文明の門と、至高の泥落とし
「見えた……! あれが、街だ……!」
馬車の荷台から身を乗り出した俺の視線の先。地平線の向こうに、そびえ立つ強固な石造りの防壁が見えてきた。
転生4日目。フォレスト・ウルフの群れを爆破し、我が家を失い、血と煤にまみれて彷徨った地獄の日々を経て、俺はついに人類の文明圏へと辿り着いたのだ。
「カズトさん、あれが僕たちの拠点でもある商業都市『フォルトン』です。あそこなら、美味しいご飯も、温かいお風呂も何でもありますよ!」
アレンが御者台から振り返り、満面の笑みを見せる。
ムト老人が手綱を引く馬車は、応急修理した車輪をガタゴトと鳴らしながら、街の巨大な城門へと近づいていく。城門の前には、物資を運ぶ馬車や旅人たちが列を作っており、鎧を着た門衛たちが厳重な検問を行っていた。
いよいよ俺たちの番が回ってくる。槍を手にした大柄な門衛が、鋭い視線で馬車を一瞥した。
「おい、アレン。無事に戻ったか。……って、なんだその荷台の男は。山賊か?」
門衛の目が、俺のところでピタリと止まる。
無理もない。今の俺は、返り血でガビガビになった布の服をまとい、顔は爆発の煤で黒く汚れ、腰には血塗れの短剣をぶら下げている。どう見ても、一仕事終えたばかりの凶悪犯だ。
「ち、違います! ギルさん! この方は僕たちの命の恩人のカズトさんです! 森で魔獣に襲われたところを、カズトさんの素晴らしい『知恵』と『魔法』で助けてもらったんです!」
アレンが慌てて身を乗り出し、商人ギルドの登録証である木札を見せながら必死に弁明する。ムト老人も「本当でございます。カズト殿がいなければ、ワシは今頃あの世でした」と深く頷いた。
門衛のギルと呼ばれた男は、俺をじろじろと【鑑定】するかのように見つめた後、ふっと表情を緩めた。
「ふん、アレンの奴がここまで必死になるってことは、本当みたいだな。最近、あの森はフォレスト・ウルフの動きが活発だって噂だ。……おい、カズトと言ったか。ボロボロのところ悪いが、街の規則だ。この魔道具に手を乗せてくれ」
差し出されたのは、手のひらサイズの歪な水晶玉だった。犯罪歴などをチェックする魔道具らしい。
俺が恐る恐る手を乗せると、水晶は淡い青色に輝いた。
「よし、犯罪奴隷でも指名手配犯でもないな。フォルトンへようこそ、お疲れの英雄さん。まずはその汚れを落としな。子供が泣くぞ」
「……ありがとうございます」
門をくぐった瞬間、俺の耳に、わっと押し寄せるような雑踏の音が響いた。
石畳の道を往来する多くの人々。立ち並ぶ木造や石造りの建物。露店から漂ってくる、何かの肉を焼く香ばしい匂いや、スパイスの香り。
(あぁ……人間がいる。社会が動いている……!)
たった3日前まで、俺もこの「当たり前の日常」の一部だったはずなのに、今の俺にはそこがまるで天国のように眩しく見えた。孤独なサバイバルは、想像以上に俺の心を蝕んでいたらしい。涙腺がじわリと熱くなるのを、必死で瞬きして堪えた。
馬車はアレンの案内で、大通りから一本入ったところにある、こぢんまりとした宿屋へと向かった。
『跳ね馬の蹄亭』と書かれた看板が掲げられたその宿は、アレンがいつも利用している馴染みの場所だという。
「カズトさん、まずは約束のお風呂です! 宿の裏手にある共同浴場を貸し切りにしてもらいましたから、ゆっくり泥を落としてください。服は僕が新しいものを用意して持ってきます!」
「恩に着る、アレン……。マジで感謝する」
俺はフラフラとした足取りで、宿の裏手にある浴場へと向かった。
扉を開けると、そこには、もうもうと立ち込める白い湯気と、並々と温かいお湯が注がれた大きな木製の浴槽があった。
「お湯だ……。本当に、温かいお湯がある……」
服を脱ぎ捨て、まずは備え付けられていた、ザラザラとした灰色の石鹸(油脂と灰を混ぜたものらしい)を手に取る。川の水では全く落ちなかったウルフの脂と、全身にこびりついた煤を、ゴシゴシと力任せに洗い流していく。
泥水が床に流れ落ち、本来の肌の色が見えてくる。
そして、満を持して、湯船へと体を沈めた。
「おおおぉぉ…………っ」
思わず、言葉にならない声が漏れた。
熱いお湯が、極限まで緊張し、凝り固まっていた俺の筋肉をじっくりと解きほぐしていく。
ボタン一つでお湯が出る前世では、シャワーだけで済ませることも多かった。だが、電気もガスもないこの世界で、これだけの「お湯」を用意することがどれほどの重労働か、今の俺には痛いほどよく分かる。薪を割り、火を起こし、水を運び、沸かす。そのすべてが詰まった、贅沢の極みだ。
「生き返る……。これだよ、俺が求めていたスローライフ(の前提条件)は……!」
湯船に頭まで浸かり、ぷはぁと息を吐き出す。
2日間のサバイバルで張り詰めていた神経が、お湯に溶けていくようだった。スキル【危機感知】のアラームも、今は完全に沈黙している。
しばらくして浴場を出ると、脱衣所の台の上に、真新しい衣服が畳まれて置かれていた。
アレンが手配してくれた、一般的な旅人が着るような、丈夫な麻のシャツと厚手のズボン。そして、新品の革靴だ。
袖を通してみると、驚くほど肌触りが良く、サイズもぴったりだった。
返り血でカチカチになったあの服とはおさらばだ。鏡に映った自分を見ると、髭は伸び放題だが、ようやく「人間」らしい身なりに戻っていた。
「カズトさん! 準備できましたか? 食堂でご飯が待ってますよ!」
外からアレンの元気な声が聞こえる。
「今行く!」と応え、俺は待ちに望んだ「文明の味」を求めて、宿の食堂へと足を進めた。




