第16話:雨上がりの空き家と、まだ届かない声 〜安心とは、逃げ道を残したまま隣にいることである〜
意識は、冷たい水底から浮かび上がる泡のように、ゆっくりと戻ってきた。
最初に感じたのは、音だった。
ぽたり。
ぽたり。
どこか近くで、水が落ちている。
一定ではない。少し間を置いて、また一滴。古い屋根の隙間から染み込んだ雨水が、床のどこかに落ちている音だった。
その奥で、火の音がした。
ぱち。
小さな薪が弾ける、乾いた音。
雨の森で聞いた、葉を叩く激しい音ではない。石畳に逃げる足音でもない。誰かの怒鳴り声でもない。静かで、細くて、消えそうで、それでも確かにそこにある音だった。
メイは、ゆっくりとまぶたを開けた。
視界に入ってきたのは、白い天井ではなかった。
黒ずんだ梁。
雨染みの広がった板。
ところどころ剥がれた壁。
朝の光は弱く、板で塞がれた窓の隙間から細く差し込んでいる。その光の中に、埃が浮かんでいた。小さな粒が、息をするように揺れ、また沈んでいく。
ここは、宿ではない。
清潔な部屋でもない。
人の暮らしが途切れてから長い時間が経った、古い空き家だった。
(……どこ……?)
喉が乾いていた。
声を出そうとしたが、うまく出ない。唇が少し割れていて、動かすだけでひりついた。
体の下は、柔らかいベッドではなかった。
少し硬い。
けれど、直接床に寝かされているわけでもない。
メイは、ぼんやりした意識のまま、自分の体の下にあるものへ指を滑らせた。
布。
厚い外套。
雨を吸って少し重くなっているが、暖炉の火に当てられたせいか、表面にはわずかな温もりが残っている。
自分は、誰かの外套の上に寝かされている。
そこまで理解した瞬間、記憶が戻ってきた。
王都の夜。
剥がされた布。
月明かりに晒された紫の瞳。
瞬の沈黙。
人々の声。
逃げる足音。
雨。
森。
足に絡んだ縄。
冷たい泥。
そして――腕。
誰かに抱き上げられた感覚。
雨の中で、自分を落とさないように、壊さないように、慎重に抱えていた腕。
メイの呼吸が乱れた。
(生きてる)
その事実が、最初は安堵ではなく恐怖として胸に落ちた。
生きているということは、誰かに助けられたということだ。
誰かに見られたということだ。
そして、自分の紫の瞳を、もう隠せていないということだ。
メイの手が、震えながら顔へ伸びた。
頬。
額。
まぶた。
左目。
ない。
いつも左目を覆っていた布が、ない。
心臓が、強く跳ねた。
どくん。
その音が、空き家の壁にまで響いたように感じた。
ない。
隠していない。
見られている。
知られている。
メイの全身から血の気が引いた。
(逃げなきゃ)
考えるより先に、体がそう叫んだ。
石を投げられる前に。
「出ていけ」と言われる前に。
優しかった声が冷たくなる前に。
自分から消えなければならない。
それが、これまで何度も繰り返してきた生き延び方だった。
メイは身を起こそうとした。
だが、体に力が入らない。
肩が震え、肘が外套に沈む。昨夜、雨の中を走り続けた疲労が、骨の奥にまだ残っていた。足首には布が巻かれている。そっと動かすと、鋭い痛みはなかった。ただ、縄が食い込んでいた場所に、鈍い熱だけが残っている。
傷は手当てされていた。
額も、頬も、手の甲も。
誰かが、泥と血を拭ってくれたのだ。
その事実が、また怖かった。
優しさは、後で変わる。
手当てした手が、次に石を投げる手になる。
背中を撫でた手が、出て行けと扉を閉める。
そういうことを、メイは知っている。
知りたくなかったのに、知ってしまった。
メイは、左目を手で覆ったまま周囲を見回した。
暖炉には、小さな火が残っていた。
湿った薪が黒く焦げ、赤い芯を見せている。炎は大きくない。けれど、古い部屋の空気をわずかに温めていた。壁際には壊れた棚があり、床には寄せられた埃と落ち葉が小さな山になっている。
そして、暖炉のそばに、瞬がいた。
彼は壁にもたれるように座り込んでいた。
椅子ではない。
柔らかい寝台でもない。
冷たい床の上に、泥だらけの服のまま座っている。
髪は乾ききっておらず、ところどころが跳ねていた。袖の片方は裂けている。おそらく、メイの傷を拭う布にしたのだろう。靴には森の泥がこびりつき、膝にも黒い汚れが残っている。
それでも彼は眠っていた。
深い眠りではない。
疲れ切って、気を抜いた瞬間に意識が落ちたような、浅く苦しそうな眠りだった。
眉間にはしわが寄っている。
口元はかすかに引き結ばれ、時折、何かを言いかけるように動く。
「……メイ……」
かすれた寝言だった。
メイの胸が、ひゅっと縮んだ。
名前を呼ばれた。
災いでも、魔女でも、化け物でもなく。
ただ、メイと。
それだけで胸が痛んだ。
(なんで……)
メイは、瞬を見つめた。
彼は自分の目を見たはずだ。
あの月明かりの下で、確かに見た。
そして、森でも見たはずだ。
意識を失った自分を抱き上げたなら、隠す布もなく、紫の瞳は晒されていたはずだ。
それなのに、なぜここにいる。
なぜ、逃げていない。
なぜ、剣を向けていない。
なぜ、扉の外に放り出していない。
なぜ、自分の外套を敷いて、自分は冷たい床で眠っている。
理解できなかった。
理解できないものは、怖かった。
メイは、そっと枕元を探った。
そこに、あった。
古びた布。
雨と泥と血で汚れた、自分の布。
瞬が持っていてくれたもの。
でも、巻かれてはいなかった。
ただ、手を伸ばせば届く場所に置かれている。
まるで、使うかどうかをメイ自身に決めさせるように。
そのことに気づいた瞬間、メイの指が止まった。
勝手に隠されていない。
勝手に見世物にもされていない。
布は奪われてもいない。
そこにある。
選べる場所に、置かれている。
その配慮が、怖いほど静かに胸へ沈んできた。
メイは布を掴んだ。
すぐに左目へ巻こうとする。
だが、指が震えて結び目を作れない。
視界が滲む。
焦れば焦るほど、布は手の中で絡まり、うまく動かない。
「……早く……」
小さく呟いた。
「隠さなきゃ……」
その声に、瞬の肩が動いた。
メイの体が凍りつく。
瞬が、ゆっくりと目を開けた。
まだ眠気を残した黒い瞳が、ぼんやりと揺れる。
そして、メイを見る。
遮るもののない、紫の瞳を見る。
時間が止まった。
メイは、息を止めた。
来る。
今度こそ来る。
驚き。
恐怖。
嫌悪。
その後に続く、いつもの言葉。
出ていけ。
近づくな。
魔女。
災い。
メイは布を握りしめたまま、罵声を受ける準備をした。
心の奥を固く閉じる。
期待の芽を踏み潰す。
痛みに備える。
しかし。
瞬の口から漏れたのは、怒鳴り声ではなかった。
「……よかった」
かすれた声だった。
ほとんど息に近かった。
瞬は目を見開いたまま、少しだけ顔を歪めた。
泣きそうな、笑いそうな、どちらにも見える顔だった。
「目、覚めたんだな」
メイは動けなかった。
瞬は、慌てて立ち上がろうとして、濡れた服の重さと疲労で少しふらついた。けれどすぐに足を止めた。
近づきすぎないように。
メイが怯えたのを見て、そこで止まった。
その距離の取り方が、またメイを混乱させた。
「水、飲めるか?」
瞬は、部屋の隅に置いていた欠けた器を手に取った。
そこには、雨水を煮沸したらしい湯冷ましが入っている。透明とは言い切れないが、布で濾したのか、目立つ汚れはなかった。
「喉、乾いてるだろ。そこに置く。嫌なら飲まなくていい」
瞬は器をメイの近くに置き、すぐに一歩下がった。
手渡ししない。
触れない。
押しつけない。
まるで、怖がる小さな獣に接するように。
いや、違う。
獣として扱っているわけではない。
怖がっている相手を、怖がらせないようにしているだけだ。
メイは、器を見た。
そして、瞬を見た。
彼の視線は、確かにメイの左目を見ていた。
隠しようのない紫の瞳を。
けれど、そこには怯えがなかった。
嫌悪もなかった。
ただ、強い安堵と、消しきれない後悔があった。
メイの喉が震えた。
「……なんで」
声が出た。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
瞬は、まっすぐにメイを見た。
「うん」
何かをごまかすような笑みはなかった。
いつもの軽さも、今は少し遠くに置いてきたようだった。
「ちゃんと話す」
メイの指が、布を握りしめる。
瞬は、ゆっくりと言った。
「その前に、一つだけ言わせてくれ」
空き家の外で、雨上がりの雫が屋根から落ちた。
ぽたり。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
朝の細い光が、板の隙間から差し込み、メイの紫の瞳を淡く照らしていた。
瞬は、逃げなかった。
目を逸らさなかった。
そして、今度こそ、遅れずに言った。
「俺は、その目が怖くない」
その言葉は、空き家の薄暗い朝に、静かに落ちた。
大きな声ではなかった。人を納得させようとする強い声でもない。けれど、雨上がりの冷えた空気の中で、その一言だけは、不思議とはっきり聞こえた。
メイは、動けなかった。
布を握る指が震えている。
左目を隠したい。
すぐにでも隠したい。
けれど、瞬の視線から逃げることもできなかった。
彼は、見ていた。
紫の瞳を。
これまで誰もが恐れ、避け、石を投げる理由にしたその色を。
けれど、瞬の顔には嫌悪がなかった。
怯えもなかった。
ただ、痛そうなほど真剣な表情で、メイを見ていた。
「……嘘」
メイの口から、掠れた声が漏れた。
「嘘です」
瞬は、すぐに否定しなかった。
言葉を急がなかった。
メイがそう言うのは当然だと、受け止めるように、ほんの少しだけ視線を伏せた。
「そう思うよな」
メイの胸が、きゅっと痛んだ。
優しい返事だった。
けれど、それもまた怖かった。
優しい言葉は、いつか変わる。
温かい手は、いつか離れる。
そう知っているから。
「みんな、最初はそういう顔をします」
メイは、布を胸元に引き寄せた。
「怖くないって……大丈夫だって……でも、見たら変わるんです」
声が震えた。
止めようとしても、言葉がこぼれた。
「村の人も、食堂の人も、騎士の人も、家族だって言った人も……みんな、変わりました」
暖炉の火が、ぱち、と鳴った。
その音に、メイの肩が小さく跳ねる。
「私が何をしても、関係なかった。助けても、働いても、守っても……この目を見たら、全部なくなるんです」
瞬は、黙って聞いていた。
途中で遮らなかった。
「だから、シュンさんも……今はそう言ってるだけです。まだ、ちゃんとわかってないだけです」
メイは、必死に視線を逸らした。
「私といたら、嫌われます。迷惑がかかります。昨日だって、宿にも……」
そこまで言って、言葉が止まった。
瞬の顔が、少しだけ曇ったからだ。
メイは理解した。
やはり、宿には行ったのだ。
そして、拒まれたのだ。
だからここにいる。
この古い空き家に。
冷えた床と、壊れた棚と、雨漏りの音しかない場所に。
「……やっぱり」
メイは、小さく笑った。
笑いではなかった。
胸の底が崩れた時に出る、息の形だった。
「ほら、そうじゃないですか」
瞬は、奥歯を噛んだ。
「そうだな」
その返事に、メイは目を見開いた。
瞬は逃げなかった。
言い訳もしなかった。
「宿には断られた。お前の目の噂が、もう少し広がってた。俺が頼んでも、入れてもらえなかった」
淡々とした声だった。
けれど、その奥に怒りがあった。
宿の男に対する怒りだけではない。
そんな場所へ連れて行こうとした自分への怒りも混じっていた。
「だから、ここにした。綺麗な場所じゃない。あったかい寝台もない。ちゃんとした薬もない。正直、最悪の部屋だ」
瞬は、古い壁と、雨染みの天井を見上げた。
「でも、誰もお前を見ない。誰も叫ばない。誰も追い出さない」
メイは、言葉を失った。
瞬は続けた。
「俺は昨日、わかったつもりで全然わかってなかった。飯を食べさせれば大丈夫だと思った。助ければ安心すると思った。怖くないって思ってれば伝わると思った」
彼の声が、少し低くなる。
「でも、違った。思ってるだけじゃ届かない。俺が黙った一瞬で、お前はまた全部壊れたと思ったんだろ」
メイの指が、布を強く握った。
その通りだった。
その通りすぎて、胸が痛かった。
瞬は、深く息を吸った。
「だから、今度は黙らない」
メイが、ゆっくりと彼を見る。
瞬は、まっすぐ言った。
「綺麗だと思った」
空き家の中が、静まり返った。
雨はもう上がっている。
屋根から落ちる水滴の音だけが、ぽたり、ぽたりと続いている。
「月明かりで見た時、すごく綺麗だと思った。怖いとか、気持ち悪いとか、そんなことは少しも思わなかった」
メイの唇が震えた。
「……そんなの」
「信じなくていい」
瞬はすぐに言った。
メイは息を呑んだ。
「今すぐ信じろなんて言わない。昨日会ったばかりの男が、急に何を言ってるんだって思っていい。怖いなら怖いままでいい。俺の言葉を疑っていい」
瞬の声は、穏やかだった。
「でも、俺は何度でも言う。お前の目は怖くない。俺は嫌じゃない。綺麗だと思った」
メイの中で、何かが揺れた。
それは救いではなかった。
まだ、そこまで届いていない。
けれど、長い間凍りついていた心の表面に、ほんの細いひびが入るような感覚だった。
痛かった。
温かいものが入り込もうとする痛みだった。
メイは、布を左目へ持ち上げた。
今度は指が少しだけ動いた。
しかし、結び目を作る前に、瞬が視線を逸らした。
メイは驚いた。
「……見ないんですか」
「見てほしくないだろ」
瞬は、横を向いたまま答えた。
「隠したいなら隠せばいい。隠さなくていいって俺は思ってる。でも、決めるのは俺じゃない」
その言葉で、メイの手が止まった。
これまで、布は奪われるものだった。
剥がされるものだった。
あるいは、隠していること自体を責められるものだった。
けれど瞬は、隠していいと言った。
隠さなくてもいいと言った。
どちらを選ぶかを、メイに返した。
それが、何よりわからなかった。
「……私は」
声が震える。
「隠してないと、怖いです」
「うん」
「見られるのが、怖いです」
「うん」
「また、嫌われるのが……怖いです」
瞬は、ゆっくり頷いた。
「怖いよな」
その短い言葉で、メイの目に涙が滲んだ。
怖いよな。
たったそれだけ。
それだけのことを、誰も言ってくれなかった。
人々は、自分たちが怖いと言った。
災いが怖い。
呪いが怖い。
紫の瞳が怖い。
でも、メイが怖かったことを、誰も見ようとしなかった。
メイは震える手で布を巻いた。
左目が隠れる。
視界の半分が暗くなる。
いつもの暗さ。
いつもの狭さ。
それでも、今は少し違っていた。
布を巻いたのは、誰かに強制されたからではない。
自分で選んだからだった。
瞬は、メイが巻き終えた気配を感じてから、ゆっくり視線を戻した。
「水、飲めそうか?」
メイは、器を見た。
喉は乾いていた。
ひどく。
けれど、手を伸ばすのが怖かった。
受け取れば、また借りができる。
優しさに触れれば、また失う怖さが生まれる。
それでも、瞬は催促しなかった。
器はそこにある。
取るかどうかは、メイに任されている。
メイは、ゆっくり手を伸ばした。
欠けた器を両手で包む。
水は少しぬるかった。
けれど喉を通ると、体の奥に染み込んだ。
「……ありがとうございます」
瞬は、少しだけ表情を緩めた。
「どういたしまして」
その当たり前の返事が、また胸に痛かった。
ありがとうに、怒鳴り声が返ってこない。
謝罪を求められない。
対価を迫られない。
ただ、どういたしまして、と返ってくる。
メイは器を見つめたまま、小さく尋ねた。
「……どうして、助けたんですか」
瞬はすぐには答えなかった。
ふざけて返すこともできた。
たまたまだとか、英雄だからとか、腹が鳴ってたからとか。
けれど、今それを言えば、逃げになる気がした。
彼は、まっすぐに答えた。
「助けたかったから」
メイの肩が揺れる。
瞬は続けた。
「最初は、路地裏で三人に囲まれてるのを見て、放っておけなかった。それは普通に助けたかった」
暖炉の火が弱まり、瞬は薪を一本足した。
ぱち、と火が小さく跳ねる。
「でも、その後は少し違った」
「……違った?」
「ああ」
瞬は、メイを見る。
「お前、怖かっただろ。あの時、反撃しようと思えばできたんじゃないか」
メイの息が止まった。
瞬はそれを見て、確信したように続けた。
「でも、しなかった。傷つけられそうになっても、傷つけ返すことを選ばなかった」
メイは、器を握る指に力を込めた。
「それは……怖かったからです。力を使ったら、また化け物だって……」
「うん」
瞬は頷いた。
「でも、それでもだ。怖いから何もしなかったって言うかもしれない。でも俺には、誰かを壊したくなくて、必死で踏みとどまってるように見えた」
メイの喉が震えた。
そんなふうに見られたことは、一度もなかった。
力を使えば恐れられた。
使わなくても拒まれた。
けれど、使わないことを強さだと言われたことはなかった。
「飯の時もそうだった」
瞬は、静かに言った。
「腹が限界だったのに、先に“いただいていいのか”って聞いた。何度もありがとうって言った。自分が食べることにまで、申し訳なさそうにしてた」
彼の声に、わずかな痛みが混じる。
「それを見て、思ったんだ。お前はずっと、ひどい目に遭ってきたんだろうって。それでも、まだ人に礼を言えるんだなって」
メイの目から、涙が落ちた。
布に吸い込まれる。
左目は隠れている。
けれど、右目からこぼれる涙は隠せなかった。
瞬は、手を伸ばさなかった。
ただ、そこにいた。
「俺は、そこに惹かれたんだと思う」
その言葉は、あまりにも静かだった。
恋だとか、運命だとか、そういう派手な響きではない。
もっと深くて、もっと不器用で、まだ名前のついていないものだった。
「可哀想だからじゃない。弱いから守りたいってだけでもない」
瞬は言う。
「傷ついても、まだ壊れきってないところ。怖いのに、誰かを傷つける側に行かないところ。生きるのをやめてないところ」
メイは、泣きながら首を振った。
「私は……そんな綺麗なものじゃないです」
「綺麗かどうかは、俺が決めることじゃないかもしれない」
瞬は少しだけ考えた。
「でも、俺にはそう見えた」
メイは、もう何も言えなかった。
これまで浴びせられた言葉が、胸の奥で騒いでいた。
災い。
魔女。
化け物。
でも、その中に、別の言葉が落ちてきた。
怖くない。
綺麗だ。
傷つける側に行かなかった。
生きるのをやめていない。
それらの言葉は、まだ弱かった。
過去の罵声に比べれば、あまりにも小さい。
けれど、消えなかった。
暖炉の火のように、空き家の隅で小さく揺れていた。
「……信じられません」
メイは正直に言った。
瞬は、少しだけ笑った。
「うん」
「信じたら、また壊れた時に……耐えられない」
「うん」
「だから、信じられません」
「それでいい」
メイは顔を上げた。
瞬は、穏やかに続けた。
「信じられないままでいい。俺は、信じろって言いに来たんじゃない」
「じゃあ……」
「今日は、休め」
その言葉は、あまりにも単純だった。
「逃げてもいい。疑ってもいい。布で隠してもいい。俺を嫌ってもいい。でも、今は体が限界だ。少し寝ろ」
メイは、ぽかんと瞬を見た。
「……それだけ、ですか」
「それだけ」
瞬は真剣に頷いた。
「いや、本当は温かい飯も食わせたいけど、今この空き家にある食料がゼロだから、そこは俺の大失敗だ」
「……」
「あとで必ず何か探す。いや、買う。盗まない。たぶん」
「たぶん……?」
瞬は一瞬だけ言葉に詰まった。
「いや、買う。絶対買う。英雄が初日に食料泥棒はまずい」
メイは、涙で濡れた目のまま、少しだけ息を漏らした。
笑ったと言うには弱すぎる。
けれど、確かに、張り詰めた糸がほんの少し緩んだ音だった。
瞬は、それを見て、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
大きな変化ではない。
救えたわけではない。
けれど、彼女は今、逃げていない。
話を聞いている。
泣いている。
それは、心がまだ動いている証だった。
「メイ」
瞬は名前を呼んだ。
メイは、びくりとしながらも逃げなかった。
「俺はここにいる。でも、怖かったら距離を取る」
彼は床の端を指さした。
「俺は向こうに座る。入口の近く。お前は暖炉のそばにいればいい。逃げたくなったら、止めない。でも、外はまだ寒いから、できれば朝までここにいてほしい」
メイは、扉の方を見た。
古い扉。
歪んだ木枠。
その向こうには、雨上がりの冷たい王都がある。
逃げ道はある。
その事実が、不思議とメイの呼吸を楽にした。
閉じ込められていない。
選べる。
ここにいてもいいし、逃げてもいい。
その自由が、初めて少しだけ安心に近いものを生んだ。
メイは、外套の上にゆっくり横になった。
体はまだ痛む。
足首も重い。
胸の奥はぐちゃぐちゃだった。
それでも、さっきより少しだけ息がしやすかった。
瞬は約束通り、入口近くへ移動した。
床に座り、背を壁に預ける。
濡れた服はまだ乾ききっていない。
それでも、彼は暖炉に近づこうとはしなかった。
暖かい場所はメイに譲ったままだった。
メイは、それを見てしまった。
見たくないのに、見てしまった。
「……寒くないんですか」
小さく尋ねる。
瞬は少し驚いた顔をしたあと、軽く笑った。
「寒い」
正直だった。
「でも、俺は頑丈だから」
「……また、それですか」
「便利な言葉だろ、頑丈」
メイは、わずかに眉を寄せた。
「便利でも、寒いものは寒いと思います」
瞬は目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑いかけて、途中で抑えた。
メイを驚かせないように。
「じゃあ、薪をもう少し足す。俺の方にも少し火が来るようにする」
彼は慎重に薪を動かした。
火が少し広がり、部屋の温度がわずかに上がる。
空き家の壁に、二人分の影が揺れた。
遠い。
でも、同じ火に照らされていた。
メイは、布で隠した左目をそっと押さえた。
まだ怖い。
まだ信じられない。
でも。
「怖くない」と言った声が、耳の奥に残っている。
「綺麗だ」と言った声が、胸の中で消えずにいる。
それがまた怖かった。
けれど、少しだけ、手放したくなかった。
メイは目を閉じた。
眠れるとは思わなかった。
けれど、火の音と、入口のそばにいる瞬の静かな気配が、少しずつ意識を柔らかくしていく。
眠りに落ちる直前、メイは聞いた。
「おやすみ、メイ」
それは、誰かに追い出される言葉ではなかった。
何かを求める言葉でもなかった。
ただ、夜を越えるための言葉だった。
メイは返事をしなかった。
でも、外套の端を、ほんの少しだけ握った。
瞬はそれに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
空き家の外では、雨上がりの雫がまだ落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
夜は少しずつ薄くなっていく。
王都の片隅の壊れた空き家で、二人はまだ遠い距離を挟んでいた。
けれど、その距離の間には、もう石も罵声もなかった。
ただ、小さな火と、届き始めた言葉だけがあった。




