メイは、少しだけ息を吸った。
古びた布を外す。
左目に朝の空気が触れる。
心臓が跳ねる。
だが、瞬は見ていない。
メイは、白いアイガードをそっと当てた。
留め具を探す。
指が震える。
うまく留まらない。
何度か失敗する。
瞬は、まだ見ない。
「……シュンさん」
「ん?」
「少しだけ……手伝って、もらってもいいですか」
瞬の呼吸が、一瞬止まった。
けれど、彼はすぐに頷いた。
「もちろん」
ゆっくり近づく。
急がない。
手を伸ばす前に、確認する。
「触るぞ」
メイは小さく頷いた。
瞬の指が、留め具に触れた。
彼の手は温かかった。
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、以前のように全身が凍るほどではなかった。
カチリ。
小さな音がした。
白いアイガードが、メイの左目を覆った。
視界の半分が暗くなる。
けれど、その暗さは、古い布の時とは少し違った。
息苦しさではない。
準備のための暗さ。
前へ進むために、自分で選んだ暗さ。
瞬は一歩下がり、そこで初めてメイを見た。
白いアイガード。
柔らかな銀髪。
まだ疲れの残る頬。
細い肩。
けれど、昨日までの泥と雨に沈んだ少女とは違って見えた。
傷はある。
怯えも残っている。
でも、朝の光の中で、彼女は確かに立とうとしていた。
瞬は、息を呑んだ。
今度は、遅れなかった。
「似合ってる」
メイの頬が、ほんの少し赤くなった。
「……変じゃ、ないですか」
「全然。めちゃくちゃ可愛い」
「……かわっ」
メイは固まった。
瞬は真顔で言った。
「可愛い。白、すごく似合う」
「そ、そんなこと……」
「ある」
瞬は迷わず言った。
「あと、これは大事なことだから何度でも言うけど、アイガードをつけてても、つけてなくても、メイはメイだ」
メイは、何も言えなかった。
胸の奥が熱い。
怖い。
でも、逃げたいだけではない。
その熱を、もう少しだけ持っていたいと思ってしまう。
瞬は扉の方を指さした。
「じゃあ、どうする?」
メイは白いアイガードに触れた。
革の感触。
留め具の小さな硬さ。
頬に触れる柔らかな布。
そして、扉の向こうから聞こえる王都の声。
怖い。
怖いままだ。
けれど、瞬は言った。
怖いままでいいと。
メイは、ゆっくり立ち上がった。
足首に少し痛みが残る。
けれど、立てる。
歩ける。
彼女は、瞬を見た。
「……一歩だけ」
声は小さかった。
それでも、確かに自分で選んだ言葉だった。
「外に、出てみます」
瞬の顔が、ぱっと明るくなった。
「よし」
その喜び方があまりに素直で、メイは少しだけ困った。
瞬は扉へ向かう。
だが、すぐに振り返った。
「手、つなぐか?」
メイの体が固まる。
瞬は慌てて言い直した。
「いや、無理ならいい。袖でもいいし、距離を取ってもいいし、俺の背中を盾にしてもいい」
メイは瞬の袖を見た。
泥の跡が残り、片方は裂けている。
自分の傷を拭うために裂かれた袖。
その端を、メイはそっと掴んだ。
指先だけで。
ほんの少しだけ。
でも、掴んだ。
瞬は、それを見て何も言わなかった。
大げさに喜びもしなかった。
ただ、静かに頷いた。
「行こう」
扉が開く。
朝の光が、空き家の中へ流れ込んできた。
雨上がりの空気が、メイの頬を撫でる。
土の匂い。
濡れた石の匂い。
遠くから漂う焼きたてのパンの匂い。
カラスが一羽、屋根の上で鳴いた。
その声は、もう不吉なだけには聞こえなかった。
メイは、瞬の袖を掴んだまま、空き家の外へ足を出した。
一歩。
濡れた石畳が、朝日を反射して光っていた。
その光は眩しかった。
でも、もう目を閉じなかった。
朝の王都は、雨上がりの匂いに満ちていた。
石畳の隙間にはまだ水が残り、メイが一歩踏み出すたび、靴底の下で小さく湿った音がした。建物の屋根からは、残った雫が時折落ちてくる。ぽたり、ぽたり。その音が、昨日の雨の記憶をまだ街に残していた。
けれど、空は明るい。
雲の切れ間から差し込む陽光が、濡れた壁を白く照らしている。軒先に吊るされた看板が風に揺れ、そこから落ちた水滴が朝日に反射して、小さな光の粒になった。遠くの市場では、荷を運ぶ男たちの声が響き、木箱を置く音、馬の蹄が石を叩く音、焼きたてのパンを並べる店主の声が重なっている。
世界は、何事もなかったように動いていた。
メイだけが、その中に戻ることを怖がっていた。
彼女は瞬の袖を、指先でそっと掴んでいる。
握るというほど強くはない。
ほんの少し触れているだけ。
けれど、メイにとってはそれだけで精一杯だった。
袖を掴んでいる指先は、まだ震えている。白いアイガードの奥で、隠された左目が熱を持っているような気がする。誰かが見ているのではないか。誰かが気づくのではないか。昨日の夜と同じように、叫び声が上がるのではないか。
怖い。
足を出すたび、胸の奥が冷たく縮む。
それでも、メイは戻らなかった。
「大丈夫か?」
瞬が、声を落として聞いた。
メイは少し迷ってから、小さく首を振った。
「……大丈夫じゃ、ないです」
その答えに、瞬は驚いたように一瞬だけ目を開いた。
それから、少し笑った。
「そっか」
責める声ではなかった。
困った声でもない。
ただ、その答えを受け取る声だった。
「じゃあ、大丈夫じゃないまま、ゆっくり行こう」
メイは、瞬の袖を少しだけ強く握った。
大丈夫じゃないと言っても、怒られなかった。
弱音を吐いても、置いていかれなかった。
それだけのことが、胸の奥に小さく残った。
二人は、古い区画の細い道を抜けた。
最初は人通りの少ない裏道を選んだ。瞬はわざと大通りを避け、建物の影が続く道を歩いた。道端には雨に濡れた木箱が積まれ、古い樽の中には雨水が溜まっている。そこに朝の光が落ち、水面に揺れる空の色が映っていた。
やがて、角を曲がった先で、小さなパン屋が見えた。
開け放たれた窓から、焼きたての匂いが流れてくる。
温かく、甘く、柔らかい匂い。
メイの足が、ほんの少し止まった。
瞬はそれに気づいた。
「パン、買うか」
「……さっき、食べました」
「食べたけど、パンは別枠だ」
「別枠……?」
「そう。パンは心の安全装置だから」
「意味が、わかりません」
「俺も今考えた」
メイは、ほんの少しだけ瞬を見上げた。
呆れていいのか、笑っていいのかわからない。
その迷いが、少しだけ表情を緩めた。
瞬は店へ近づき、店主に声をかけた。
「すみません。パン二つください」
店主は瞬の顔を見て、すぐに目を丸くした。
「英雄様じゃないか!」
その声が少し大きく、メイの肩が跳ねた。
瞬はすぐに片手を上げ、声を抑えた。
「しー。今日は英雄じゃなくて、普通にパン買いに来た客です」
「いや、英雄様は英雄様だろう」
「じゃあ、小声の英雄でお願いします」
「なんだそりゃ」
店主は笑いながらも、声を落としてくれた。
その視線が、瞬の後ろにいるメイへ向きかける。
メイは反射的に顔を伏せた。
白いアイガード。
顔の半分を隠すそれを見て、店主の目がわずかに止まる。
その一瞬で、メイの背中に冷たい汗がにじんだ。
まただ。
そう思った。
だが、瞬が自然に一歩横へ動いた。
メイを完全に隠すのではない。
見世物にならない角度に立つ。
「この子の分も。柔らかいやつで」
店主は、何かを聞きかけたようだった。
けれど、瞬の目を見て、口を閉じた。
「……なら、こっちだな。今焼けたばかりだ。中が柔らかい」
店主は、紙に包んだパンを二つ渡した。
瞬は代金を払い、そのうち一つをメイの方へ差し出しかけて、いつものように途中で止めた。
「持てそうか?」
メイは頷き、両手で受け取った。
紙越しに、熱が伝わる。
指先が温まる。
その温かさに、胸が少し痛くなった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
当たり前のように返ってくるその言葉にも、少しずつ慣れてきた。
まだ怖い。
でも、聞くたびに心が少しだけ覚えていく。
ありがとうに、罵声が返ってこないこともあるのだと。
二人は再び歩き出した。
市場へ近づくにつれ、人の数が増えた。
野菜を並べる女。
魚を運ぶ少年。
濡れた荷車を押す男。
旅人。
兵士。
冒険者。
多くの視線が交差する。
そのうちいくつかが、メイの白いアイガードに引っかかった。
「見たことない装具だな」
「怪我か?」
「英雄様の連れか?」
囁き声が聞こえた。
メイの指が、瞬の袖を強く掴む。
瞬は足を止めなかった。
けれど、歩幅を少しだけ小さくした。
メイが無理なくついてこられる速さにした。
「昨日より、ちゃんと歩けてる」
瞬が静かに言った。
「え……」
「怖いのに、ちゃんと歩いてる」
メイは、返事ができなかった。
怖いのに歩く。
それを、瞬は見ている。
紫の瞳でもなく、噂でもなく、怯えていることを隠しきれない足取りでもなく。
その足が、それでも前へ出ていることを見てくれている。
メイは、紙包みのパンを胸元に抱いた。
歩いているだけ。
ただ、それだけなのに。
誰かに認められることがあるのだと、初めて知った。
市場の奥へ進むと、冒険者ギルドの建物が見えてきた。
大きな石造りの建物だった。
入口の上には剣と盾を組み合わせた看板があり、朝から人の出入りが多い。革鎧を着た男、杖を持つ女、荷物を背負った若者。中からは、笑い声と怒鳴り声、木の椅子を引く音が混じって聞こえてくる。
メイは思わず足を止めた。
人が多い。
声が多い。
視線が多い。
瞬は、すぐには入らなかった。
「無理なら戻る」
彼は言った。
「ここまで来ただけで、かなりすごい」
メイは入口を見つめた。
怖い。
今すぐ逃げたい。
だが、瞬の袖を掴む指は、離れなかった。
「……入ります」
声は小さかった。
けれど、自分の言葉だった。
瞬は、静かに頷いた。
「わかった」
扉を開ける。
中の空気が、一気に流れてきた。
酒と木材の匂い。
乾いた革の匂い。
朝から煮込まれている肉の匂い。
床板を踏む靴音。
笑い声。
紙をめくる音。
それらが、メイの全身へ押し寄せる。
彼女は一瞬、息を詰めた。
視線が集まる。
英雄である瞬に。
そして、その袖を掴む白いアイガードの少女に。
ざわめきが、わずかに変わった。
「英雄様だ」
「隣の子は?」
「昨日の噂の……」
その言葉が形になる前に、瞬は明るい声で言った。
「おはようございます! 腹減ってます!」
ギルド内が一瞬、止まった。
受付にいたリナが、目を瞬かせる。
「……第一声がそれですか、瞬さん」
「大事な報告です」
「ここは食堂ではなく冒険者ギルドです」
「でも奥で肉煮込んでますよね」
「嗅覚だけは鋭いですね」
そのやり取りに、何人かの冒険者が笑った。
空気が少し緩む。
瞬は、わざとそうしたのだと、メイは気づいた。
自分に集まりかけた視線を、くだらない会話で逸らした。
笑いに変えた。
守るために、前へ出た。
メイの胸の奥が、静かに温かくなった。
リナは、メイを見た。
白いアイガードに視線が止まる。
けれど、そこに露骨な恐怖はなかった。
驚きはある。
事情を察する目もある。
だが、彼女はすぐに視線を瞬へ戻した。
「その方は?」
瞬は、少しだけ真面目な顔になった。
「メイです」
その紹介の仕方に、メイは息を呑んだ。
魔女でも。
拾った子でも。
助けた子でも。
紫の瞳の少女でもなく。
ただ、メイ。
リナは一度だけ頷いた。
「メイさんですね。ようこそ、冒険者ギルドへ」
それだけだった。
メイの胸が震えた。
普通の挨拶。
ただの挨拶。
けれど、それは今のメイにとって、信じられないほど大きなものだった。
瞬は受付に近づいた。
メイは袖を掴んだまま、半歩後ろにいる。
「リナさん、相談があるんですけど」
「嫌な予感しかしません」
「まだ何も言ってないのに」
「瞬さんの相談は、だいたい常識が壊れる音を連れてきます」
「偏見がすごい」
「実績です」
周囲の冒険者たちがまた笑った。
メイは、その笑い声に一瞬だけ体を強張らせたが、今度はすぐに逃げなかった。
笑いの矛先が自分ではないと、少しだけわかってきたからだ。
瞬は言った。
「俺、仲間が欲しいんです」
リナの表情が少し変わった。
「仲間、ですか」
「はい。メイを守れる人。あと、俺がやらかしそうな時に止めてくれる人」
「後半の条件が非常に重要ですね」
「自覚はあります」
「あるなら、なぜ毎回やらかすんですか」
「体が先に」
「最悪です」
リナは額に手を当てた。
だが、すぐに仕事の顔へ戻る。
「実力者で、なおかつ瞬さんの規格外さに耐えられる人物となると……かなり限られます」
「います?」
「一人だけ、心当たりがあります」
ギルドの空気が、少しだけ変わった。
近くの冒険者が、聞き耳を立てる。
リナは資料棚から一枚の紙を取り出した。
「実力だけなら、間違いなく上位です。剣の腕も、護衛能力も、判断力も高い。依頼達成率も悪くありません」
「おお、完璧じゃないですか」
瞬が目を輝かせる。
リナは、そこで深くため息をついた。
「ただし、問題があります」
「問題?」
「石頭です」
「石頭?」
「はい。信念が強すぎると言えば聞こえはいいですが、要するに、曲がりません。折れません。譲りません。仲間と組んでも、正しさの角で全員を殴ります」
メイは思わず瞬を見た。
瞬も真顔でリナを見ている。
「正しさの角……」
「比喩です」
「机の角とどっちが強いですかね」
「なぜそこで机の角が出てくるんですか」
瞬は少しだけ遠い目をした。
「俺の始まりなので」
「説明されても困ります」
リナは紙を机に置いた。
そこには、一人の騎士の名前が書かれていた。
ゼイク。
瞬はその名を見つめた。
メイも、白いアイガードの奥で、そっと紙を見た。
騎士。
その言葉に、胸の奥が冷える。
霧の湖畔で剣を向けたアレインを思い出した。
正しいことを語りながら、自分を切り捨てた男。
メイの指が、瞬の袖を握る。
瞬はそれに気づいた。
「メイ」
小さく声をかける。
「嫌ならやめる」
メイは、ゼイクの名前を見つめた。
怖い。
騎士は怖い。
正しさを語る人は怖い。
でも、瞬は今、聞いてくれている。
メイが嫌ならやめると言っている。
それは、アレインとは違った。
「……会うだけなら」
メイは、震える声で言った。
「会うだけなら……できます」
瞬は、嬉しそうに笑いかけて、また少しだけ抑えた。
「わかった。会うだけな」
リナは二人を見て、少しだけ目を細めた。
何かを察したようだったが、余計なことは言わなかった。
「では、ゼイクさんの居場所を確認します。たぶん、朝から訓練場にいるはずです」
「朝から?」
「彼は毎朝、雨でも嵐でも剣を振っています」
瞬は感心した顔をした。
「真面目だ」
リナは静かに言った。
「真面目すぎるんです」
その一言に、近くの冒険者たちが深く頷いた。
まるで全員、何かを思い出したかのようだった。
メイは、その空気を見て、ほんの少しだけ不安になった。
けれど、逃げたいだけではなかった。
白いアイガードに、そっと触れる。
自分で選んだもの。
外に出るためのもの。
そして今、自分はギルドに立っている。
昨日の自分なら、信じられない場所に。
瞬の袖を掴む指が、少しだけ緩んだ。
でも、離さなかった。
瞬は、その小さな変化に気づいていた。
メイはまだ怖がっている。
信じきってはいない。
けれど、逃げていない。
怖いまま、自分で一歩を選んでいる。
その姿が、やはり胸に深く残った。
瞬は思った。
この子は、救われるだけの存在ではない。
立とうとしている。
折れかけた足で。
震える手で。
それでも、自分の明日を選ぼうとしている。
そこに惹かれているのだと、瞬は改めて感じた。
リナが紙を差し出す。
「ゼイクさんに会うなら、訓練場へ。ですが、くれぐれも慎重にお願いします」
「俺が?」
「主に瞬さんが」
「信用がない」
「積み重ねです」
瞬は苦笑しながら紙を受け取った。
そして、メイを見る。
「行けそうか?」
メイはギルドの扉を見た。
外には、雨上がりの朝が広がっている。
怖い。
でも、さっきよりは少しだけ息ができる。
彼女は、小さく頷いた。
「……一歩ずつなら」
瞬は、穏やかに笑った。
「じゃあ、一歩ずつ行こう」
ギルドの扉が開く。
外から、朝の光と風が入り込む。
白いアイガードが、その光を受けて淡く光った。
メイは、瞬の袖を掴んだまま歩き出した。
もう、昨日のように逃げるためだけの足ではなかった。
怖いまま。
震えたまま。
それでも、自分で前へ出す一歩だった。
王都の石畳が、雨上がりの光を反射している。
その上に、瞬とメイの影が並んだ。
まだ近すぎない。
まだ完全には重ならない。
けれど、同じ方向へ伸びていた。
そしてその先に、石頭すぎる騎士――ゼイクとの出会いが待っていた。




