文明の味と、深夜の仕様分析
「……美味い。美味すぎる……っ!」
宿屋『跳ね馬の蹄亭』の食堂で、俺は木のスプーンを握りしめたまま、不覚にも涙をこぼしていた。
目の前に並んでいるのは、決して王族が食べるような高級料理ではない。
ゴロゴロとした根菜とホロホロになるまで煮込まれた豚肉のシチュー、焼き立ての黒パン、そしてほんのりとハーブの塩気が効いた鶏の串焼き。どこにでもある、異世界の一般的な宿屋の定食だ。
だが、ここ数日、味のしないゴムのような魔獣の肉や、泥のようなキノコスープを喉に押し込んできた俺にとって、これは前世で食べた三つ星レストランのフルコースすら凌駕する至高の御馳走だった。
「カズトさん、そんなに泣くほど喜んでもらえるなんて、紹介した僕としても嬉しいですよ」
対面に座るアレンが、エールの入った木樽のカップを片手に嬉しそうに笑う。隣ではムト老人が、すっかり元気になった様子でスープを美味そうにすすっていた。
「アレン、お前には分からないだろうが……『ちゃんとした塩味』と『柔らかい肉』がこれほど人類を幸せにするものなのか、俺は身に染みて理解したんだ。インフラ万歳。分業体制万歳だ」
俺は黒パンをシチューに浸し、豪快に口へ放り込む。
口いっぱいに広がる旨味とコク。これだ。これこそが、人間が人間らしく生きるために何千年もかけて積み上げてきた文明の結晶だ。
夢中で皿を空にし、冷たいエールで喉を潤す。ぷはぁ、と息を吐き出すと、ようやく五臓六腑に活力が満ちていくのを感じた。
食後、アレンが少し声を潜めて、テーブルの距離を詰めてきた。商業都市の宿屋の食堂だ。周囲には他の行商人や冒険者も多く、雑談に紛れてはいるが、ここからは「ビジネス」の話になる。
「カズトさん、お腹がいっぱいになったところで、例の『ブルー・ハーブ』の件なんですけど……」
「ああ、お前の初商いのコンサルティングだったな。仕様の確認(状況の整理)から始めよう」
俺はエールのカップを置き、SE時代の打ち合わせモードに頭を切り替えた。
「現在、俺のアイテムボックスの中には、品質Cのブルー・ハーブが800束入っている。中では時間が停止しているから、品質の劣化は完全にストップしている状態だ。ここまではいいな?」
「はい。本当に助かりました。あのまま馬車に積んでいたら、今頃は全部茶色く萎びて、ただのゴミクズになっていたはずですから……」
アレンは思い出しただけでもゾッとするといった様子で身震いした。
「で、問題はここからだ。アレン、お前はこのフォルトンの商業ギルドでそのハーブを仕入れた。ギルドの担当者は『豊作で余っているから安く譲る』と言ったが、実際は『残り24時間で薬効が消える不良在庫』の押し付けだった。……ここから推測するに、ギルドはお前が隣の鉱山街に辿り着く前にハーブが全滅することを知っていて、わざと売った可能性が高い」
俺の指摘に、アレンの顔が苦渋に満ちたものに変わる。
「……たぶん、そうです。僕、まだ商人になったばかりで、親のコネもない個人の行商人だから、舐められてるんです。ギルドのハンスって担当者、僕が破産して商人資格を失えば、僕の家が持っている小さな倉庫の権利を格安で巻き上げられるって、裏で笑っていたみたいで……」
「なるほど、明確な悪意の仕込みか」
前世でもよくあった。何も知らない新人エンジニアに、絶対に終わらないデスマーチ案件を押し付けて、失敗の責任を全部負わせようとする無能な上司や、あくどい元請け企業。
思い出すだけで胃のあたりがキリキリとしてくる。それと同時に、元SEとしての、そして理不尽なシステムに虐げられてきた者としての「反逆の血」が、静かに沸き立つのを感じた。
「面白い。仕様の隙を突いて、そのハンスって奴の鼻を明かしてやろう。アレン、本来の予定では、ここから隣の鉱山街『ザルツ』までどれくらいかかる?」
「通常なら馬車でさらに2日です。でも、ハーブが腐らないとなれば、急ぐ必要はありません。ザルツの錬金術師ギルドに持っていけば、傷薬の需要が常に高いので、仕入れ値の3倍……大銅貨3000枚(金貨30枚相当)にはなるはずです!」
アレンの目が輝く。
だが、俺は顎に手を当て、少し考えてから首を振った。
「いや、ザルツには行かない。納品先は、この街『フォルトン』の商業ギルド……いや、ハンスの目の前だ」
「えっ!? なんでですか!?」
アレンだけでなく、ムト老人まで驚いて声を上げた。
「ハンスは、お前が数日後に『ハーブが全部腐って大赤字を出しました』と泣きついてくるのを待っている。裏を返せば、彼は今、この街でブルー・ハーブの在庫を『完全に切らしている』状態のはずだ。豊作だったとはいえ、消費期限直前のものを一掃した直後だからな。しかし、傷薬の需要はこの街の冒険者ギルドや神殿でも一定数あるはずだ」
俺は不敵に微笑む。
「明日、俺たちは何食わぬ顔で商業ギルドへ行く。そして、ハンスの目の前で『採れたてピチピチ、品質最高のブルー・ハーブ800束』を、この街の市場価格で買い取らせるんだ」
「でも、カズトさん。ハンスが『これはうちが売ったやつだろ!』って気づいたら……」
「気づくわけがない。仕様書(契約書)には何て書いてある? 『現物の引き渡しをもって取引完了とする。以降の品質変化についてギルドは責任を負わない』だろう? ハンスはお前に『ゴミ同然のハーブ』を渡した認識だ。それが、なぜか1日経って『超新鮮なハーブ』として目の前に現れる。タイムパラドックスが起きたようなもんだ。あいつの脳内システムは確実にフリーズするぞ」
アイテムボックスの時間停止という「チート仕様」は、ただの保存機関ではない。
世界の物流の常識(仕様)を根底からひっくり返す、最強の「バグ技」なのだ。
「アレン、契約書の文言をもう一度確認したい。部屋に戻ったら見せてくれ。納期は明日、ギルドの営業開始時間だ。徹夜で仕様の穴を詰めさせてもらうぞ」
「は、はい……! なんだか、カズトさんが凄く悪い顔をしてますけど、頼もしすぎます!」
こうして、異世界4日目の夜。
俺は、かつてないほど充実した気持ちで、アレンが持ってきた羊皮紙の契約書とにらめっこを始めるのだった。スローライフなんてできなくて上等だ。ブラック企業の底で鍛え上げられたロジックの力、異世界で思い知らせてやる。




