第30話 南雲紗良は機械的に
朝、家を出る。
「凛花……?」
もう時間だ。出なければ遅刻になる。
なのに凛花の姿はない。今日は体調不慮だろうか。
「……」
とにかく家を出る。久しぶりの一人だな、なんて思っていたら予想外の声がかかる。
「斗真さん」
「……紗良?」
普段あまり会わない紗良がいた。どうしてウチの前に……。
「待っていた。朝からずっと」
「いや、朝からって……」
「“今”は、私の番だから」
淡々と、でもいつもよりわずかに声がやわらかい。それが、紗良なりの気持ちの表現なのだと、なんとなく分かった。……でもなんだろう、なんとなく違和感が……。
「時間、大丈夫か?」
「問題ない。計算済み。会話は二十一分以内に終わる」
「わりと具体的だな……」
彼女は一歩だけ近づくと、バッグの中から紙袋を取り出して差し出した。
「朝食を持ってきた。栄養バランスは考えてある」
「……そういえば食いそびれたんだ、ありがとう」
中には小ぶりのサンドイッチがいくつかと、小さなフルーツ入りのヨーグルトが。どれも、手作りの匂いがした。
「これ……作ってくれたのか?」
「当然。今日は、特別だから」
淡々としてるのに、たまに入る“意味深な間”が妙に気になる。
「……あなたと出会った時——」
そう語り出した彼女の口は重そうだった。まるで何かをこじ開けようとするような。
「アプリを使用し、私に催眠をかけようとした。——ですが、そんなものに従うわけもなく……」
「……紗良が、アプリにかかっていない一人?」
「その判断はもう少し後……全員とお話ししてから決めるべきです」
彼女は淡々としている。——様に見える。本当は焦りがあるような、そんな雰囲気があった。
「……斗真さん」
「ん?」
「私は、あなたの命令を一度も“従いたくない”と思ったことはない」
「……」
「私は、貴方に言われたことを素直に実行していた。でも、それは命令だからじゃない。そうした“フリ”をすることで、貴方の近くにいられると思っていたから」
「それが、本心?」
「あなたの近くで、私だけを見ていて欲しい。そんな、独占欲が湧いた」
まっすぐに、感情を表に出すでもなく、だけど“核心”を突くような言葉を言ってくる。
「私は、“恋”という感情がよく分からない」
「……紗良」
「でも、あなたが私に言葉をくれるたび、身体が軽くなる気がする。あなたの隣にいると、……自分が”人間”でいられる気がする」
その表情に、いつもの無機質さはなかった。ほんのわずかに震える声と、潤んだ瞳。
「だから――たとえアプリが無くても、私はあなたの隣にいたい。……命令されなくても、あなたの傍にいたいと、思ってる。これを、恋、というのかしら」
「……」
「分からない。同時に、怖い。こうして話すことでも、こんなにも大きな感情が、傷つき、壊れてしまいそうで」
彼女は静かに涙を流していた。涙の意味を悟らせないような、静かな涙。
斗真は目を見る。その瞳はガラス細工のようで、今にも割れそうな潤んだ瞳だった。
「これを、言わなければなりません。——好き。大好き、です。こんなに胸が苦しくても、言わなけば、意味がない……!」
そう言ったあと、彼女はゆっくりと手を伸ばした。斗真のシャツの裾を、ぎゅっと握る。
「……こういうの、合ってるか分からない。でも」
そして、紗良は、ぎこちなく背伸びして——そっと、唇を重ねた。
それはユナとは違い、初めての動作を丁寧にこなすような、慎重なキスだった。
数秒後、そっと身体を離して一言だけ。
「……これで、私の“好き”も、伝わった?」
「ああ……ちゃんと、伝わった」
紗良は、ほんの一瞬だけ微笑んだ。それは、今まで見たことがないような、どこか柔らかい笑みだった。
「……よかった。壊れてない。私の心は、壊れていないわ」
「……紗良」
「これでいいのよね。これが正しいのよね」
彼女は、どこかに助けを求めるような、危うい存在にも見えた。
「本の中の女の子たちはすごいわ。こんな感情、感覚を持ったまま日々を過ごすなんて」
「恋愛小説、か?」
「はい。彼女たちはすごいです。こんなの、狂ってしまいそう」
そして、彼女は学校へ向かって歩いていった。「では」と言って離れていく背中を見つめながら、斗真は思った。
“命令主”ではなくなった今でも、彼女は――間違いなく、俺のことを想ってくれていた、と。
* * *
階段を登る紗良。その先にいたのは真雪。
「……なんですか」
「いや、アフターケアは必要かと思ってな」
「結構です。わたしは誰かさんのように感情的ではないので」
「そうは言うが・・・・・・。その痛みは、生半可なものではあるまい」
紗良は胸を抑える。感情は脳の反応と知っている。なのに、息が苦しいのだ。
「──失って分かる、大事なもの」
「・・・・・・そうだな」
「そっか。こんなにも、大事なものだったんだ」
紗良は一人。痛みに耐えるのだった。
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