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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第15話:冷たい雨と罠、幻の温もり 〜「幻」とは、「絶望が見せた最後の慈悲」である〜

雨は、世界の輪郭を溶かしていた。


森の木々は黒い影となり、枝葉から落ちる水滴が、絶え間なく地面を叩いている。ぬかるんだ土は踏むたびに沈み、腐った落ち葉の匂いと、冷えた雨水の匂いが混ざり合って、夜の底に重く溜まっていた。


瞬は、その闇の中を歩いていた。


腕の中には、メイがいる。


驚くほど軽かった。


さっきまで王都の石畳を必死に走っていた少女の体は、今は糸が切れた人形のように力を失っている。濡れた銀色の髪が頬に張りつき、雨に冷えた唇はかすかに青い。足首には罠の跡が赤く残り、そこから滲んだ血が雨に薄められて、泥の上へ落ちていた。


瞬は、息を殺すように彼女を抱き直した。


力を入れすぎれば壊してしまいそうだった。


けれど、緩めれば、雨の中へ落としてしまいそうだった。


その加減が、ひどく怖かった。


「……ごめん」


雨音の中で、瞬の声がこぼれた。


返事はない。


メイのまつ毛に雨粒が溜まり、小さく震えている。閉じたまぶたの下に、あの紫の瞳がある。月明かりの中で見た時、息を呑むほど綺麗だった瞳。


けれど、その沈黙が彼女を傷つけた。


綺麗だと思った。


怖くなかった。


むしろ、目を逸らしたくないほどだった。


なのに、言葉にできなかった。


その数秒の遅れが、メイにとってはこれまでのすべてと同じだったのだ。


村で。


宿場町で。


湖畔で。


渓谷で。


そして王都で。


人々が彼女の瞳を見て、顔を変えたその瞬間と同じに見えたのだ。


「俺は、何もわかってなかった」


瞬は歯を食いしばった。


雨が頬を伝う。


それが涙なのか、ただの水なのか、自分でもわからなかった。


これまで瞬は、自分の力をどこかで信じていた。


魔獣が出れば倒せる。


盗賊が来れば追い払える。


黒い巨人が街を襲えば、吹き飛ばせる。


目の前の危険なら、どうにかできると思っていた。


だが、メイの中にあるものは、殴れない。


投げ飛ばせない。


小石で砕けない。


目に見えない過去の傷が、彼女の中に深く深く食い込んでいる。


それを知らずに、ただ手を伸ばして、食事を与えて、優しくすれば届くと思っていた。


そんな自分の軽さが、今は嫌だった。


「メイ」


彼は、腕の中の少女に呼びかけた。


「聞こえてなくても、言うからな」


雨が激しくなる。


木々の葉がざわめき、冷たい水が瞬の髪から顎へ落ちる。足元の泥がぐちゃりと鳴った。遠くで雷が低く唸り、森全体が一瞬だけ青白く照らされる。


その光の中で、メイの顔が浮かび上がった。


怯えたように眉を寄せている。


意識を失っているはずなのに、まだ何かから逃げているような顔だった。


瞬の胸が、きつく締めつけられた。


「怖くない」


彼は、はっきり言った。


「お前の目は、怖くない」


言葉は雨に叩かれ、すぐに消えていく。


けれど、瞬は続けた。


「綺麗だった。ほんとに、綺麗だったんだ」


メイの指が、ほんのわずかに動いた。


瞬は息を止める。


だが、彼女は目を覚まさない。


ただ、濡れた指先が、何かを探すように空を掴み、また力なく落ちた。


瞬はその手を見た。


握り返そうとして、止まった。


勝手に触れれば、彼女は目覚めた時に怖がるかもしれない。


でも、落ちたままの手が、あまりにも寒そうだった。


瞬は迷った末に、自分の外套の端で、そっとその手を包んだ。


握らない。


掴まない。


ただ、冷たい雨が直接当たらないように覆う。


それだけだった。


「今度は、ちゃんと聞いてもらえるまで言う」


瞬は、雨の森を見据えた。


「逃げても追いかける。嫌がったら止まる。でも、ひとりで凍える場所に戻るのだけは、見過ごさない」


それが正しいのかどうか、彼にはまだわからない。


追いかけることすら、彼女には怖いかもしれない。


けれど、放っておくことだけは違う。


それだけは、はっきりしていた。


森の出口が見えた。


雨の向こうに、王都の灯りが滲んでいる。


遠く、濡れた草原の先に、城壁の上の松明がぼんやりと揺れていた。炎は雨に霞み、まるで水底で燃えている火のようだった。


瞬は足を止めた。


門には戻れない。


メイの紫の瞳を見た人々の噂は、すでに王都の中へ広がっているだろう。門番に見られれば、また騒ぎになる。人が集まる。視線が増える。声が増える。


それは、メイにとって刃になる。


「……悪いけど、正面突破はなしだな」


瞬は城壁を見上げた。


高い。


普通の人間なら、見上げるだけで諦める高さだった。雨に濡れた石壁は黒く光り、上には巡回の兵士の影が見える。


だが、瞬にとっては越えられない壁ではなかった。


問題は、自分だけではないこと。


腕の中にいるメイを、少しも揺らさず、少しも怖がらせず、少しも傷つけずに越えなければならないことだった。


瞬は深く息を吸った。


足に力を込める。


だが、入れすぎない。


地面を砕かないように。


メイの体を揺らさないように。


雨粒の一つ一つが、やけに大きく聞こえた。


「大丈夫」


誰に言うでもなく呟く。


「今度は、雑にしない」


瞬は地面を蹴った。


どん、という音はしなかった。


彼は、音を抑えた。


草がわずかに揺れ、泥が少し跳ねただけだった。


それでも二人の体は、雨の夜へ静かに浮き上がった。


城壁の上を越える一瞬、王都の街並みが下に広がった。


濡れた屋根。


滲むランタン。


閉ざされた窓。


夜の通り。


ついさっきまで、メイを追い詰めた街。


それでも、あの街の中にしか今は温かい部屋がない。


瞬は唇を結び、誰にも見られないよう、屋根から屋根へと静かに降りた。


雨はまだ降っている。


メイは、眠ったままだった。


その頬に、冷たい雫が一筋、涙のように流れていた。


瞬は、それを指で拭おうとして、また手を止めた。


代わりに、自分の肩を少し傾けて、彼女の顔に雨が当たらないようにした。


「もう少しだ」


小さく言う。


「もう少しで、温かいところに着く」


その言葉が、今度こそ少しでも届けばいいと思いながら。


瞬は、雨に沈む王都の屋根を渡っていった。


雨に濡れた王都は、さっきまでとは別の街のようだった。


屋根を叩く雨粒が、ぱたぱたと細かく弾ける。軒先から落ちる水は細い滝のように石畳へ流れ、ランタンの灯りを歪ませている。橙色だった光は雨の膜に滲み、足元で崩れた金貨のように揺れていた。


瞬は、メイを抱えたまま、街の影を縫って進んだ。


彼女は軽かった。


あまりにも軽かった。


腕の中の体は雨に冷え、濡れた髪が頬に貼りついている。息はある。けれど浅く、細い。額の傷から滲んだ血は雨に薄まり、頬を伝って首筋へ流れていた。


「もう少しだ」


瞬は小さく言った。


「温かいところに連れていく」


そのつもりだった。


灯りのある宿へ。


暖炉の火があり、乾いた布があり、湯があり、人の手がある場所へ。


けれど、最初に見つけた宿の裏口を叩いた時、瞬はすぐに思い知らされた。


扉を開けた中年の男は、最初こそ眠たげな顔をしていた。


だが、瞬の腕の中にいる少女を見た瞬間、表情が変わった。


濡れた髪の隙間。


閉じたまぶたの下に隠れきらない、紫の気配。


あるいは、すでに街に広がり始めた噂を思い出したのかもしれない。


男の顔から、血の気が引いた。


「……その子、まさか」


瞬は言葉を遮るように言った。


「怪我をしてます。雨に打たれて体も冷えてる。部屋を貸してください。金は払います」


男は一歩下がった。


「だ、だめだ」


「お願いします」


「だめだ! 紫の瞳の娘だろう!? さっきから街で騒ぎになってる。そんな子を泊めたら、うちの宿が終わる!」


瞬の腕に、わずかに力が入りかけた。


扉ごと壊してしまいそうな怒りが、胸の奥で膨れ上がる。


だが、腕の中にはメイがいた。


この怒りをぶつけても、彼女は救われない。


男を脅して部屋を借りたところで、そこは安全な場所ではない。怯えた目、遠巻きの視線、噂、扉の向こうの囁き。それらは全部、メイをまた傷つける。


瞬は、奥歯を噛みしめた。


「……わかりました」


男は、何か言い訳を探すように唇を震わせた。


「悪いが、俺にも家族が――」


瞬は聞かなかった。


背を向けた。


扉が閉まる。


がちゃん。


かんぬきが下ろされる音がした。


その音は、メイが何度も聞いてきた音なのだろうと、瞬は思った。


世界から締め出される音。


「……ごめん」


腕の中のメイに、また謝った。


雨は強くなっていた。


瞬は宿の灯りから離れた。


通りの奥へ。


人の声が少ない方へ。


濡れた石畳を歩きながら、彼は初めて理解した。


明るい場所へ連れていけばいいわけではない。


人のいる場所へ連れていけば救えるわけではない。


この街の光は、今のメイには眩しすぎる。


照らせば、また人に見られる。


見られれば、また拒まれる。


ならば、今必要なのは光ではない。


誰にも見られない影だ。


瞬は、王都の古い区画へ入った。


そこは大通りとは違い、建物の間隔が狭く、道も曲がりくねっていた。使われなくなった倉庫や、半ば崩れた家がいくつも並んでいる。窓板は割れ、軒先には雨水が溜まり、壁には蔦が絡みついていた。


風が吹くたび、古い看板がぎい、と鳴る。


その音が、夜の底に沈んだ。


瞬は一軒の空き家を見つけた。


石造りの小さな家だった。


扉は傾き、窓は板で塞がれている。人が住まなくなって長いのだろう。軒下には枯れ草が吹き溜まり、雨水が黒い筋を作って壁を伝っていた。


瞬は扉に手をかけた。


鍵は壊れていた。


少し押すと、ぎぎ、と湿った音を立てて開いた。


中は暗かった。


埃と古い木の匂い。


湿った石壁の冷え。


誰かが遠い昔に置いていった壊れた椅子。


部屋の隅には割れた棚が倒れ、床には落ち葉が入り込んでいた。


まともな場所とは言えない。


でも、少なくとも誰もいない。


誰も見ない。


誰も叫ばない。


瞬は、メイを抱えたまま中へ入った。


扉を閉めると、雨音が少し遠くなった。


それだけで、胸がわずかに緩む。


「ここで我慢してくれ」


瞬は、床の埃を片手で払おうとして、すぐにやめた。


その力では床ごと削りかねない。


彼は壊れた棚の板を拾い、慎重に埃を寄せた。濡れていない古布を探したが、まともなものはない。仕方なく自分の外套を床に敷き、その上へメイをそっと下ろした。


彼女の体が震えている。


寒さか、悪夢か、あるいはその両方か。


「火がいるな」


瞬は部屋を見回した。


隅に、古い薪が数本残っていた。湿気を含んでいるが、完全には腐っていない。暖炉もある。煙突が詰まっていないか不安だったが、今は火がなければメイが凍えてしまう。


瞬は薪を組み、指先を近づけた。


以前のように雑に火を起こせば、この空き家ごと燃やしかねない。


小さく。


弱く。


暖めるためだけに。


彼は息を整えた。


指先にほんの少し力を込める。


ぱち。


小さな火花が散った。


薪の端が赤く灯る。


細い煙が上がり、それから、かすかな炎が生まれた。


瞬は息を吐いた。


「よし……」


火は、少しずつ大きくなった。


暖炉の中で、赤い光が揺れる。濡れた石壁に、橙色の影が伸びた。部屋の冷えはすぐには消えない。それでも、雨の外よりはずっとましだった。


瞬はメイの足首を見た。


縄の跡が赤黒く腫れている。


額の傷もある。


擦り傷も、打ち身も、数え切れない。


「痛かったよな……」


水が必要だった。


瞬は外へ出て、屋根から落ちる雨水を壊れた器に受けた。できるだけ綺麗な布を探したが、見つからない。結局、自分のシャツの袖を裂いた。


びり、と布が裂ける音が、空き家に響いた。


瞬はその布を雨水で濡らし、メイの傷を拭いた。


額。


頬。


足首。


手の甲。


触れるたび、メイの眉が苦しそうに寄る。


瞬はそのたびに手を止めた。


「ごめん。痛いよな」


返事はない。


それでも、彼は声をかけ続けた。


「勝手に触ってる。ごめん。でも、傷だけは洗わせてくれ」


血と泥が少しずつ落ちていく。


紫の瞳は閉じられたままだった。


瞬は、古びた布を取り出した。


メイが失った、左目を隠すための布。


雨と泥と血を吸って、重くなっている。


これを巻けば、彼女は目覚めた時に少し安心するかもしれない。


けれど、瞬の手は止まった。


勝手に隠していいのか。


その瞳を、見られてはいけないものとして扱っていいのか。


違う。


この布は、メイが自分を守るために必要としていたものだ。


でも同時に、世界が彼女へ押しつけてきた檻でもある。


瞬には、そのどちらかを勝手に決める権利はなかった。


彼は布を、メイの枕元に置いた。


手を伸ばせば届く場所へ。


でも、勝手には巻かない。


「目が覚めたら、自分で選んでくれ」


火が、ぱちりと鳴った。


瞬は壊れた椅子を直そうとして、脚を持った瞬間に折りそうになり、諦めて床に座った。外套はメイに敷いている。自分は濡れた服のままだったが、構わなかった。


暖炉の火が、メイの頬を淡く照らす。


閉じたまぶた。


細く震える呼吸。


まだ痛みに逃げようとするように、時々指先が動く。


瞬はその手を握らなかった。


ただ、雨が吹き込まないように、壊れた窓板の隙間へ板を立てかけた。


「メイ」


小さく名前を呼んだ。


「ここは、綺麗な場所じゃない。宿でもない。ベッドもない。たぶん、まともな人なら怒るくらいボロい」


彼は少しだけ苦く笑った。


「でも、今は誰もお前を見ない。誰も石を投げない。誰も、出ていけって言わない」


暖炉の火が揺れる。


「だから、少しだけ休め」


雨音が屋根を叩き続けている。


その音に紛れて、瞬はようやく言った。


「俺は、その目が怖くない」


眠っているメイには、届いていないかもしれない。


それでも、言葉にした。


「綺麗だと思った」


声が少し震えた。


「怖がったんじゃない。嫌だったんじゃない。あまりにも綺麗で、言葉が遅れた」


それが言い訳でしかないことは、瞬にもわかっていた。


遅れた時点で、彼女を傷つけた。


けれど、言わずにいるよりはましだった。


何度でも言うしかない。


彼女が起きて、怯えて、逃げようとして、それでもほんの少しでも耳を傾けてくれるまで。


「俺は、お前が弱いだけだとは思わない」


瞬は、メイの手を見た。


傷だらけの細い手。


「怖いのに、誰かを傷つける側にならなかった。腹が空いても、礼を忘れなかった。逃げるしかなくても、生きるのをやめなかった」


火の粉が、小さく弾けた。


「そこに惹かれたんだと思う」


言ってから、瞬は目を伏せた。


自分の言葉に少し驚いていた。


けれど、嘘ではなかった。


メイを見ていると、胸が痛くなる。


放っておけない。


救いたい。


でもそれだけではない。


彼女の中に、壊されても消えていないものがある。


それが、瞬には眩しかった。


外の雨は、ますます強くなった。


空き家の屋根から水が漏れ、部屋の端にぽたり、ぽたりと落ちる。冷えた空気はまだ残っている。床も硬い。壁も湿っている。


それでも、暖炉の前だけは、わずかに温かかった。


瞬は、メイのそばに座ったまま、夜を見張った。


眠るつもりはなかった。


この場所は安全とは言い切れない。


誰かが来るかもしれない。


火が消えるかもしれない。


メイの熱が上がるかもしれない。


だから、見ていなければならない。


そう思っていた。


けれど、雨の音と暖炉の音が重なり、疲れが少しずつ意識を沈めていった。


泥に濡れた服は冷たく、背中に貼りついている。


それでも瞬は、メイの枕元に置いた布と、彼女の呼吸を何度も確認した。


「目が覚めたら、ちゃんと言うからな」


最後にそう呟いた。


暖炉の火が、静かに揺れた。


メイは外套の上で眠っている。


ベッドではない。


清潔な宿でもない。


けれど、そこには少なくとも、彼女を拒む声はなかった。


雨の夜。


王都の片隅の忘れられた空き家で。


光の中にいた男は、初めて、影の中で誰かを守ることを選んだ。


そしてその選択こそが、メイに届く最初の一歩になるのだと、瞬はまだ知らなかった。

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