スローライフの『ス』はサバイバルの『ス』
「グルルルル……」
木造小屋の隙間から見えるその姿に、俺の心臓はドラムのように脈打った。
柴犬を5倍にしたサイズ――いや、軽自動車が一回り小さくなったくらいの巨体だ。青白く光る眼が、完全に俺を「獲物」としてロックオンしている。
「嘘だろ……。新人のチュートリアルにしては難易度バグってんだろ……!」
慌てて手元の鉄の短剣を握りしめ、【鑑定】を発動する。
> **【フォレスト・ウルフ】**
> 危険度:D
> 特徴:集団行動を好む肉食魔獣。今回ははぐれ個体。非常に俊敏で、噛みつきの風圧だけで人間の皮膚を裂く。
危険度D。昨日の魚(F)やイチゴ(E)よりさらに上だ。
しかも、噛みつきの風圧で皮膚が裂けるってなんだ。ファンタジーの物理法則は加減を知らないのか。
ガリッ、と鈍い音が響いた。
ウルフが小屋の入り口に立てかけただけの木の板に、その巨大な前足をかけたのだ。みしり、と木が悲鳴を上げる。鍵もない薄い板きれなんて、一撃で粉砕されるのは目に見えている。
(どうする? 戦うか? いや、前世の俺は運動不足のSEだぞ!? タイピング速度なら負けないが、リアル戦闘なんてゲームの中だけだ!)
だが、逃げ道はない。この小屋には裏口なんて上等なものはないのだ。
バキッ! という派手な音とともに、入り口の板が真っ二つに割れた。
「ガルルァ!」
目の前に現れる、血に飢えた狼の顎。ツンと鼻を突く野獣の臭い。
恐怖で足がすくみそうになるのを、俺は奥歯が痛むほど噛み締めて堪えた。ここで動かなければ、確実に噛み殺されて文字通りの「スロー(遅い死)」ライフになる!
「ちくしょう! 魔法だ! 【生活魔法:着火】!!」
俺はウルフの顔面に向けて、右手を突き出した。
昨日覚えたての、指先から出る小さな火種。戦闘用でも何でもない、100円ライターレベルの火。
ボッ!
「ガウッ!?」
鼻先に突然現れた炎に、ウルフが驚いて一歩身を引いた。
やはり野生の生き物、火は本能的に怖いらしい。
(いけるか!? いや、これじゃ決定打にならない!)
ティンダーの火は一瞬で消える。ウルフはすぐに体勢を立て直し、今度は怒りに目を血走らせて飛びかかってきた。
「ガアアアアン!」
「うわあああ!」
俺は無我夢中で横に転がった。
寸前まで俺がいた床を、ウルフの鋭い爪が引き裂く。凄まじい衝撃波で、小屋の壁がミシミシと音を立てた。
転がった拍子に、俺の背中が昨日から育てていた「焚き火」にぶつかりそうになる。熱い。
その時、俺の脳裏に最悪で最高の閃きが走った。
(そうだ、アイテムボックスだ……!)
俺はすぐさま、アイテムボックスを開いた。中には、昨日の探索で見つけて、触るだけで爆発するからと放り込んでおいた「あの果実」が入っている。
「これでも喰らいやがれ!」
俺はウルフが次に飛びかかってくる瞬間を狙い、アイテムボックスから【爆破イチゴ(ブラスト・ベリー)】を取り出し、全力でウルフの足元へ投げつけた。
「グルッ?」
ウルフが床に転がった赤い果実に目を落とした、次の瞬間。
イチゴが床に激突した衝撃で、大爆発を起こした。
**ドォォォン!!**
「うわっ!?」
ものすごい爆風と煙が小屋の中に充満する。
爆心地から数メートル離れていた俺ですら、壁まで吹き飛ばされて激しく背中を打ちつけた。ゲホゲホと煤を吐き出しながら、前を見る。
「ガ、ゥ……」
そこには、下半身の毛を黒焦げにし、衝撃で脳震盪を起こしたようにフラフラとよろめくウルフの姿があった。周囲1メートルを吹き飛ばす威力。狭い小屋の中なら、その衝撃波は凄まじかったはずだ。
「はぁ、はぁ……今、だ……!」
俺は痛む体に鞭打ち、落ちていた鉄の短剣を拾い上げた。
そして、ウルフの首筋めがけて、全体重を乗せて短剣を突き立てた。
ズブッ。
生々しい感触が手に伝わる。
ウルフは一度大きく痙攣し、そして――動かなくなった。
『経験値を獲得しました。レベルが2に上がりました』
『スキル【短剣術:Lv1】【危険察知:Lv1】を獲得しました』
脳内に流れる無機質なアナウンスを聞きながら、俺は短剣を握ったまま、その場にへたり込んだ。
「勝った……のか?」
手の震えが止まらない。生き物の命を奪った感触が、掌にべっとりと残っている。
だが、それ以上の感情が俺を支配した。
「小屋が……俺のマイホームが……」
見上げれば、爆風で小屋の壁には大きな穴が空き、天井からはパラパラと埃が落ちてきている。ただでさえ隙間風が酷かったのに、これでは今夜は完全に野宿と同義だ。
おまけに、命がけで倒したウルフの死体が目の前にある。
「これ……どうするんだよ。放置したら他の魔獣が集まってくるよな? 解体? 俺が? 魚三枚に下ろしたこともないのに?」
目の前にあるのは、血生臭い巨大な肉の塊。
これを処理しなければ、次の危険がやってくる。
異世界スローライフ2日目、お昼過ぎ。
俺は、血塗れの短剣を片手に、ボロボロになった我が家(仮)の前で、ただただ途方に暮れるのだった。




