37.プロレベルの捕手
複数のプロ野球選手を輩出してきた近代高崎高校。近い未来に『その歴史上最高の選手は誰か』と問われた場合、真っ先に名前が上がるのは白井慧である。
そんな白井だが、実は中学のシニアリーグでは目立った活躍ができず無名選手だった。三月生まれであり、身体の成長も遅かったからである。
高校では野球を辞めようかと悩んでいた彼の野球人生はしかし、中学時代から突出していた『選球眼』の良さに目をつけた近代高崎の監督、山本論介にスカウトされたことで劇変した。
当時身体こそ未熟だったものの、技術力は高かった白井。スプリントトレーニングと食トレで身体を作っている最中に遅めの成長期が訪れた彼の身体は、いつしか選球眼の良さに走攻守まで兼ね備えるようになる。
二年生の夏から甲子園を駆け抜け『白い彗星』の異名をとった彼はやがて、球界屈指のスピードスターとしてプロで盗塁王のタイトルを獲得するまでに至った。
***
「7割か……」
塁上にいる白井から送られてきたサインを見て、恐ろしいバッテリーがいたものだと山本論介は呟いた。
現在、4回表ツーアウトで近代高崎の二点ビハインド。そんな状況で投手、湊鴎賀はそれなりに長くボールを持った後……電光石火で一塁方向へターンし牽制球!
間一髪でセーフ。投手判断か捕手のサインかは不明だが、相当な用心深さだ。それだけこちらの白井を警戒しているという事だろう。
ここまで近代高崎が出した走者は、今塁上にいる白井を入れて僅か二人で、しかも先に出たランナーは盗塁死。自慢の出塁率もスローガンに掲げた『機動破砕』も、ここまで完全に不発に終わっている。
先程の送られてきたサインは『盗塁した場合どれくらいの確率で成功できそうか』という白井の主観を山本へと伝えるもの。
盗塁タイム3.3秒、プロ野球の盗塁王に匹敵する脅威的な走力を持つ白井をして成功率はおよそ七割という低確率予想だった。
セイバーメトリクスにおいて盗塁は、成功率70〜75%以上が損益分岐点とされている。つまり、それ以下の成功率の場合はメリット<リスクとなり推奨されない。
そしてプロ野球において盗塁を30%の確率でアウトにできる捕手は相当優秀な部類に入り、ゴールデングラブ賞の候補となる。
「とはいえ、このままではジリ貧だ。向こうが『来るなら来い』と言っている以上、リスク承知で流れを変えに行くしかないな」
湊鴎賀は現在、右投げを選択していた。
右打者相手だからセオリー通りではあるのだが、一般的に一塁から二塁への盗塁は左投手相手の方がやり辛いとされている。ここで行けないなら『機動破砕』のコンセプトが崩壊する場面ーー山本は盗塁を決断した。
「お前ら、しっかりタイム計っといてくれよ」
ベンチにいる記録係に、そう指示を出す。
湊鴎賀がクイックモーションで投げる。
白井慧が走り、大樹匠が刺しにいく。
審判の判定はーー
「……セーフ!」
間一髪、白井慧の勝利だった。とはいえ……
「アウトと判定されてもおかしくないギリギリのタイミングだったな……二人のタイムは出たか?」
「はい、湊のクイックタイムが1.21秒で大樹のポップタイムは1.89秒でした」
「今回も合計3.1秒台か。測定ミスではなさそうだな」
白井の盗塁タイム3.3秒よりも0.2秒も早い。それでもギリギリでセーフになったのは厳しく牽制されたにも関わらず白井のスタートがほぼ完璧で、野手のタッチ動作に0.2秒程度時間がかかったからである。
「湊のクイックタイムがプロレベルなのは事前にわかっていたが……大樹匠の『肩』を見誤っていたな」
データが殆どなかった大樹匠の『肩』。高校生としては充分優秀な2.00秒を想定していたのにセカンドがタッチしやすい場所へ送球しつつ0.1秒も想定を上回ってきた。先程計測された1.89とはプロでも上位レベルの数字である。しかも二連続でドンピシャストライクの送球をしつつだ。
たかが0.1秒と侮るなかれ、俊足のランナーは0.1秒あれば約80センチも前進するのだ。大差である。ちなみに、近代高崎ナインの盗塁タイムは白井が最速で他の選手は全員それより0.1秒以上遅い。
もちろん、単純な足の速さだけで盗塁の可否はきまらない。如何に良いスタートを切れるかも非常に重要だ。
しかし、スタートの良さに直結する『知覚→認識→意思決定』のプロセス関わる脳の処理速度でも、白井以上の選手は自軍に存在しなかった。
これではもう、このバッテリー相手だとリスクが高すぎて白井以外は盗塁を仕掛けられない。というか、左投げで来られたら白井でも無理だ。
「とはいえ、この盗塁成功はした。これで流れが変わってくれるといいのだが……」
***
ツーアウトランナー二塁。
先程盗塁を決められてしまった分、ここは何としても抑えたい場面だ。さて、どんな配球でいくべきか。
そう悩む大樹の思考とは裏腹に、マウンド上の湊鴎賀は楽しそうな笑みを浮かべていた。強敵との緊迫した試合ほど無自覚にニヤケ面をうかべるこの男との付き合いは、もう五年になる。
きっとベンチに帰ると「いやー、白井慧って本当に凄いなぁ。予言するけど、アレはきっとプロでも活躍するぞぉ」とか何とかウキウキした様子で言ってくるのだろう。突出した能力を持つ眼前の男はもしかして、県代表として戦う甲子園を草野球か何かだと勘違いしていないだろうか。
先程、「右で投げるわ。一回失敗してる分左だと走ってこないかもだし。ほら、匠もせっかく冬に猛練習したんだからもう一回くらい盗塁刺殺チャレンジしたいっしょ」と言いだした時には耳を疑った。
(まあ、止めずそれに乗っかった自分も自分なんすけど……)
どんどん高みへと駆け上がっていく相方の足手纏いとならぬよう、必死に伴走している捕手の苦労も知らずに呑気な事だ。
そんな荒れる気持ちを鎮めるために、大樹匠はふうっと一息つく。ここからは捕手として打者を抑えることに集中しなければならない。
(しかしバッター全員、本当にいい選球眼っすねぇ)
事前に研究した通り、近代高崎の打者はボールの見極めが非常に上手かった。プロ並みの球速を誇る湊が視線から遠いアウトローへ投げ込んでも、ストライクとボールをきっちりと把握している感じがある。
(まあだからこそ、この配球が刺さるんすけど)
ボール先行からインコースの直球でカウントをとり、これでツーストライク、ツーボール。
そこから匠はアウトローのボール3/4程外れたゾーンへとミットを構えた。すると湊鴎賀は、クイックモーションにも関わらずそこへ寸分違わず投げ込んでくる。
そのボールに対して大樹匠はボール軌道へキャッチャーミットを先回りさせ、ほんの僅かにストライクゾーンへと動かしつつ捕球し、音が鳴った瞬間にビタリと止めた。
『ストライッ、アウッ!』
あー、入っていたかと打者が天を仰ぐ。
審判の高らかな宣言に続き、バックスクリーンに灯っていたカウントランプが全て掻き消えた。スリーアウト、チェンジである。
が、厳密に言えば今のボールはストライクゾーンには入っていなかった。
しかし先程、大樹匠は『ここにボールがくれば審判は必ずストライクをコールする』と確信してサインを出している。そこには二つの根拠があった。
「スゲー、本当にストライクとってくれたよ」
「ふっふっふ、血液型占いによると本日の運気は絶好調っすからね。しかもラッキーカラーである黄色系統キャッチャーミットまで身につけているんだから、当然の結果っす」
半分冗談だ、血液型占いは毎朝欠かさず見ているが今回の結果にはあまり関係ない。
一つ目は捕手出身である竹中監督の指導を受け、際どいゾーンの球を球審にストライク判定させる『フレーミング』という捕球技術を磨いてきたことだ。
下手なやり方をしたり、乱用したりすると『この捕手は審判を欺こうとしている』と逆に審判員の心証を悪くし、むしろ不利な判定をされることになりかねない諸刃の剣なのだが、今の大樹匠はここ一番のタイミングに限定し完璧なフレーミングを使う。
もう少し詳しく言うと『ストライクを確実にストライクと判定させる捕り方』と『怪しいコースをストライク判定させる捕り方』の二種類を持っていて巧みに使い分ける事ができる。
選球眼というのは元々『審判など周囲の環境にも左右される、個人で完結しない能力』である。そこには当然、対峙する捕手の技量も含まれていた。
「それに、主審さん双子座らしいんすよ。湊は天秤座だから相性はバッチリっす」
これは嘘、審判の誕生日なんて知らない。
ただ、卓越したコントロールをもつ湊鴎賀と高校でもバッテリーを組むことがわかったその日から、大樹匠は県内と甲子園の審判員について研究を始めていた。
審判員も人間である以上、ストライクとボールのジャッジには個々に多少の癖や偏りがあるからだ。
そして、高校野球の審判員はその道のプロではなく本業を別に持つアマチュアが半ばボランティアとして勤めている。毎年多少の流動がある一方で、数十年活動するベテランも多い。
本日主審を務める人物はそんなベテランの一人で、2ー2や2ー3というカウントからアウトコースにストレートが来た場合、ボール一つ程ストライクゾーンが広がるという特徴があった。
と、まあここまで色々やってもなお、捕手の仕事というのは基本的に目立つ事のない裏方仕事。世間の目にとまり脚光を浴びるのは湊鴎賀だけだ。
だから、大樹匠は時々思うことがある。
「いやー、本当に匠が女房役でよかったわ」
こんな一言でつい口元が緩んでしまう自分は、なんてチョロいのだろうと。
「鴎賀は時々ど真ん中に直球なげてくるから心臓に悪いっす」
「嘘!?今日はまだ失投してないじゃん!」
なお、世間の目にとまるのは湊鴎賀だけだが、プロの目は違う。
卓越した肩の強さに加えてここ一番で繰り出す高度なフレーミング、そして審判の癖まで把握して利用する配球もまた、この日球場にきているプロ野球スカウト達の目に止まり注目を集めている。
大樹匠
捕手として極めて高い資質を持っており、小学生の時分にソフトボール投げ61メートルという記録を叩き出した男。
しかし湊鴎賀の一度目の人生において彼が大学スカウトの目に止まる事はなく、アスリートキャリアは高校で終わっていた。
何故ならチーム事情から中学時代は投手をしていたから。そして遅ればせながら捕手にコンバートされた名門校でも指導者が野手出身で捕手育成のノウハウには乏しく、組んだ投手もリードし甲斐の無い剛球荒れ球タイプだったからである。
だが、湊鴎賀の二度目の人生においては違う。
中学高校で 相棒にも指導者に恵まれた大樹匠。
現在の彼は甲子園を沸かす黄金世代の一人であり、大学推薦レベルを飛び越えプロ野球のドラフト候補にまで育っている。
こそこそバックネット裏話
大樹匠はキャッチャーミットを複数持っています。元々は黄色系統の一つだけだったんですが、甲子園出場が決まった際、メーカーから地元スポーツ用品店を通じて“超”がつく割引価格で提供してもらいました。
メーカーは有力選手に自社製品を使ってもらえばこの上ない宣伝になりますからね。高校野球では選手個人への用具の無償提供が禁止されていますが、買っているのでセーフ。合法です。
ワクワクするほど力を出す湊鴎賀には黄色系、たまに弱気になる細川流には赤系、緊張し制球が甘くなりそうな上杉や伊予先輩は膨張色のブロンド系など、投手によって使い分けています。その分お手入れも大変。
本人は『風水的にはこれっす!』なんて飄々としていますが、裏では結構色々考えて頑張っているようです。




