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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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14/21

第14話:降り始めた雨と、届かなかった言葉 〜後悔とは、手遅れになってから喉を焼くものである〜

王都グランドルの夜は、先ほどまで確かに温かかった。


屋台の湯気があり、焼けた肉の匂いがあり、遠くの酒場からは笑い声が漏れていた。石畳にはランタンの橙色の光が落ち、風に揺れる旗の影が、道の上をゆっくり泳いでいた。


けれど今、その温かさはメイの背中から遠ざかっていた。


彼女は路地裏を走っていた。


息が切れる。


喉が痛い。


足がもつれる。


それでも止まれない。


左目を隠す布はない。指先で押さえても、隠しきれない。手の隙間から夜気が入り込み、冷たい月明かりが、あの瞳に触れている気がする。


紫の瞳。


それは、メイにとって目ではなかった。


呪いの札だった。


拒絶の印だった。


温かい場所から追い出されるための合図だった。


「……いや……」


小さな声が、走る息の中に混じった。


足元の石畳が濡れている。


昼間の水がまだ乾ききっていないのか、踏むたびに靴底がわずかに滑った。細い路地の壁には夜露が滲み、古い石の隙間から冷たい匂いが立ち上がっている。


背後から、瞬の声が聞こえた気がした。


メイ。


そう呼ばれた気がした。


その声は、さっき屋台で名前を呼ばれた時と同じだった。


優しくて、まっすぐで、少しだけ不器用で。


だからこそ、怖かった。


あの声が次に変わる瞬間を、メイは見たくなかった。


「化け物」と呼ばれる前に。


「近づくな」と言われる前に。


「あんなものを綺麗だと思うわけがない」と目を逸らされる前に。


自分から逃げなければならなかった。


路地を抜ける。


突然、視界が開けた。


細い裏道の先には、小さな広場があった。昼間なら荷運びの馬車が止まり、子供たちが走り回る場所なのだろう。だが今は、雨を待つ夜のように暗く、中央の井戸だけが月明かりを受けて鈍く光っていた。


その広場の端に、酔った男たちがいた。


三人。


笑いながら歩いていた彼らは、突然飛び出してきたメイを見て足を止めた。


「おい、危ねぇな」


一人が声を上げる。


メイは反射的に顔を伏せた。


通り過ぎようとした。


だが、焦りで足が滑った。


石畳に膝をつく。


ざり、と皮膚が擦れた。


痛みより先に、視線が怖かった。


「おい、大丈夫か?」


男の一人が近づいてくる。


その声は、最初だけは普通だった。


普通だから怖かった。


普通の声は、いつも途中で変わる。


メイは顔を隠そうとした。けれど、両手は震えている。指の隙間から、紫の光が漏れた。


男が、それを見た。


ほんの一瞬。


しかし、人の恐怖は一瞬で形を変える。


「……紫?」


その呟きが、夜に落ちた。


メイの心臓が止まりかけた。


別の男が、彼女の顔を覗き込む。


「おい、まさか……紫の瞳か?」


空気が凍った。


先ほどまで酒で緩んでいた男たちの顔から、血の気が引いていく。頬の赤みが消え、口元が引きつり、手がゆっくり後ろへ下がる。


見慣れた変化だった。


好奇心。


驚き。


恐怖。


そして拒絶。


何度も見てきた、人の顔が裏返る瞬間。


「災いの目だ……」


誰かが言った。


その声は小さかった。


けれど、小さな火種が乾いた藁に落ちるように、広場の空気へ一気に燃え広がった。


「近づくな!」


「目を合わせるな!」


「なんで王都にそんなものがいるんだ!」


メイは立ち上がろうとした。


足に力が入らない。


膝が震える。


それでも逃げようとした。


その時、小石が飛んできた。


最初の一つは、肩をかすめて壁に当たった。


かん、と乾いた音が響く。


二つ目は、額に当たった。


鈍い衝撃。


視界が白く弾ける。


熱いものが眉の横を伝った。


血だった。


メイは声を上げなかった。


ただ、少しだけ笑いそうになった。


悲しくて。


惨めで。


あまりにも予想通りで。


「ほら……やっぱり」


唇だけが動いた。


期待した自分が悪い。


温かいスープを食べて、名前を呼ばれて、少しだけ笑って、ほんの少しだけ「この人なら」と思ってしまった自分が悪い。


だからこれは罰だ。


身の程を忘れた罰。


「出ていけ!」


男の声が広場に響いた。


その声に、近くの家の窓が開いた。顔が覗く。誰かが悲鳴を上げる。別の誰かが扉を閉める音がした。


「紫の瞳だ!」


「魔女がいる!」


「王都に災いが入ったぞ!」


声が増えていく。


それは人ではなく、風に乗る火の粉のようだった。


どこから来たのかわからない声が、次々と増え、重なり、広場全体を黒く染めていく。


メイは走った。


石畳を蹴る。


血が頬を伝う。


雨の匂いがした。


まだ降ってはいない。けれど、空気の奥に湿った冷たさが混じり始めていた。遠くの空で、低い雷が唸る。


王都の夜が、暗く沈んでいく。


     *


瞬は、メイの布を握りしめたまま走っていた。


古びた布は軽かった。


けれど、その軽さが胸に重かった。


この布は、ただの布ではなかった。


メイが世界との間に張っていた薄い壁。


拒絶から身を守るための、最後の扉。


それを失った彼女が、今どんな気持ちで走っているのか。


考えようとした瞬間、瞬の喉が詰まった。


「メイ!」


声を張り上げる。


だが、王都の夜は広すぎた。


路地がいくつも分かれ、建物の影が重なり、ランタンの光は場所によってまばらだった。どこかで悲鳴が上がる。別の場所で扉が閉まる。人々の足音が乱れている。


何かが起きている。


そして、その中心にメイがいる。


瞬は、胸の奥が冷えていくのを感じた。


さっき、あの瞳を見た瞬間。


自分は、確かに息を呑んだ。


恐れたからではない。


気持ち悪いと思ったからでもない。


あまりにも綺麗だったからだ。


月明かりに濡れた紫の瞳は、悲しみそのものが宝石になったようだった。傷ついて、濡れて、それでも消えない光を宿していた。


瞬は、それに見惚れた。


だが、メイにとって沈黙は沈黙でしかない。


これまで彼女を傷つけてきた人間たちと同じ、拒絶の前触れにしか見えなかったはずだ。


「違うんだ……」


走りながら、瞬は歯を食いしばった。


「違うんだよ、メイ……!」


思っているだけでは、何も伝わらない。


優しいつもり。


守るつもり。


傷つける気はなかった。


そんなものは、相手に届かなければ存在しないのと同じだ。


瞬は初めて、自分の力がひどく役に立たないものに思えた。


小石で岩を砕ける。


魔獣を吹き飛ばせる。


盗賊を地面にめり込ませられる。


黒い巨人さえ倒せる。


けれど、たった一人の少女に「怖くない」と伝えることができなかった。


たった一言、「綺麗だ」と間に合わせることができなかった。


「くそ……!」


その時、前方から人々が逃げてきた。


顔を青ざめさせ、肩をぶつけ合いながら、大通りの方へ駆けてくる。


瞬は一人の男の前に立った。


「何があった!」


男は瞬の顔を見て、さらに怯えたように身を引いた。


「え、英雄様……!」


「何があったって聞いてる!」


「む、紫の瞳だ! 女の子が……いや、魔女だ! 紫の目の魔女がいたんだ!」


瞬の全身から、血の気が引いた。


男はなおも早口で続ける。


「目が合えば呪われるって聞いた! 疫病が来る、家畜が死ぬ、井戸が腐るって――」


「黙れ」


瞬の声は低かった。


男が口を閉じる。


瞬は、握っていた布に視線を落とした。


紫の瞳。


魔女。


災い。


疫病。


そういう言葉が、この世界にはあるのか。


メイは、それをずっと浴びてきたのか。


あの小さな体で。


あの細い手で。


食べ物を受け取ることにすら謝っていた少女が。


何度も何度も、こんな言葉を投げつけられてきたのか。


瞬の胸の奥で、怒りが燃えた。


だが、その怒りはすぐに自分へ向いた。


知らなかった。


そう言えば許されるのか。


悪気はなかった。


それで済むのか。


違う。


知らなかったからこそ、聞かなければならなかった。


見た瞬間に、すぐ言わなければならなかった。


「俺は……」


瞬は、唇を噛んだ。


「俺は、何やってんだ……」


空が低く鳴った。


黒い雲が、王都の上へ広がっていた。


月はもう見えない。


ランタンの火が風に揺れ、石畳の上の影が激しく乱れる。


その時。


ぽつり。


冷たい雨粒が、瞬の手の甲に落ちた。


握っていた布に、ひとつ、黒い染みができる。


次の一粒が頬を叩いた。


また一粒。


やがて雨は、細い糸のように夜の街へ降り始めた。


瞬は顔を上げた。


「メイ!」


叫ぶ。


雨に濡れた石畳の向こう。


遠く、西門へ続く道の先に、小さな影が見えた気がした。


細く、頼りなく、今にも夜に溶けてしまいそうな背中。


瞬の胸が跳ねた。


「待ってくれ!」


彼は走り出した。


石畳を踏むたび、水が跳ねる。


雨は少しずつ強くなっていた。


王都の灯りが、濡れた道に滲み、世界全体が泣いているように歪んでいく。


それでも瞬は、布を胸に抱えたまま、ただ一つの影を追った。


今度こそ、届かなければならなかった。


今度こそ、言わなければならなかった。


怖くない。


嫌じゃない。


君の目は、災いなんかじゃない。


あの瞳を見て、俺は――。


だが、その言葉はまだ、雨の中で喉に引っかかったままだった。


雨は、王都の石畳を黒く染めていった。


最初は細い糸のようだった雨脚が、少しずつ太くなる。屋根の端から水が落ち、軒先に吊るされた看板を叩き、ランタンの火を何度も揺らした。橙色の灯りは濡れた道に滲み、まるで踏めば崩れてしまいそうな光の池を作っている。


メイは、その光を避けるように走っていた。


西門へ向かう道。


王都の外へ続く道。


人の声から遠ざかる道。


顔を隠す布はない。両手で左目を押さえながら走るせいで、足取りは不安定だった。肩が壁にぶつかる。膝がふらつく。雨に濡れた石畳で靴底が滑り、何度も転びそうになる。


それでも止まれなかった。


止まれば、見られる。


見られれば、また石が飛ぶ。


また誰かが叫ぶ。


また誰かが、自分を見て恐怖に顔を歪める。


「……もう、いい」


雨の中で、メイは呟いた。


「もう……いいから……」


誰にも期待しない。


誰にも近づかない。


誰にも名前を呼ばれない。


そうすれば、傷つかないはずだった。


なのに、シュンと名乗った男は、名前を呼んだ。


食べ物をくれた。


無理に触れなかった。


そして、紫の瞳を見て、黙った。


その沈黙が、メイには何より怖かった。


罵声なら、まだよかった。


石なら、まだよかった。


嫌悪の顔なら、見慣れている。


けれど、あの一瞬の沈黙は、温かかったものが壊れる直前の静けさだった。


メイはそれを知っていた。


何度も知ってしまった。


だから逃げた。


壊れる音を聞く前に。


拒まれる顔を見る前に。


自分の中に芽生えかけた、わずかな願いを踏み潰される前に。


西門が見えた。


雨に濡れた大きな門は、夜の底に沈んだ獣の口のようだった。門番たちは雨具をかぶり、慌ただしく人の出入りを確認している。黒い雲が空を覆い、遠くで雷が低く鳴った。


門番の一人が、走ってくるメイに気づいた。


「おい、そこの娘! こんな雨の中どこへ――」


メイは顔を伏せた。


左目を押さえたまま、門の端をすり抜ける。


「待て!」


声が追ってきた。


だが、メイは止まらない。


止まれない。


門の外へ出た瞬間、王都の灯りが背後へ遠ざかった。


そこには、黒い草原が広がっていた。


雨に打たれた草が、低く波打っている。月は雲に隠れ、道の輪郭はほとんど見えない。遠くには森の影があった。夜の中にさらに濃い夜を塗り重ねたような、深い黒。


メイは、その森へ向かって走った。


人のいる場所ではない。


火もない。


食べ物もない。


暖かい寝床もない。


でも、視線もない。


それだけでよかった。


雨が頬を叩く。


額の傷に染みる。


血が雨で薄まり、顎から落ちる。


足元の泥が跳ね、ローブの裾に重くまとわりつく。


それでもメイは、前へ進んだ。


やがて草原の土がぬかるみ、靴が沈み始めた。雨は強くなり、草の葉が濡れて重く垂れている。風が吹くたび、冷たい雫が横殴りに頬を打った。


背後から、遠く、声が聞こえた気がした。


「メイ!」


胸が跳ねた。


振り返りそうになった。


けれど、メイは歯を食いしばり、さらに速く走った。


聞いてはいけない。


あの声を聞けば、足が止まる。


足が止まれば、また信じたくなる。


信じたくなれば、また壊れる。


「来ないで……」


雨音に混じって、声が漏れた。


「お願いだから……来ないで……」


森の入口が近づく。


黒い木々が、雨の中で静かに立っていた。枝から落ちる水滴が、ぽたぽたと地面を叩いている。湿った土と濡れた葉の匂いが、王都の匂いを押し流した。


メイは森へ入った。


暗かった。


王都の灯りは、一歩入っただけでほとんど見えなくなった。枝葉が空を塞ぎ、雨音が幾重にも重なっている。地面には落ち葉が積もり、踏むたび、ぐちゃり、と湿った音を立てた。


その音は、メイの足音を飲み込んでくれる。


人の声も、視線も、灯りも、少しずつ遠ざかる。


ようやく一人になれる。


そう思った瞬間、足元の土が崩れた。


「……え」


短い声。


次の瞬間、メイの体が前へ傾いた。


落ち葉の下に隠れていた縄が足首に絡み、強く引かれる。体が宙に浮く。視界が反転する。雨の夜空、黒い枝、濡れた地面がぐるりと回った。


どさっ。


背中から地面に叩きつけられた。


肺の空気が抜ける。


声が出ない。


足首に食い込む縄が、ぎり、と締まった。


罠だった。


獣を捕らえるためのものか、人を捕らえるためのものかはわからない。ただ、濡れた縄は冷たく、硬く、メイの細い足を容赦なく縛っていた。


「っ……」


体を起こそうとする。


手が泥に沈む。


力が入らない。


さっきまで温かかったはずの体は、雨と疲労で急速に冷えていた。食べたばかりのスープの温もりも、もう遠い。まるで別の誰かの記憶のようだった。


縄を解こうと指を伸ばす。


指先が震える。


結び目が固い。


濡れて滑る。


視界がにじむ。


雨なのか涙なのか、もうわからない。


「……嫌……」


小さく呟いた。


「まだ……」


まだ、死にたいわけではない。


そう思ってしまった。


もう一人でいいと決めたのに。


もう何もいらないと決めたのに。


まだ、生きたいと思っている自分がいた。


そのことが、苦しかった。


メイは縄を掴んだ。


力を使えば、切れる。


こんな縄くらい、簡単に。


けれど、力を使うことが怖かった。


また何かを壊すかもしれない。


また誰かに見られるかもしれない。


また、化け物だと言われるかもしれない。


その恐怖が、指先から力を奪った。


「……私は」


雨に打たれながら、メイは泥の上に倒れ込んだ。


「私は……どうすればよかったの……」


答えはなかった。


森は何も言わない。


雨だけが降っている。


葉を叩き、土を叩き、メイの髪と頬と紫の瞳を冷たく濡らしていく。


やがて、寒さが体の芯に届いた。


意識が薄れていく。


雨音が遠くなる。


王都の灯りも、瞬の声も、温かいスープも、全部が水の底へ沈んでいくようだった。


最後に、メイは自分の左目を隠そうとした。


でも、手はもう動かなかった。


紫の瞳は、雨の森の暗がりで、かすかに光っていた。


     *


瞬は西門を抜けた。


門番が何か叫んでいたが、耳に入らなかった。


雨は強くなっている。


王都の灯りが背後で滲む。濡れた草原は黒く沈み、足元の泥が跳ねた。普通に走っているつもりでも、瞬の足は深く地面を抉る。力を抑えなければならない。けれど、遅すぎれば届かない。


その加減が、今はひどく憎かった。


「メイ!」


声を張る。


雨が飲み込む。


もう一度叫ぶ。


返事はない。


瞬は胸元の布を握った。


メイの布。


泥と血と雨を吸い、冷たくなっている。


彼はそれを濡らさないように懐へ押し込み、草原に目を凝らした。


足跡がある。


小さい。


ふらついている。


途中で何度も滑った跡がある。


その先は森へ続いていた。


瞬の喉が鳴った。


「森に入ったのか……」


嫌な予感がした。


雨の夜。


見通しの悪い森。


疲れ切ったメイ。


そして、彼女は布を失っている。


彼女にとって、それがどれほど怖いことなのか、今なら少しだけわかる。


瞬は走った。


草原を越え、森へ入る。


途端に、音が変わった。


雨が直接地面を叩く音から、葉を叩き、枝を伝い、雫となって落ちる複雑な音へ変わる。ぽた、ぽた、ざあ、ぱらぱら。いくつもの音が重なり、方向感覚を奪っていく。


土の匂いが濃い。


濡れた苔。


腐葉土。


折れた枝。


そして、どこかに人の気配。


瞬は足を止めた。


耳を澄ます。


雨。


葉擦れ。


遠くの雷。


その奥に、かすかな音があった。


縄が軋むような音。


誰かが泥の上で動いたような音。


瞬の胸が跳ねた。


「メイ!」


返事はない。


彼は慎重に進んだ。


全力で突っ込めば、地面ごと壊すかもしれない。罠があるなら、彼女を巻き込むかもしれない。


焦りを押し殺し、一歩ずつ。


雨の中で目を凝らす。


そして、見つけた。


暗い木々の間。


落ち葉の上に倒れた、小さな体。


足首に絡む縄。


泥に濡れたローブ。


雨に貼りついた髪。


隠されていない左目。


紫の瞳は、半ば閉じかけていた。


「メイ!」


瞬は駆け寄った。


今度は迷わなかった。


膝をつき、まず彼女の顔を覗き込む。


息はある。


浅い。


冷たい。


「メイ、聞こえるか!」


メイの唇が、わずかに動いた。


声にはならない。


瞬は縄を見た。


足首に食い込んでいる。


力を込めれば一瞬で引きちぎれる。


だが、足を傷つけるかもしれない。


彼は深く息を吸い、指先に全神経を集中した。


軽く。


本当に軽く。


世界を壊さないように。


彼女を傷つけないように。


縄だけを切る。


ぶち、と濡れた繊維が裂けた。


足首が解放される。


そこには赤く擦れた跡が残っていた。


瞬は胸の奥が痛くなった。


「ごめん……遅くなった」


謝っても、彼女には届かないかもしれない。


それでも、言わずにいられなかった。


彼は懐から布を出した。


けれど、すぐに左目へ巻こうとして、手を止めた。


それは彼女が望むかもしれない。


でも今、勝手に隠すことは違う気がした。


あの瞳を、汚いもののように扱いたくなかった。


瞬は布を彼女の胸元にそっと置き、自分の外套を脱いでメイの体を包んだ。


彼女は軽かった。


驚くほど軽かった。


抱き上げた瞬間、瞬の胸に怒りではなく、怖さが湧いた。


失うかもしれない、という怖さだった。


さっき出会ったばかりなのに。


まだ何も知らないのに。


それでも、この子をこの雨の中に置いていくことだけは、絶対にできなかった。


瞬は、メイを抱き上げた。


彼女の頭が、力なく彼の胸に寄りかかる。


雨が二人を叩く。


森の葉が揺れる。


遠くで雷が鳴った。


瞬は、彼女の顔を見た。


紫の瞳は、もう閉じていた。


その頬には、雨と涙が混じった跡が残っている。


「メイ」


瞬は、低く、はっきりと言った。


「怖くない」


今度は、遅れたくなかった。


意識があるかどうかはわからない。


聞こえているかどうかもわからない。


それでも、言った。


「俺は、その目が怖くない」


雨音の中で、彼の声だけが少し震えた。


「綺麗だと思った」


ようやく言えた。


遅すぎる言葉だった。


でも、飲み込むよりは、ずっとましだった。


「だから、勝手に逃げるな……いや、違うな」


瞬は唇を噛んだ。


逃げるな、ではない。


彼女は逃げたかったから逃げたのではない。


逃げるしかなかったのだ。


「ごめん。逃げるしかないくらい、怖かったんだよな」


彼はメイを抱きしめ直した。


力を入れすぎないように。


壊さないように。


でも、雨から隠すように。


「もう一回、ちゃんと言うから。目を覚ましたら、ちゃんと聞いてくれ」


森の奥で、黒い鳥が一羽鳴いた。


雨はまだ降り続いている。


だが、瞬はもう迷わなかった。


王都へ戻る。


温かい場所へ連れていく。


傷を手当てする。


そして、彼女が目を覚ましたら、今度こそ目を逸らさずに言う。


その瞳は災いではない。


君は化け物ではない。


俺は、君を怖いと思っていない。


瞬はメイを抱え、雨の森を歩き出した。


一歩。


また一歩。


泥が靴にまとわりつく。


雨が肩を打つ。


夜の森は暗く、深く、冷たかった。


けれど、彼の腕の中には、確かに守るべき温もりがあった。


それは弱々しく、今にも消えそうで。


だからこそ、絶対に消したくないと思った。


王都の灯りは、雨の向こうにぼんやりと滲んでいた。


瞬はそこへ向かって歩いた。


光の中にいた男は、影の底で震えていた少女を抱き上げた。


そしてこの夜、ようやく知った。


救うということは、力で敵を倒すことではない。


届かなかった言葉を、何度でも届けに行くことなのだと。

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