第13話:剥がされた布、砕かれた希望 ~「綺麗だ」という言葉は、私の耳には届かない~
王都の夜は、昼間とは別の顔をしていた。
夕暮れの赤はすでに屋根の向こうへ沈み、白い城壁の内側には、青く冷えた月明かりが落ちている。石畳はその光を薄く跳ね返し、道の上に細い銀の筋をいくつも作っていた。
昼間、英雄の噂で沸いていた大通りも、少しずつ落ち着きを取り戻している。
酒場の扉が開くたび、温かな笑い声と、焼いた肉の匂いが外へこぼれる。けれど扉が閉まると、それらはすぐに木の板の向こうへ押し戻され、残るのは遠いざわめきと、ランタンの火が小さく揺れる音だけだった。
ちり、ちり。
街灯の火が、頼りなく燃えている。
風が通りを抜けるたび、吊るされた看板がきしりと鳴った。古びた布の旗が、夜気を含んで重たそうに揺れる。路地の隅では、昼間に踏み散らされた枯れ葉が、かさ、かさ、と石畳の上を滑っていた。
瞬は、その道をゆっくり歩いていた。
少し後ろに、メイがいる。
二人の間には、まだ人一人分ほどの距離があった。近すぎない。けれど、先ほど路地裏を出た時よりは、ほんの少しだけ近い。
それだけのことが、瞬にはなぜか嬉しかった。
彼は横目で、後ろを歩く少女を見た。
メイは相変わらず、頭から布を深く被っている。左目を隠す布は、夜の影と重なり、顔の半分を静かに覆っていた。ローブはまだ泥で汚れ、裾も破れている。靴音は軽いというより、今にも消えそうなほど細かった。
こつ。
こつ。
こつ。
それでも、確かに歩いている。
さっきまであの路地の隅で、膝を抱えて震えていた少女が、今は自分の足で歩いている。
瞬は、その音を聞いていた。
英雄と呼ばれる歓声よりも。
ギルドで浴びた称賛よりも。
街の人々が向けてくる熱っぽい視線よりも。
今は、その頼りない足音の方が、ずっと胸に残った。
「寒くないか?」
瞬が振り返りすぎないように気をつけながら尋ねた。
メイはびくりと肩を揺らし、それから小さく首を振った。
「……大丈夫です」
その返事は、明らかに大丈夫ではない者の声だった。
瞬は少しだけ眉を寄せた。
「いや、その“大丈夫”は、たぶん大丈夫じゃないやつだな」
「……本当に、大丈夫です」
「二回言ったから余計に怪しい」
メイは黙った。
瞬は慌てて、軽く手を振った。
「あ、責めてるわけじゃないぞ。ただ、寒かったら言えってこと。俺、こう見えて体温高そうだろ」
「……高そう、ですか?」
「たぶん高い。いや、測ってないけど。異世界に来てから、なんか全部が雑に高性能になってるし」
「異世界……?」
メイが小さく首を傾げた。
瞬は、一瞬だけ口を止めた。
しまった、と思った。
この世界の人にいきなり「異世界」と言っても、当然わからない。だが、いまさら取り消すのも妙だった。
「えーっと……俺の故郷、かなり遠いんだ」
「遠い……」
「うん。たぶん、馬車でも帰れないくらい遠い」
メイは、少しだけ顔を伏せた。
「帰れないんですか」
その声には、ほんのわずかな痛みがあった。
瞬は、軽い調子で返そうとして、やめた。
帰れない。
それは、彼にとっては冒険の始まりを意味する言葉だった。けれどメイにとっては、きっと違う響きを持つ。
彼女の足音が、少しだけ弱くなった気がした。
「まあ……今はな」
瞬は、夜空を見上げた。
星が出ていた。
日本で見たものよりも、ずっと近く、ずっと多い。濃紺の空に、細かな光の粒が無数に散っている。高い屋根の向こうに、半分欠けた月が浮かび、その周りだけ薄い雲が銀色に染まっていた。
「でも、帰れないからって、全部終わりってわけでもないだろ」
メイの足が、ほんの少し止まった。
瞬は、振り返らないまま続けた。
「行く場所がないなら、とりあえず今日寝る場所を探せばいいし。明日のことがわからないなら、今日飯食えたからよし、でもいいし。まあ、俺も大したこと考えてないから偉そうには言えないんだけど」
彼は少し笑った。
「実際、俺の人生、机の角に頭ぶつけたところから急に変わったからな」
「机の……角?」
メイの声に、初めてほんの少しだけ困惑が混じった。
瞬は胸を張った。
「そう。俺の旅立ちは、机の角だった」
「……それは、すごいことなんですか」
「いや、かなり情けないことだな」
「……」
メイの口元が、布の下でわずかに動いた。
笑った、というほどではない。
だが、瞬にはわかった。
今、少しだけ緩んだ。
彼はその小さな変化に、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
この子は、ちゃんと笑える。
傷だらけで、怯えていて、いつでも逃げられるように体を固くしていても、それでも、くだらない話にほんの少し反応する。
その小さな反応が、瞬にはどうしようもなく眩しかった。
大きな笑顔ではない。
誰かに見せるための愛想でもない。
長く閉ざされていた窓が、ほんの数ミリだけ開いて、そこから細い光が漏れたような笑みだった。
瞬は、そこに惹かれた。
美少女だから、ではない。
いや、正直に言えば、顔立ちが整っていることにも気づいている。けれど、それ以上に、彼の胸に残っているものがあった。
あれほど怯えながら、路地裏の男たちに反撃しなかったこと。
温かいスープを前にして、最初に「いただいていいのか」と聞いたこと。
何度も何度も礼を言い、食べることにすら申し訳なさそうにしていたこと。
壊されかけているのに、まだ他人を傷つける側へ行かないこと。
その危ういほどの優しさが、瞬には放っておけなかった。
「メイ」
名前を呼ぶと、彼女はまた少し肩を揺らした。
「……はい」
「明日、どこ行く予定とかあるのか?」
メイは答えなかった。
風が吹いた。
石畳の上を、乾いた葉が一枚滑っていく。
かさ。
その音がやけにはっきり聞こえた。
「予定は……ありません」
しばらくして、メイはそう言った。
「行く場所も……ありません」
声は平らだった。
けれど、その平らさが逆に痛かった。
泣いていない。
震えていない。
ただ、もう何度も確認しすぎて、感情が擦り切れた事実を口にしているだけ。
瞬は胸の奥が詰まるのを感じた。
「じゃあ――」
一緒に来るか。
そう言いかけた。
けれど、言葉は喉の手前で止まった。
さっき会ったばかりの自分が、いきなりそんなことを言えば、彼女はきっと怖がる。善意で距離を詰めすぎることも、たぶん彼女には刃になる。
瞬は、深く息を吸った。
夜気は冷たく、肺の奥にすっと落ちる。
「じゃあ、まず今夜だけ考えよう」
彼は言葉を選んだ。
「安全に眠れそうな場所を探す。明日は、明日考える」
メイは顔を伏せたまま、何も言わなかった。
だが、逃げなかった。
それだけで、瞬は十分だと思った。
その時だった。
通りの向こうから、甲高い笑い声が近づいてきた。
「おい、見ろよ。英雄様だ」
「ほんとだ。昼間の人だろ?」
「うわ、すげぇ。本物じゃん」
声の主は、数人の若者だった。
年齢は瞬より少し下だろうか。酒場帰りなのか、頬が赤く、足取りも少しふらついている。上等な服を着ている者もいれば、剣を腰に下げただけの冒険者風の者もいた。
彼らは瞬を見つけるなり、目を輝かせた。
「英雄様! さっきの黒い巨人、マジですごかったです!」
「握手してくださいよ!」
「いや、俺は肩を叩いてほしい! 武運が上がりそう!」
瞬は少し困った顔をした。
「いや、肩はやめといた方がいい。たぶん武運の前に骨が危ない」
「またまたぁ!」
若者たちは笑った。
その明るい騒ぎに、メイは一歩下がった。
人が増える。
視線が増える。
近づいてくる足音。
笑い声。
伸びてくる手。
それらが、彼女の中に沈んでいた記憶を一斉に揺さぶった。
干し草の村。
宿場町の店。
霧の湖畔。
灼熱の渓谷。
誰もが最初は笑っていた。
最初は温かかった。
最初は、手を伸ばしてくれた。
けれど、その手はいつも最後に石を握った。
メイは布を押さえた。
胸の奥で、心臓が早くなる。
どくん。
どくん。
音が耳の内側で大きく響く。
瞬は、すぐにそれに気づいた。
「悪い、今ちょっと――」
彼が若者たちとの間に立とうとした、その瞬間。
酔った若者の一人が、メイに視線を向けた。
「お? 英雄様の連れ?」
「顔隠してるじゃん」
「何それ、かっこつけ?」
軽い声だった。
悪意というより、酒に浮かされた好奇心。
だが、メイの背中には冷たい汗が伝った。
「やめろ」
瞬の声が低くなる。
しかし、若者の手はすでに伸びていた。
ほんの悪ふざけ。
ただ、それだけだったのかもしれない。
「ちょっと見せてみろよ」
指が、メイの布にかかった。
世界が、止まった。
メイの喉から、声にならない息が漏れる。
「いや……」
その小さな声は、夜風に砕かれた。
瞬の目が見開かれる。
彼が動く。
だが、ほんの一瞬だけ遅かった。
布が、引かれた。
結び目が解ける。
古びた布が、メイの頬から離れる。
夜風が、隠されていた左目に触れた。
月明かりが、そこへ落ちた。
紫。
深い夜の中に咲いた、一輪の花のような色。
冷たい月光を受けて、その瞳は静かに光った。
あまりにも綺麗で。
あまりにも悲しくて。
瞬は、息を忘れた。
メイは、その沈黙を見た。
そして、聞いた。
これまで何度も聞いてきた、あの沈黙を。
人の心が裏返る直前の。
温かさが氷に変わる直前の。
世界が自分を拒む直前の。
あの、深すぎる静けさを。
古びた布が、風にさらわれて宙へ舞った。
それは月明かりの中で一度だけ白く光り、二人の間を裂くように、夜の通りへ流されていった。
布が、通りの上を流れていく。
一瞬、誰も動かなかった。
ランタンの火が揺れ、石畳の上に落ちた影が細く震える。遠くの酒場から漏れていた笑い声さえ、急に厚い壁の向こうへ押し込められたように遠のいた。夜風だけが、メイの頬に触れていた。
隠していた左目。
紫の瞳。
月の光を受けたその色は、冷たいのに、どこか燃えているようだった。夜空の奥深くに沈む星の色にも似ていたし、傷口からこぼれた心そのものの色にも見えた。
瞬は、息を呑んでいた。
それは恐怖ではなかった。
嫌悪でもなかった。
ただ、あまりにも綺麗だった。
綺麗で、悲しくて、見ているだけで胸の奥を掴まれるようだった。
この瞳を、彼女はずっと隠していたのか。
この色を見られるたび、石を投げられ、追われ、手を離されてきたのか。
そう思った瞬間、瞬の中で、言葉より先に怒りが湧いた。
目の前の若者たちへ向けた怒りではない。
この子に、こんなふうに自分を隠させ続けてきたもの全部への怒りだった。
「お前――」
瞬が、布を剥がした若者の腕を掴もうとした。
だが、若者の方が先に声を漏らした。
「む、紫……」
その声は、震えていた。
酒に浮かされていた顔から、一瞬で血の気が引いていく。
隣にいた者も、一歩下がった。
「紫の瞳……?」
「嘘だろ」
「災いの……」
その言葉が、最後まで形になる前に、瞬は低く言った。
「黙れ」
声は大きくなかった。
だが、通りの空気がびり、と震えた。
若者たちが肩を跳ねさせる。
瞬は布を剥がした若者の手首を掴んだ。
本当に軽くだった。
折らないように。
潰さないように。
今の自分の力が、どれほど危ういかを知っていたから、必死に抑えた。
それでも若者の顔は歪んだ。
「い、痛っ……!」
「今、その子が嫌がってたの、見えなかったのか」
瞬の声には、怒鳴り声よりも重いものがあった。
「見えなかったなら、目を開けろ。見えてたのにやったなら、最低だ」
「わ、悪かったよ! ただの冗談で――」
「冗談で、人が隠してるものを剥がすな」
瞬は手を離した。
若者は手首を押さえ、怯えたように後ろへ下がる。
けれど、メイにはもう、そのやり取りが遠かった。
耳の奥で、過去の声が重なっていた。
災いの目だ。
化け物だ。
触らないで。
出てお行き。
その女を、兵士に渡せ。
言葉が、何度も何度も胸の奥で跳ね返る。
瞬が若者を止めていることも。
怒ってくれていることも。
今のメイには、うまく見えていなかった。
彼女が見ていたのは、瞬の沈黙だった。
紫の瞳を見た瞬間、息を止めた顔。
言葉が遅れた、その一瞬。
メイの心は、その隙間に落ちた。
やっぱり。
やっぱり、同じだ。
今度も終わった。
メイは、震える手で顔を覆おうとした。
けれど、布がない。
隠すものがない。
夜風が左目に触れる。
月明かりが、そこへ容赦なく降り注ぐ。
通りを歩いていた人々の視線が、少しずつ集まり始めていた。
「なんだ?」
「何かあったのか?」
「女の子が……」
「今、紫って言ったか?」
人の声が増える。
足音が近づく。
視線が増える。
そのすべてが、メイには矢のように感じられた。
胸が苦しい。
息ができない。
喉の奥が、細く塞がっていく。
「メイ」
瞬が振り返った。
その声は、優しかった。
けれど、メイには届かなかった。
優しい声ほど、次に変わる。
そう体が覚えてしまっていた。
瞬は一歩近づこうとして、すぐに足を止めた。
メイが、明らかに怯えたからだ。
彼女は両手で左目を覆い、後ずさっていた。
「メイ、大丈夫だ」
瞬は、言葉を探した。
「俺は――」
綺麗だと思った。
そう言おうとした。
怖くない。
嫌じゃない。
そんな目で見るなと言いたかった。
けれど、言葉にする前に、通りの横から別の声が刺さった。
「おい、本当に紫の瞳だぞ」
「近づくなよ」
「災いを呼ぶって、ばあちゃんが言ってた……」
誰かの囁きだった。
小さな声。
けれど、メイには叫び声より大きく聞こえた。
瞬の目が鋭くなる。
「誰だ、今言ったの」
怒りを抑えた声。
周囲の人々が、びくりと身を引く。
けれど、その一瞬、瞬の視線がメイから逸れた。
それだけで十分だった。
メイは逃げ出した。
「メイ!」
瞬の声が追いかけてくる。
でも、メイは振り返らなかった。
石畳を蹴る。
足音が乱れる。
こつ、こつ、こつ、ではない。
ざっ、ざっ、ざっ、と、逃げるためだけの音。
人混みの間をすり抜ける。肩が誰かにぶつかった。驚いた声が上がる。布のない左目に視線が刺さる。誰かが息を呑む。誰かが後ずさる。
それらすべてから逃げるように、メイは走った。
涙が出ていた。
自分でも気づかないうちに、頬を伝っていた。
月明かりが滲む。
ランタンの火がいくつも伸びて、世界が歪む。
息が苦しい。
胸が痛い。
それでも止まれなかった。
止まれば、見られる。
見られれば、終わる。
また、拒まれる。
また、追い出される。
また、全部壊れる。
「違う、メイ!」
背後で瞬の声がした。
その声は必死だった。
でも、メイの耳には、もう意味として入ってこなかった。
音だけだった。
自分を追ってくるもの。
捕まえようとするもの。
そう聞こえてしまった。
彼女は細い路地へ飛び込んだ。
そこは昼間の熱を完全に失っていた。石壁は冷たく湿り、足元には黒い水たまりがいくつもある。メイの靴が水を踏み、ばしゃ、と音を立てた。
冷たい水が裾に跳ねる。
でも、そんなことはどうでもよかった。
角を曲がる。
また曲がる。
狭い通路を抜け、低い木箱を飛び越え、誰かの裏口の脇を通り過ぎる。
呼吸が喉を焼く。
さっき食べた温かいスープが、腹の奥で重たく揺れた。
温かかった。
名前を呼ばれた。
大丈夫だと言われた。
それなのに。
それなのに、やっぱり見られてしまった。
メイは、古い建物の陰でようやく足を止めた。
そこは、ほとんど光の入らない細い路地だった。
上を見ても、夜空は建物の隙間に細く切り取られているだけ。遠くの歓声も、大通りの灯りも、ここまでは届かない。
メイは壁に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。
冷たい石が背中を打つ。
膝を抱える。
両手で左目を覆う。
布がない。
隠せない。
その事実だけで、体が震えた。
「……やっぱり」
声が漏れた。
涙で濡れた唇が、かすかに動く。
「やっぱり、無理だった」
ほんの少しだけ、期待してしまった。
温かいスープを食べた時。
名前を呼ばれた時。
無理に触れられなかった時。
少しだけ、もしかしたらと思ってしまった。
この人なら。
この人だけは。
そんな甘い考えが、胸の奥に芽を出しかけていた。
だから、怖かった。
壊れる前に、自分から逃げた。
見捨てられる前に、自分から離れた。
そうしなければ、また胸の奥が耐えられなくなる。
メイは、歯を食いしばった。
泣くな。
泣いたら、まだ欲しがっていることになる。
まだ救われたいと思っていることになる。
そんな自分が、悔しかった。
けれど涙は止まらなかった。
ぽた。
ぽた。
石畳に落ちる。
水たまりの表面に、小さな輪が広がる。
その輪はすぐに闇に沈み、何もなかったように消えていった。
*
一方、瞬は通りの真ん中に立ち尽くしていた。
メイの姿は、もう見えない。
彼の手には、風に流されかけた古びた布だけが残っていた。
地面に落ちかけたそれを、反射的に掴んでいたのだ。
布は軽かった。
けれど、重かった。
泥と血と、長い旅の埃を吸った布。
メイが必死に隠し続けてきたもの。
それを握った瞬の指が、わずかに震える。
「……くそ」
低く呟いた。
自分に向けた言葉だった。
なぜ、すぐ言えなかった。
なぜ、見惚れて止まった。
綺麗だと思ったなら、すぐにそう言えばよかった。
怖くないと。
嫌じゃないと。
その目を隠さなくていいと。
言わなければいけなかったのに。
一番必要な瞬間に、言葉が遅れた。
その遅れが、メイを逃がした。
瞬は布を握りしめた。
強く握りすぎないように気をつけながら。
布の端が、風に小さく揺れる。
彼は顔を上げた。
周囲には、まだざわめきが残っている。
若者たちは青ざめたまま立ち尽くしていた。布を剥がした男は、今さら自分が何をしたのか理解したように、唇を震わせている。
瞬は、その男を見た。
「お前」
声は静かだった。
男は肩を跳ねさせる。
「ひっ……」
「謝る相手は、俺じゃない」
瞬はそれだけ言った。
怒鳴りたかった。
殴り飛ばしたかった。
けれど、そんなことをしてもメイは戻らない。
いま必要なのは、怒りをぶつけることではない。
探すことだった。
彼女を見つけること。
そして、今度こそ言葉を間違えないこと。
「メイ……」
瞬は、彼女が消えた路地の方を見た。
夜の王都には、いくつもの影があった。
光の届かない細道。
人の気配が途切れる裏路地。
寒さが溜まる壁際。
彼女が逃げ込みそうな場所は、多すぎた。
けれど、探すしかない。
瞬は布を胸元にしまい、走り出した。
ただし、全力ではない。
全力で走れば、街道をえぐる。
人を吹き飛ばす。
建物を壊す。
だから、抑える。
必死に抑えて、それでも速く。
石畳を踏むたび、こつ、と硬い音が響く。
通りのランタンが風に揺れた。
遠くでカラスが一羽、短く鳴いた。
瞬は、その声を追うように路地へ入った。
胸の奥で、ひとつの言葉だけが繰り返されていた。
綺麗だった。
怖くなんてなかった。
あの目は、災いなんかじゃなかった。
今度こそ、それを伝えなければならない。
そのために、彼は夜の王都を走った。
一方で、路地裏の奥。
メイは膝を抱えたまま、冷たい石の上にうずくまっていた。
遠くで、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
けれど、彼女は耳を塞いだ。
聞きたくなかった。
信じたくなかった。
もう一度、手を伸ばしてしまう自分が怖かった。
夜風が、布のない左目に触れる。
紫の瞳が、暗がりの中でひっそりと光った。
誰にも見せたくなかった色。
誰にも受け入れられなかった色。
その色を抱えたまま、メイは闇の底で小さく震えていた。
そして、瞬はまだ知らない。
彼女を見つけるためには、ただ追いかけるだけでは足りないことを。
「大丈夫」と言うだけでも足りないことを。
彼女の絶望の深さまで降りていかなければ、本当の意味で手は届かないことを。
王都の夜は、静かに深くなっていった。
光の中にいた男が、初めて影の底へ踏み込もうとしていた。




