↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

台風一過

                        1


 そのレストランはひどく寂れた場所にあって、そこら一帯のムードを欲しいままにしていた。周囲には潰れるのも秒読みであろうボーリング場と、駐車場ばかりがだだっ広いチェーンのドラッグストアがあって、どれもひどく、富士山の周囲に点在するチンケな山のように無個性な、つまらないものである。そのレストランは、寂れた路地に佇む富士山であった。


 その路地は別に山道でも何でもないのだが、レストランは山道の茂みを抜けた先に突如として現れたかのように緑に包まれていた。名前の分からない植物の蔦に覆われて青々としており、その中で木製の扉の周りだけが、綺麗に刈り取られていた。緑の中で、扉だけが浮かんでいるようである。

 扉の周囲には陶器でできた鉢植えが等間隔で並んでいて、右からレモン、ライム、柘榴、キンカン、無花果。どれも鉢植えに合わせて無理なく伸び伸びと育っている。


 僕がそのレストランを見つけたのは、無理な近道のために馴染みのない道を歩いてしまったある昼下がりである。軽い迷子から、ようやく見覚えのあるドラッグストアの看板を見つけられたその道中で、僕はその異様な存在感を放つレストランに出会った。

 僕はそこにボーリング場があることは知っていたのに、レストラン(しかもこんなに存在感のある)は初めて見つけた。越して1年と少し。伊達にこの場所に慣れてしまっただけに、こういう見落としが得もしないタイミングで起こったりするのである。

 

 扉の前まできて初めて、植木鉢にメニューが立て掛けられているのを見つけた。営業中。僕は入るとも決めていないのに笑みを浮かべた。看板には手書きで「シチューの具は自由に変わります」と書いてあった。それは果てして、メニュー内の、鮭のシチューかチキンのシチューかビーフシチューか、どのシチューなのだろう。おそらくは全てか。

 僕の興味が唆られるのは白ネギとチキンのクリームパスタなので、どれでも関係はない。パスタに、マッシュルームのポタージュでセット、サラダは湯むきしたトマトにオリーブオイル。すごいぞ、僕の好物しかない。


 ここまで考えておきながら、ならばこの店で昼食を…とはならなかった。誰かとならまだしも、一人で入るには少々敷居が高い店構えである。しかし、誰か連れがウチに来た時、「良い店があるんだ」と常連風の顔でこの店に来ることがあるかもしれない。

 そんなことを考え、フッと笑みがこぼれた直後、間の悪いことに中から店主と思しきエプロン姿の婦人が現れた。ドアは予想外に、何とも軽い様子で開き、ベルがランランと、こちらはイメージ通りに軽い音を立てている。

 最初、婦人は何も目にしていないかのようにサッとメニューの鮭のシチューに赤い丸をして、それから改めて僕を見た。「いらっしゃあいませえ!」と歌い出すかのように上げた声色は、僕を見つけたという方が相応しいかもしれない。感じよく弾んでいた。いらっしゃるつもりはまるでなかったのだが、自然と足は扉の先に進んでいた。


 婦人がエスコートするままに、トイレから一番遠く、入り口からは3番目に近い、日当たりのよいテーブル席に座った。テーブルにはスミレの絵があしらわれたクロスが敷かれていて、中央には不釣り合いなほど陽気にマンドリンを鳴らす老人の人形が置かれていた。一つ奥の壁際の席には、朝刊とボールペンが置かれていた。おそらく先ほどまで婦人がクロスワードでもしていたのだろう。パタパタと水を運んできてくれた婦人に、僕は矢継ぎ早にクリームパスタのランチを注文した。事前にシミュレーションした通りの注文だけにスムーズにできたし、婦人も愛想よく微笑んで返事してくれたが、頼み終えた後でこの速度の由来が、普段行っているようなラーメン屋だとかのそれであると気づいて、人知れずわが身を恥じた。お里が知れた気恥ずかしさよりも、非日常と呼んで差し支えないこの特別な昼下がりに自ずから水を差してしまったと、そこを恥じた。もっと余裕を持って生きたいものだ。


 それでも店に入って注文まで終えた…大袈裟に言うなら一仕事終えた達成感は十分にあって、僕は早々に優雅な気分に浸れた。料理が来るまでの間、カバンに忍び込ませていた文庫本を読むことにした。吉行淳之介のエッセー。洒落た気分の高揚に相応しい一冊である。


 

                        2




 暫くして、期待した通りのランチセットがテーブルに並んだ。スープパスタとも呼べそうなほどホワイトソースがたっぷりかかったパスタにはゴロゴロと大きめの白ネギやチキンが転がっている。他に具材は無し。シンプルである。

 ポタージュのマッシュルームも大振りで食欲をそそられた。容れ物の両縁にあしらわれた小鳥の取っ手が愛らしい。ポタージュにも、ゴロンと巨大な湯むきトマトにも、細かく刻んだバジルがかけられていた。トマトを抱えているのは意外にも北斎漫画をあしらった九谷焼だったが、そのミスマッチ感が妙に良かった。盤石に見えた布陣は、エプロンで手を拭く婦人の「ベイク仕立てのバゲットがあるんですけど、召し上がる?」の言葉でより確固たるものになった。焼きたてではなく、ベイク仕立て。何だか妙に、良いではないか。


 シャーベットと見紛うほどに冷たいトマトも、濃厚なパスタもスープも、ベイクしたてのバケットも、そのどれもがスタンダートながら深みのある味わいで、僕はいつもより0.8倍速でそれら一つ一つを堪能した。何だかもったいなくて、全てを少しづつまんべんなく三角食べで平らげた。ニコニコとした婦人がコーヒーを淹れてくれたので、僕はすかさず「美味しかったです。どれも」と会釈と共に告げた。


「お粗末様です。ここにはご観光?」


 付近には、小さいがその分よくまとまった市営の美術館がある。僕は「いえ、ここから5分程度のところに住んでます」と、コーヒーを持ち上げながら言った。


「ここには最近越してきました。こんな素敵なお店があるなんて、知らなかったな」


 本心のはずなのだが、言葉にすると急にべんちゃらづいてきこえるから不思議だ。婦人は大袈裟に思えるほど喜んでくれたので良かったが、お店が素敵であると言われたことよりも、僕という若者が、最近この付近に越してきたという、その事に喜んでいそうだった。


「嬉しいわ。若い人が越してくるのは」と、少し砕けた話し方で、倒置法を用いながらせかせかと食器を下げた。


「お一人で越してこられたの?」


 カウンター越しに続きの質問が飛んできた。僕はてっきり会話の区切りがついていたものだと思っていたので、口に含んだコーヒーを慌てて呑み込んで、「はい」と返した。


「あら、じゃあご両親から離れて?」


「そうです。役所に併設している図書館で司書をすることになりまして」


「あら、公務員さん?私、あそこ、よく利用させていただいてますのよ?」


 婦人がまた姿を見せつつ、嬉しそうに言った。食器洗いよりも僕との交流を優先してくれたらしい。


「そうなんですか?すいません、まだ慣れてなくて、利用者の方を覚えきれなくて」


 僕が露とも悪気を感じずにした謝罪を、両手であしらいながら「私、読みたいものをあそこで読んじゃうタイプだもの」と婦人は笑った。化粧っ気のない顔だが、パーツの一つ一つがくっきりと存在感があるように見えた。笑顔の上手い女性だ。手元の、オリーブオイルまみれの江戸っ子よりよっぽど愛嬌がある。


 会話はその程度で途切れたが、雰囲気は依然として明るく、柔和だった。僕はコーヒーを飲み終わり、カップを置いた動作の続きで、そのまま席を立った。別にさっさと出ようと思ったわけではないが、「初めての店に長居は野暮天」というどこかで見たフレーズが脳裏をよぎったのだ。


 会計の時、僕は「でも、良かったです。良いお店を見つけられて」と再度婦人に言った。婦人は深々と頭を下げた。


「また、僕個人でも来させてもらいますけど、丁度再来週に両親が初めて顔を見せに来るんですよ。母の誕生日が近くもあるんで、どこかでちょっと外食でもと思ってたんです」


 自分でも言いながら、婦人の喜びそうなことだと思っていたが、予想の倍、婦人は喜んだ。まあ素敵と弾んだ声を上げ、お見えになるのは夜?と深堀を始めた。


「夜もやって見えるんですか?」


「ええ。そうだわ。せっかくだし、差し支えなければ夜にお見えになって。お値段もランチと変わらないし、お席も眺めのいい場所をご用意しますわ」


 婦人は饒舌に、素敵ね素敵ねと言いながら段取りを組んでいた。僕も素直にその熱に浮かされながら、再来週の土曜日の夜、17時に必ず行きますと告げて、満たされた気持ちで店を後にした。ドラッグストアの前で、「そうだ、久住昌之の漫画で見たんだ」と今更なことを思い出した。

 「野暮天野暮天」弾むように口ずさんで、僕はそのまま帰路に就いた。このまま真っすぐ帰るのは名残惜しいので、道中、前から気になっていたお洒落な外観の店でカップケーキを買ったが、そこのは雰囲気だけで肝心のケーキは有り物臭く、少々興がそがれた。


                      3


 両親は予定通り来たのだが、予定に忠実だったのは天候もであり、僕の住む町は悪天候に見舞われた。横殴りの雨と、テノール歌手のように音を鳴らす暴風で、人口密度ギッシリの僕のワンルームをガタガタ揺らした。父の車で市街地に行くつもりだったのだが、当然取りやめになった。3人でのんびりと、3時間もある映画を見た。可もなく不可もない長いだけの内容は、暇を持て余したムードを何だか和やかなものにしてくれて、僕は両親用の布団で横になり、大きく伸びをした。


 雨は翌日の朝には上がっていて、台風一過とでも言うべき爽やかな青空が広がっていた。昨日の停滞を取り戻すように、家族そろって散歩なんかに出かけてみたが、爽やかなのは外見だけで、町はジトっと蒸し暑く、散歩も早々に切り上げた。

 その日の夜は例のレストランでディナーである。時間まで、今度は話題のアニメを見た。下らない、ありがちな内容だと高をくくっていたが、声優の演技が強烈で、不覚にも涙を流してしまった。両親はずっと足の指をいじっていて、別に何の感情も揺さぶられていなさそうだったので、僕はゴロゴロ寝転がる振りをして、枕で涙をぬぐった。


 時間になり、家族3人でのそのそとレストランに向かった。西日に照らされたドラッグストアの前で僕は靴ひもがほどけ、結び直した。そして立ち上がる際に、ドラッグストアの壁に手を付け、悲鳴を上げた。


「あら、虫。凄い量」


 母が僕ではなく、ドラッグストアの真っ白な壁を見ていった。白とは言ったが、壁を黒く塗りつぶさん勢いで、羽蟻がこびりついており、もっとくすんだ色に見える。僕の手にも、数匹引っ付いてしまった。軽く嗅ぐと、小学校のプールサイドみたいな匂いが微かにした。


「雨降った後、めっちゃ湧くって言うしねえ」


 父が首を回しながら、ふらふらと自動販売機の前まで行き、「うわあここも凄い」とはしゃいだ。母はうえ~と首をすぼめて、道を知らないはずなのに先頭立って歩き出した。


「雨で、湿度が上がったあと、羽蟻は新しい巣を求めて一斉に動き出すんだ」


 後ろで聞こえた父の解説に「へえ」と相槌を打つ。流石博識と思ったものの、振り返ると父はスマホを覗き込んでいた。どうも調べたようだ。


「普段から、これだけ潜んでるってことよねえ」


 いつの間にか、僕と列の前後を交代していた母が、事も無げに言った。




                      4



 婦人の大歓迎を受けて、窓際の席に腰を下ろした。この前は婦人がクロスワードをしていた場所だ。レストランの外観を見て、すごいねと(これまた事も無げに)呟いていた母は、ここにはよく来るの?と向かいの席の僕に聞いた。


「一回だけ、しかも最近来たんだ」


 でも美味いよ。と付け加えようとしてやめた。「いい店があるんだ」なんて、実際にはこっぱずかしくてできやしない。意外で、かつ有難かったのは、婦人が僕に対しアレコレ声をかけてこなかったことだ。

 ご予約ですねの一言くらいで、あとは、まるで一見さんかのように振舞ってくれた。注文は、父がポークソテーで、母が大いに悩んでのキノコグラタン。僕は本当は別なものを食べようと思っていたけれど、婦人の対応にあやかって、初心に戻ってクリームスパゲティを頼んだ。注文後は先ほどのアニメ映画を話題に挙げようとしたが、キャラクターの名前をド忘れしたのでやめた。無理に話題をひり出す必要もないほど、料理の前菜は早くに運ばれた。


 以前は湯向きトマトと軽いサラダが付いてきたが、今度はなんとすごい量の野菜に覆われたガレットが大皿に乗って出てきた。あまりのボリュームに母が慌てて「頼んでませんよ?」と言った。僕ら以外客のいない状態でそれはないと知りつつ、僕も初めはそう思った。

 婦人は「んー?」と少し悩んだようなリアクションを取り、母ではなく僕に、サービスですと微笑んだ。一見さんはあくまで表面的なもので、婦人は依然として、今回のディナーに浮足立っているのだとありありと伝わってきた。

 サービスという言葉に、母は「なんで?すごいね」と目を丸くしていたが、父はいそいそとナイフでガレットを切り分けだしていた。どうもこちらも相当はしゃいでいるようである。


 山盛りの粉チーズに覆われたガレットは見た目の薄さとは反比例してとてももっちりとしており、盛り過ぎに見えた野菜も口の中で程よくまとまっていった。みずみずしいレタスと、焦げ目がつくまで焼かれたカボチャがガレットとはまた違う豊かな感触を与えてくれて、美味しかった。

 でも、それが何による美味しさなのかは分からなかった。感触は楽しいが、レタスと水菜は生野菜同然で、カボチャもヤングコーンも特別な味付けをされているわけでなし。

 味わいながらも、自分が平衡感覚を奪われた状態で、この料理かあるいは婦人及びこの店そのものかに吞まれているのを感じた。それは実に愉快な迷い子だった。


 山盛りのガレットを分け分け、三人で夢中で食べた。次に深皿なみなみのコーンポタージュが来るころまで、何とか完食に間に合った。おお皿が下げられる時間いっぱいまで、父と僕とで名残惜しげに皿の端に残ったレタスの切れを片付けた。

 しかし、熱々のポタージュはメインまでにさらえられなかった。ポークソテーは何とも頼もしい品のある佇まいで、湯気を迎える父の顔も妙に得意げに見えた。

 でも、僕と母が互いにパスタとグラタンをシェアしているその輪に紛れないのは少し寂しそうだった。クリーミーの口にポークを迎えることはできない。「また来たら絶対食べるよそれ」と僕は言った。父は返事のかわりに、生ビールをグッと飲み干した。


 

                      5



 メインをあらたか食べ終えたところで、婦人がお冷を継ぎ直してくれた。その際に「足元の悪い中、ありがとうございますね」と愛想よく両親に頭を下げた。付け合わせのポテトフライをさらえていた父が、「外の」とだけ言って、視線をすぐそばの窓に向けた。


「外の、植物たちは……店主自らが育てられたんですか?」


 えらい意味のない質問だなと思った。しかし、父もそれを百も承知で尋ねていることは分かっていた。婦人のこちらと二、三談笑したいその雰囲気を機敏に感じ取ったのだろう。よく気の利く一方で、会話の話題が妙にズレているのが何とも父らしい。母も同じことを思ったのか、ニヤリと笑っている。


「お鉢の植物はそうですけれど、サンパラソルを育てたのは主人ですの。元は主人の、倉庫だったものを改築したんです」


「花が咲けば綺麗になりそう」


 「フーン」と鼻息を鳴らすのみだった父の代わりか、母がしみじみと言った。今はツタの一つ一つが青々とこそしているが、どこかしなびて見えて妙な寂しさがあった。僕個人としてはその寂寥感というかが、頭一つ雰囲気を良くしていたのだが。


「花が咲くのは……いつももう少し秋近くになってからなの」


 婦人はにこやかに言った。僕は両親に会話を任せ、すっかり冷めてぐちゃぐちゃに掻き回したプリンのようにドロドロ固まったポタージュを思いっきり傾けた。喉に直接塗るように、ゆっくり垂らし、べっとりとした旨味ごと呑み込んだ。口の中はパスタのクリームも相まって、ひどくべたついていた。今、淹れなおしてもらった冷やを飲めばさぞ美味いだろう。僕は、そうするのが、ポタージュスープを飲みきるうえでの当然の作法であるがごとく、素早い動きでコップを空けた。

 水は、予想に反して、一気にガブガブとは飲み干せなかった。一度に口に流し込み過ぎて溢れた。少しむせた。三小節ほど間を取って、口の中の水を喉奥に放流させた後で、舌の上にざらついた食感が残った。紙ナプキンで拭うと、そこには羽蟻がついていた。


 紙ナプキンの上で、ゾッとするほど羽蟻としての姿を保ったまま、それはへばりついていた。魚拓を取ったかのように見えた。僕は何故か見てはいけないモノを見た気になって、慌てて目線を上げた。しかし、その視線の先で婦人とはっきり目が合ってしまった。今まで、僕がスープを飲み干し、水を飲み干し、羽蟻を吐き出すまで、婦人は両親とどんな会話をしていたのか分からない。少なくとも目の前の婦人は、今までジッと僕を観察していたとしか思えないほど、時が止まったような表情で僕を見ていた。僕が見合ったのはそんな視線だった。


「大丈夫ですか?」


 婦人が僕に近づいてきて、そう言った。母も同じように視線をよこしたが、別に何でもないと判断したのか、水を飲んでいる。


「全然、はい…大丈夫です」


 そう返したが、大丈夫の部分は「虫」という婦人の声にかき消された。「ごめんなさい。ごめんなさいね」と婦人は続けた。今度は僕のリアクションを待つこともせず、せっかくのご夕飯なのにと静かに漏らした。


 僕はもう一度、大丈夫ですと言った。両親は何も言わず、各々皿の上に残った料理をさらえている。僕もそれに倣って、間を持たそうとしたが、既にレタスの欠片も残ってはいなかった。婦人は、「雨だわ夕べの雨」とブツブツ言いながら、すぐ横の窓辺に行った。そして悲鳴を上げた。


「ひどい虫!!大変です。ああもう…今更だけども、コーヒーは奥の席で召し上がって!」


 バタバタと通路を行ったり来たりしながら婦人はそう言い残し、厨房に戻った。僕は「大丈夫です」と言ったが、両親は速やかに荷物をまとめて席を移る準備をしていた。母が僕の眼を見て、「行こう」とだけ言った。声は僕を慮るニュアンスで、少しホッとさせてくれた。

 父は好奇心に耐えられなかったのか、窓を見に行った。今度ははしゃぐことなく、ショルダーバックを脇で挿んだ状態で、そそくさと移動した。


 適当に移った席にコーヒーが運ばれた。婦人は僕らの誰とも顔を合わさず、すぐに厨房へ戻っていった。角砂糖入れには例によって九谷焼が用いられていた。再開した北斎漫画の人々はよく見れば悲しそうな顔をしているようにも見えた。僕は、コーヒーの温度を下げるため、普段は入れない角砂糖を混ぜた。コーヒーの温度はちっとも変わらず、僕はおっかなびっくりすするように飲んだ。


 コーヒーが半分ほど減ったころ、何かが窓をガンガンと叩く音がした。見ると、婦人が掃除機を窓にあてがっていた。窓の部分を覆っている蔦は取り払ったのだろう。窓越しでも、婦人の必死の形相を確認できた。城の門を丸太で打ち破るように、ガンガンガンガン、掃除機をぶつけ続けている。


 「手に、手についた蟻だよ。気にしないでいいのに」


 僕は言った。母が「うん」とだけ返した。そこからコーヒーを飲み終わるまで、僕らに一切の会話は無かった。途中、父がトイレに行った。コーヒーの香りの奥で、トイレの芳香剤らしき臭いが微かにした。ラベンダーの甘ったるい香りと共に、コーヒーを飲み干した。底に、溶け切っていなかった砂糖が随分残った。

 両親は、明日、早朝に帰る。

 

 

 

 

読んでいただきありがとうございました。

次回は9/6更新です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。