第14話:降り始めた雨と、届かなかった言葉 〜後悔とは、手遅れになってから喉を焼くものである〜
王都グランドルの夜は、先ほどまで確かに温かかった。
屋台の湯気があり、焼けた肉の匂いがあり、遠くの酒場からは笑い声が漏れていた。石畳にはランタンの橙色の光が落ち、風に揺れる旗の影が、道の上をゆっくり泳いでいた。
けれど今、その温かさはメイの背中から遠ざかっていた。
彼女は路地裏を走っていた。
息が切れる。
喉が痛い。
足がもつれる。
それでも止まれない。
左目を隠す布はない。指先で押さえても、隠しきれない。手の隙間から夜気が入り込み、冷たい月明かりが、あの瞳に触れている気がする。
紫の瞳。
それは、メイにとって目ではなかった。
呪いの札だった。
拒絶の印だった。
温かい場所から追い出されるための合図だった。
「……いや……」
小さな声が、走る息の中に混じった。
足元の石畳が濡れている。
昼間の水がまだ乾ききっていないのか、踏むたびに靴底がわずかに滑った。細い路地の壁には夜露が滲み、古い石の隙間から冷たい匂いが立ち上がっている。
背後から、瞬の声が聞こえた気がした。
メイ。
そう呼ばれた気がした。
その声は、さっき屋台で名前を呼ばれた時と同じだった。
優しくて、まっすぐで、少しだけ不器用で。
だからこそ、怖かった。
あの声が次に変わる瞬間を、メイは見たくなかった。
「化け物」と呼ばれる前に。
「近づくな」と言われる前に。
「あんなものを綺麗だと思うわけがない」と目を逸らされる前に。
自分から逃げなければならなかった。
路地を抜ける。
突然、視界が開けた。
細い裏道の先には、小さな広場があった。昼間なら荷運びの馬車が止まり、子供たちが走り回る場所なのだろう。だが今は、雨を待つ夜のように暗く、中央の井戸だけが月明かりを受けて鈍く光っていた。
その広場の端に、酔った男たちがいた。
三人。
笑いながら歩いていた彼らは、突然飛び出してきたメイを見て足を止めた。
「おい、危ねぇな」
一人が声を上げる。
メイは反射的に顔を伏せた。
通り過ぎようとした。
だが、焦りで足が滑った。
石畳に膝をつく。
ざり、と皮膚が擦れた。
痛みより先に、視線が怖かった。
「おい、大丈夫か?」
男の一人が近づいてくる。
その声は、最初だけは普通だった。
普通だから怖かった。
普通の声は、いつも途中で変わる。
メイは顔を隠そうとした。けれど、両手は震えている。指の隙間から、紫の光が漏れた。
男が、それを見た。
ほんの一瞬。
しかし、人の恐怖は一瞬で形を変える。
「……紫?」
その呟きが、夜に落ちた。
メイの心臓が止まりかけた。
別の男が、彼女の顔を覗き込む。
「おい、まさか……紫の瞳か?」
空気が凍った。
先ほどまで酒で緩んでいた男たちの顔から、血の気が引いていく。頬の赤みが消え、口元が引きつり、手がゆっくり後ろへ下がる。
見慣れた変化だった。
好奇心。
驚き。
恐怖。
そして拒絶。
何度も見てきた、人の顔が裏返る瞬間。
「災いの目だ……」
誰かが言った。
その声は小さかった。
けれど、小さな火種が乾いた藁に落ちるように、広場の空気へ一気に燃え広がった。
「近づくな!」
「目を合わせるな!」
「なんで王都にそんなものがいるんだ!」
メイは立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
膝が震える。
それでも逃げようとした。
その時、小石が飛んできた。
最初の一つは、肩をかすめて壁に当たった。
かん、と乾いた音が響く。
二つ目は、額に当たった。
鈍い衝撃。
視界が白く弾ける。
熱いものが眉の横を伝った。
血だった。
メイは声を上げなかった。
ただ、少しだけ笑いそうになった。
悲しくて。
惨めで。
あまりにも予想通りで。
「ほら……やっぱり」
唇だけが動いた。
期待した自分が悪い。
温かいスープを食べて、名前を呼ばれて、少しだけ笑って、ほんの少しだけ「この人なら」と思ってしまった自分が悪い。
だからこれは罰だ。
身の程を忘れた罰。
「出ていけ!」
男の声が広場に響いた。
その声に、近くの家の窓が開いた。顔が覗く。誰かが悲鳴を上げる。別の誰かが扉を閉める音がした。
「紫の瞳だ!」
「魔女がいる!」
「王都に災いが入ったぞ!」
声が増えていく。
それは人ではなく、風に乗る火の粉のようだった。
どこから来たのかわからない声が、次々と増え、重なり、広場全体を黒く染めていく。
メイは走った。
石畳を蹴る。
血が頬を伝う。
雨の匂いがした。
まだ降ってはいない。けれど、空気の奥に湿った冷たさが混じり始めていた。遠くの空で、低い雷が唸る。
王都の夜が、暗く沈んでいく。
*
瞬は、メイの布を握りしめたまま走っていた。
古びた布は軽かった。
けれど、その軽さが胸に重かった。
この布は、ただの布ではなかった。
メイが世界との間に張っていた薄い壁。
拒絶から身を守るための、最後の扉。
それを失った彼女が、今どんな気持ちで走っているのか。
考えようとした瞬間、瞬の喉が詰まった。
「メイ!」
声を張り上げる。
だが、王都の夜は広すぎた。
路地がいくつも分かれ、建物の影が重なり、ランタンの光は場所によってまばらだった。どこかで悲鳴が上がる。別の場所で扉が閉まる。人々の足音が乱れている。
何かが起きている。
そして、その中心にメイがいる。
瞬は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
さっき、あの瞳を見た瞬間。
自分は、確かに息を呑んだ。
恐れたからではない。
気持ち悪いと思ったからでもない。
あまりにも綺麗だったからだ。
月明かりに濡れた紫の瞳は、悲しみそのものが宝石になったようだった。傷ついて、濡れて、それでも消えない光を宿していた。
瞬は、それに見惚れた。
だが、メイにとって沈黙は沈黙でしかない。
これまで彼女を傷つけてきた人間たちと同じ、拒絶の前触れにしか見えなかったはずだ。
「違うんだ……」
走りながら、瞬は歯を食いしばった。
「違うんだよ、メイ……!」
思っているだけでは、何も伝わらない。
優しいつもり。
守るつもり。
傷つける気はなかった。
そんなものは、相手に届かなければ存在しないのと同じだ。
瞬は初めて、自分の力がひどく役に立たないものに思えた。
小石で岩を砕ける。
魔獣を吹き飛ばせる。
盗賊を地面にめり込ませられる。
黒い巨人さえ倒せる。
けれど、たった一人の少女に「怖くない」と伝えることができなかった。
たった一言、「綺麗だ」と間に合わせることができなかった。
「くそ……!」
その時、前方から人々が逃げてきた。
顔を青ざめさせ、肩をぶつけ合いながら、大通りの方へ駆けてくる。
瞬は一人の男の前に立った。
「何があった!」
男は瞬の顔を見て、さらに怯えたように身を引いた。
「え、英雄様……!」
「何があったって聞いてる!」
「む、紫の瞳だ! 女の子が……いや、魔女だ! 紫の目の魔女がいたんだ!」
瞬の全身から、血の気が引いた。
男はなおも早口で続ける。
「目が合えば呪われるって聞いた! 疫病が来る、家畜が死ぬ、井戸が腐るって――」
「黙れ」
瞬の声は低かった。
男が口を閉じる。
瞬は、握っていた布に視線を落とした。
紫の瞳。
魔女。
災い。
疫病。
そういう言葉が、この世界にはあるのか。
メイは、それをずっと浴びてきたのか。
あの小さな体で。
あの細い手で。
食べ物を受け取ることにすら謝っていた少女が。
何度も何度も、こんな言葉を投げつけられてきたのか。
瞬の胸の奥で、怒りが燃えた。
だが、その怒りはすぐに自分へ向いた。
知らなかった。
そう言えば許されるのか。
悪気はなかった。
それで済むのか。
違う。
知らなかったからこそ、聞かなければならなかった。
見た瞬間に、すぐ言わなければならなかった。
「俺は……」
瞬は、唇を噛んだ。
「俺は、何やってんだ……」
空が低く鳴った。
黒い雲が、王都の上へ広がっていた。
月はもう見えない。
ランタンの火が風に揺れ、石畳の上の影が激しく乱れる。
その時。
ぽつり。
冷たい雨粒が、瞬の手の甲に落ちた。
握っていた布に、ひとつ、黒い染みができる。
次の一粒が頬を叩いた。
また一粒。
やがて雨は、細い糸のように夜の街へ降り始めた。
瞬は顔を上げた。
「メイ!」
叫ぶ。
雨に濡れた石畳の向こう。
遠く、西門へ続く道の先に、小さな影が見えた気がした。
細く、頼りなく、今にも夜に溶けてしまいそうな背中。
瞬の胸が跳ねた。
「待ってくれ!」
彼は走り出した。
石畳を踏むたび、水が跳ねる。
雨は少しずつ強くなっていた。
王都の灯りが、濡れた道に滲み、世界全体が泣いているように歪んでいく。
それでも瞬は、布を胸に抱えたまま、ただ一つの影を追った。
今度こそ、届かなければならなかった。
今度こそ、言わなければならなかった。
怖くない。
嫌じゃない。
君の目は、災いなんかじゃない。
あの瞳を見て、俺は――。
だが、その言葉はまだ、雨の中で喉に引っかかったままだった。
雨は、王都の石畳を黒く染めていった。
最初は細い糸のようだった雨脚が、少しずつ太くなる。屋根の端から水が落ち、軒先に吊るされた看板を叩き、ランタンの火を何度も揺らした。橙色の灯りは濡れた道に滲み、まるで踏めば崩れてしまいそうな光の池を作っている。
メイは、その光を避けるように走っていた。
西門へ向かう道。
王都の外へ続く道。
人の声から遠ざかる道。
顔を隠す布はない。両手で左目を押さえながら走るせいで、足取りは不安定だった。肩が壁にぶつかる。膝がふらつく。雨に濡れた石畳で靴底が滑り、何度も転びそうになる。
それでも止まれなかった。
止まれば、見られる。
見られれば、また石が飛ぶ。
また誰かが叫ぶ。
また誰かが、自分を見て恐怖に顔を歪める。
「……もう、いい」
雨の中で、メイは呟いた。
「もう……いいから……」
誰にも期待しない。
誰にも近づかない。
誰にも名前を呼ばれない。
そうすれば、傷つかないはずだった。
なのに、シュンと名乗った男は、名前を呼んだ。
食べ物をくれた。
無理に触れなかった。
そして、紫の瞳を見て、黙った。
その沈黙が、メイには何より怖かった。
罵声なら、まだよかった。
石なら、まだよかった。
嫌悪の顔なら、見慣れている。
けれど、あの一瞬の沈黙は、温かかったものが壊れる直前の静けさだった。
メイはそれを知っていた。
何度も知ってしまった。
だから逃げた。
壊れる音を聞く前に。
拒まれる顔を見る前に。
自分の中に芽生えかけた、わずかな願いを踏み潰される前に。
西門が見えた。
雨に濡れた大きな門は、夜の底に沈んだ獣の口のようだった。門番たちは雨具をかぶり、慌ただしく人の出入りを確認している。黒い雲が空を覆い、遠くで雷が低く鳴った。
門番の一人が、走ってくるメイに気づいた。
「おい、そこの娘! こんな雨の中どこへ――」
メイは顔を伏せた。
左目を押さえたまま、門の端をすり抜ける。
「待て!」
声が追ってきた。
だが、メイは止まらない。
止まれない。
門の外へ出た瞬間、王都の灯りが背後へ遠ざかった。
そこには、黒い草原が広がっていた。
雨に打たれた草が、低く波打っている。月は雲に隠れ、道の輪郭はほとんど見えない。遠くには森の影があった。夜の中にさらに濃い夜を塗り重ねたような、深い黒。
メイは、その森へ向かって走った。
人のいる場所ではない。
火もない。
食べ物もない。
暖かい寝床もない。
でも、視線もない。
それだけでよかった。
雨が頬を叩く。
額の傷に染みる。
血が雨で薄まり、顎から落ちる。
足元の泥が跳ね、ローブの裾に重くまとわりつく。
それでもメイは、前へ進んだ。
やがて草原の土がぬかるみ、靴が沈み始めた。雨は強くなり、草の葉が濡れて重く垂れている。風が吹くたび、冷たい雫が横殴りに頬を打った。
背後から、遠く、声が聞こえた気がした。
「メイ!」
胸が跳ねた。
振り返りそうになった。
けれど、メイは歯を食いしばり、さらに速く走った。
聞いてはいけない。
あの声を聞けば、足が止まる。
足が止まれば、また信じたくなる。
信じたくなれば、また壊れる。
「来ないで……」
雨音に混じって、声が漏れた。
「お願いだから……来ないで……」
森の入口が近づく。
黒い木々が、雨の中で静かに立っていた。枝から落ちる水滴が、ぽたぽたと地面を叩いている。湿った土と濡れた葉の匂いが、王都の匂いを押し流した。
メイは森へ入った。
暗かった。
王都の灯りは、一歩入っただけでほとんど見えなくなった。枝葉が空を塞ぎ、雨音が幾重にも重なっている。地面には落ち葉が積もり、踏むたび、ぐちゃり、と湿った音を立てた。
その音は、メイの足音を飲み込んでくれる。
人の声も、視線も、灯りも、少しずつ遠ざかる。
ようやく一人になれる。
そう思った瞬間、足元の土が崩れた。
「……え」
短い声。
次の瞬間、メイの体が前へ傾いた。
落ち葉の下に隠れていた縄が足首に絡み、強く引かれる。体が宙に浮く。視界が反転する。雨の夜空、黒い枝、濡れた地面がぐるりと回った。
どさっ。
背中から地面に叩きつけられた。
肺の空気が抜ける。
声が出ない。
足首に食い込む縄が、ぎり、と締まった。
罠だった。
獣を捕らえるためのものか、人を捕らえるためのものかはわからない。ただ、濡れた縄は冷たく、硬く、メイの細い足を容赦なく縛っていた。
「っ……」
体を起こそうとする。
手が泥に沈む。
力が入らない。
さっきまで温かかったはずの体は、雨と疲労で急速に冷えていた。食べたばかりのスープの温もりも、もう遠い。まるで別の誰かの記憶のようだった。
縄を解こうと指を伸ばす。
指先が震える。
結び目が固い。
濡れて滑る。
視界がにじむ。
雨なのか涙なのか、もうわからない。
「……嫌……」
小さく呟いた。
「まだ……」
まだ、死にたいわけではない。
そう思ってしまった。
もう一人でいいと決めたのに。
もう何もいらないと決めたのに。
まだ、生きたいと思っている自分がいた。
そのことが、苦しかった。
メイは縄を掴んだ。
力を使えば、切れる。
こんな縄くらい、簡単に。
けれど、力を使うことが怖かった。
また何かを壊すかもしれない。
また誰かに見られるかもしれない。
また、化け物だと言われるかもしれない。
その恐怖が、指先から力を奪った。
「……私は」
雨に打たれながら、メイは泥の上に倒れ込んだ。
「私は……どうすればよかったの……」
答えはなかった。
森は何も言わない。
雨だけが降っている。
葉を叩き、土を叩き、メイの髪と頬と紫の瞳を冷たく濡らしていく。
やがて、寒さが体の芯に届いた。
意識が薄れていく。
雨音が遠くなる。
王都の灯りも、瞬の声も、温かいスープも、全部が水の底へ沈んでいくようだった。
最後に、メイは自分の左目を隠そうとした。
でも、手はもう動かなかった。
紫の瞳は、雨の森の暗がりで、かすかに光っていた。
*
瞬は西門を抜けた。
門番が何か叫んでいたが、耳に入らなかった。
雨は強くなっている。
王都の灯りが背後で滲む。濡れた草原は黒く沈み、足元の泥が跳ねた。普通に走っているつもりでも、瞬の足は深く地面を抉る。力を抑えなければならない。けれど、遅すぎれば届かない。
その加減が、今はひどく憎かった。
「メイ!」
声を張る。
雨が飲み込む。
もう一度叫ぶ。
返事はない。
瞬は胸元の布を握った。
メイの布。
泥と血と雨を吸い、冷たくなっている。
彼はそれを濡らさないように懐へ押し込み、草原に目を凝らした。
足跡がある。
小さい。
ふらついている。
途中で何度も滑った跡がある。
その先は森へ続いていた。
瞬の喉が鳴った。
「森に入ったのか……」
嫌な予感がした。
雨の夜。
見通しの悪い森。
疲れ切ったメイ。
そして、彼女は布を失っている。
彼女にとって、それがどれほど怖いことなのか、今なら少しだけわかる。
瞬は走った。
草原を越え、森へ入る。
途端に、音が変わった。
雨が直接地面を叩く音から、葉を叩き、枝を伝い、雫となって落ちる複雑な音へ変わる。ぽた、ぽた、ざあ、ぱらぱら。いくつもの音が重なり、方向感覚を奪っていく。
土の匂いが濃い。
濡れた苔。
腐葉土。
折れた枝。
そして、どこかに人の気配。
瞬は足を止めた。
耳を澄ます。
雨。
葉擦れ。
遠くの雷。
その奥に、かすかな音があった。
縄が軋むような音。
誰かが泥の上で動いたような音。
瞬の胸が跳ねた。
「メイ!」
返事はない。
彼は慎重に進んだ。
全力で突っ込めば、地面ごと壊すかもしれない。罠があるなら、彼女を巻き込むかもしれない。
焦りを押し殺し、一歩ずつ。
雨の中で目を凝らす。
そして、見つけた。
暗い木々の間。
落ち葉の上に倒れた、小さな体。
足首に絡む縄。
泥に濡れたローブ。
雨に貼りついた髪。
隠されていない左目。
紫の瞳は、半ば閉じかけていた。
「メイ!」
瞬は駆け寄った。
今度は迷わなかった。
膝をつき、まず彼女の顔を覗き込む。
息はある。
浅い。
冷たい。
「メイ、聞こえるか!」
メイの唇が、わずかに動いた。
声にはならない。
瞬は縄を見た。
足首に食い込んでいる。
力を込めれば一瞬で引きちぎれる。
だが、足を傷つけるかもしれない。
彼は深く息を吸い、指先に全神経を集中した。
軽く。
本当に軽く。
世界を壊さないように。
彼女を傷つけないように。
縄だけを切る。
ぶち、と濡れた繊維が裂けた。
足首が解放される。
そこには赤く擦れた跡が残っていた。
瞬は胸の奥が痛くなった。
「ごめん……遅くなった」
謝っても、彼女には届かないかもしれない。
それでも、言わずにいられなかった。
彼は懐から布を出した。
けれど、すぐに左目へ巻こうとして、手を止めた。
それは彼女が望むかもしれない。
でも今、勝手に隠すことは違う気がした。
あの瞳を、汚いもののように扱いたくなかった。
瞬は布を彼女の胸元にそっと置き、自分の外套を脱いでメイの体を包んだ。
彼女は軽かった。
驚くほど軽かった。
抱き上げた瞬間、瞬の胸に怒りではなく、怖さが湧いた。
失うかもしれない、という怖さだった。
さっき出会ったばかりなのに。
まだ何も知らないのに。
それでも、この子をこの雨の中に置いていくことだけは、絶対にできなかった。
瞬は、メイを抱き上げた。
彼女の頭が、力なく彼の胸に寄りかかる。
雨が二人を叩く。
森の葉が揺れる。
遠くで雷が鳴った。
瞬は、彼女の顔を見た。
紫の瞳は、もう閉じていた。
その頬には、雨と涙が混じった跡が残っている。
「メイ」
瞬は、低く、はっきりと言った。
「怖くない」
今度は、遅れたくなかった。
意識があるかどうかはわからない。
聞こえているかどうかもわからない。
それでも、言った。
「俺は、その目が怖くない」
雨音の中で、彼の声だけが少し震えた。
「綺麗だと思った」
ようやく言えた。
遅すぎる言葉だった。
でも、飲み込むよりは、ずっとましだった。
「だから、勝手に逃げるな……いや、違うな」
瞬は唇を噛んだ。
逃げるな、ではない。
彼女は逃げたかったから逃げたのではない。
逃げるしかなかったのだ。
「ごめん。逃げるしかないくらい、怖かったんだよな」
彼はメイを抱きしめ直した。
力を入れすぎないように。
壊さないように。
でも、雨から隠すように。
「もう一回、ちゃんと言うから。目を覚ましたら、ちゃんと聞いてくれ」
森の奥で、黒い鳥が一羽鳴いた。
雨はまだ降り続いている。
だが、瞬はもう迷わなかった。
王都へ戻る。
温かい場所へ連れていく。
傷を手当てする。
そして、彼女が目を覚ましたら、今度こそ目を逸らさずに言う。
その瞳は災いではない。
君は化け物ではない。
俺は、君を怖いと思っていない。
瞬はメイを抱え、雨の森を歩き出した。
一歩。
また一歩。
泥が靴にまとわりつく。
雨が肩を打つ。
夜の森は暗く、深く、冷たかった。
けれど、彼の腕の中には、確かに守るべき温もりがあった。
それは弱々しく、今にも消えそうで。
だからこそ、絶対に消したくないと思った。
王都の灯りは、雨の向こうにぼんやりと滲んでいた。
瞬はそこへ向かって歩いた。
光の中にいた男は、影の底で震えていた少女を抱き上げた。
そしてこの夜、ようやく知った。
救うということは、力で敵を倒すことではない。
届かなかった言葉を、何度でも届けに行くことなのだと。




