死闘のあとの、血と脂(あと絶望)
「はぁ……はぁ……、マジで言ってるのか?」
ウルフの巨体を前に、俺は完全に引きつった笑いを浮かべていた。
倒したまではよかった。レベルも上がった。だが、RPGのように「モンスターは光の粒子となって消え、お肉とお金をドロップした!」なんて便利なシステムは、このハードコア異世界には存在しなかった。
目の前にあるのは、血の匂いをプンプンさせて横たわる、ただの「巨大な獣の死骸」だ。
「放置したら、夜に別の肉食獣がパーティーしに来るな……」
想像しただけでゾッとする。安全第一。俺は震える手でウルフの死体に触れ、心の中で念じた。
(アイテムボックスに格納!)
ズサァッ、と巨体が消え、脳内のインベントリに『フォレスト・ウルフの死体×1』と表示される。
「よし、ひとまずはこれで一安心……じゃないわ。これからどうするんだよ、これ」
アイテムボックスの中では時間が停止する(らしい)ので腐りはしないが、中に入れたからといって、自動で「ウルフの極上ステーキ肉」や「防寒ウルフ毛皮」に加工されるわけではない。
食べるにしても、使うにしても、自分の手で「解体」しなければならないのだ。
俺は一度小屋の外に出て、爆風で半分吹き飛んだ壁を見つめた。
……うん、ここで解体するのは無理だ。ただでさえ狭いのに、血の海になったら精神が崩壊する。
「やるなら、川下の方か……」
俺はトボトボと、昨日から何度も往復している川へと向かった。ブラック・ニードル・フィッシュが飛び出してこない、見晴らしの良い砂利浜を選ぶ。
意を決して、アイテムボックスからウルフの死体を取り出した。ドン、と鈍い音が響く。
「よし……【鑑定】」
> **【フォレスト・ウルフの死体】**
> 状態:死亡(新鮮)
> 解体手順:
> 1. 後ろ足の腱に紐を通し、木などに吊るして血抜きを行う。
> 2. 股関節から皮に切れ目を入れ、肉を傷つけないように内臓を摘出する。(※胆嚢を傷つけると肉が猛烈に苦くなるので注意)
「親切な解説ありがとう! でもな、吊るす紐もなけりゃ、そんな筋力もねぇんだよ!」
大人3人分はありそうな巨体だ。前世でキーボードしか叩いてこなかった俺の貧弱な腕で、こいつを木に吊るせるわけがない。
結局、俺は砂利の上にウルフを横たわらせたまま、地べたを這いつくばって作業することにした。
「……やるしかない。肉、肉を食べないと餓死する」
昨日食べた「熱い泥水」の味を思い出し、俺は覚悟を決めた。
鉄の短剣を逆手に持ち、ウルフの腹に刃を立てる。
――ズブ、ズリリリ……。
「うっ、おぇぇ……っ!!」
皮膚を切り裂いた瞬間、溢れ出たのは強烈な血の臭いと、生暖かい内臓の熱気だった。
前世で見ていたアニメや漫画の解体シーンは、どれだけマイルドに描写されていたかを痛感する。これは「作業」じゃない。「屠殺」だ。
手が血と脂でベタベタになり、感覚が麻痺していく。
内臓を傷つけないように、慎重に、慎重に……と進めるが、短剣の刃がウルフの分厚い皮と脂肪に阻まれて、全然進まない。
「クソッ、刃が鈍ってきた……! 腕がパンパンだ……!」
新調したばかりのスキル【短剣術:Lv1】が発動しているおかげで、なんとか刃物の角度は保てているものの、肉体的な疲労は容赦なく襲いかかる。
一歩間違えて胃や腸を破けば、中身が溢れて肉が全部台無しになる。プレッシャーと悪臭で、冷や汗がアブラ汗に変わっていく。
格闘すること、実に3時間。
「はぁ……はぁ……終わっ、た……?」
目の前には、お世辞にも綺麗とは言えない、不格好に切り分けられた「赤身の肉塊」がいくつか転がっていた。
皮を綺麗に剥ぐなんて高等技術は無理だった。毛皮はボロボロのゴミクズになり、使えそうなのは数キロ分の肉だけ。残りの残骸は、川に流すと下流の生態系を壊しそう(&別の魔獣が来そう)なので、慌ててアイテムボックスに再格納して封印した。
俺の服は、返り血と泥と脂でドロドロだった。
川の水で手を洗うが、脂がこびりついてなかなか落ちない。洗剤が欲しい。切実に欲しい。
「スローライフ、スローライフ……ふふ、あははは……」
もう笑うしかなかった。
のんびり家庭菜園をして、近所の人と物々交換をして、夜は暖炉の前で読書をする……。
そんな妄想をしていた過去の自分を殴り飛ばしたい。
今、俺の手にあるのは、血まみれの生肉。
これを、あの半分壊れた小屋に持ち帰って、また火を起こして焼いて食べなければならない。調味料は、もちろん無い。
太陽が西に傾き始めている。
異世界3日目の夜が、またすぐそこまで迫っていた。俺は肉の塊を抱え、重い足取りで「我が家(半壊)」へと歩き出した。




