⑤ 一方、現実では。
今日のはギャグ回です
レイナが目を開けたとき、最初に感じたのは温度だった。
布団が、重い。やわらかい。温かい。そしてその温かさが、自分だけのものじゃない。
レイナはゆっくり首を動かした。
暗い部屋。見慣れない天井。窓の外から、遠く車の音。
そして。
隣に、人がいた。
男だ。穏やかな寝顔。静かな寝息。こちらに向いて、少し丸まって眠っている。
レイナの心臓が、どくりと鳴った。
叫ばなかった。叫びそうになったけど、ぐっと堪えた。長年の訓練が、最悪の場面でも表情を殺すことを体に染み込ませていた。でも、内側では完全にパニックだった。
(ここは、どこ)
天井を見る。安い白い天井。館じゃない。フローラ・ミラージュでもない。
(花凛の世界だ)
以前、花凛の部屋に来たことはある。鏡越しに、指文字で話したこともある。でもその時は、この男はいなかったし部屋を探索した。
奇妙な形の小さい板とこじんまりした部屋以外はレイナの世界とあまり変わらないような気がしていた。
あの時ノートに言葉を残すのに
こちらの文房具を使ったが、使い方が
よくわからなかった。
四苦八苦したが上のバネを押すと
鉛筆の芯のようなものが出る。
……少しだけ感動した。
そんなことを思い返しながらレイナはそっと布団をめくり、指先で己の手を確認した。花凛の手だ。爪に薄くマニキュアが塗ってある。淡いピンク。
(趣味が出てる)
今はそんなことより。
隣の男が、寝息を立てながら少し動いた。レイナは石になった。
男は目を開けなかった。ただ、眠ったまま手を伸ばしてきて、花凛の、つまりレイナの手の甲にそっと触れた。確かめるような、ごく自然な仕草だった。
(なに、これ)
レイナの顔が、ものすごい速度で熱くなった。
生まれてこのかた、誰かとこんな距離で眠ったことがない。館では常に独室だった。警戒して当然の環境で育った。肌に触れてくる人間は、大抵ろくでもない意図を持っていた。
なのにこの人は、ただ眠っていて、ただ手を伸ばしただけだ。悪意がない。完全に。それがかえって、レイナには対処できなかった。
(花凛。早く戻ってきなさい)
心の中で叫ぶ。当然、返事はない。
男の寝息が、また静かに続く。レイナは天井を見上げたまま、びた一文動けなくなった。窓の外が、少しずつ白みはじめていた。
⸻
夜が、少しずつ明けていった。
レイナは結局、一秒も眠れなかった。眠れるわけがない。見知らぬ部屋で、見知らぬ天井を見つめて、隣に見知らぬ男がいる。しかもその男は時折寝返りを打つたびに距離が縮まって、そのたびにレイナの心臓が跳ね上がった。
館での訓練は、こういう状況を想定していなかった。
(花凛。あなた、毎晩こんな状況で眠っているの)
信じられない。
窓の外が白んでいく。鳥の声がした。現実の世界の朝は、向こうより音が少ない。静かなのに、どこか生活の匂いがする。
隣の男の寝息が、少し変わった。浅くなっている。
起きる。
レイナは気づいた瞬間、どうするべきか全力で考えた。寝たふりをするか。先に起きるか。起きたとして何を言うか。花凛のふりができるか。花凛はこの人とどんなふうに話すのか。何も分からない。情報が少なすぎる。
男がゆっくり目を開けた。天井を一秒見て、それからこちらへ顔を向けた。眠そうな目だった。穏やかな、まだ夢の続きにいるみたいな顔。
「……おはよ」
低い、寝起きの声。
レイナは固まった。
(おはよ、と言えばいい。それだけでいい。簡単なことだ)
「…………おはよ」
声が少し低くなった気がした。花凛の声のはずなのに、レイナが使うと微妙に音が違う気がする。
男は気づかなかった。ただ、眠そうに目を細めて、また少し目を閉じた。
よかった。レイナが息をついた、その瞬間だった。
男が、ごく自然に、何の予告もなく、顔を寄せてきた。
(え)
考える間もなかった。柔らかくて、温かくて、ほんの一瞬だけ。朝の、当たり前みたいなキスだった。
レイナの頭が、真っ白になった。
と、同時に。何かがぐっと押し上げられる感覚があった。鏡の向こうから、誰かが勢いよく戻ってくるみたいな。
あ、まずい、とレイナが思った瞬間には、もう遅かった。
⸻
花凛が最初に感じたのは、唇の温もりだった。
「……ん」
目を開けると、蒼くんの顔が目の前にあった。
「おはよ」
蒼くんが、いつも通りの顔で言った。
「……おはよ」
花凛は一秒かけて、状況を把握した。自分の部屋。自分のベッド。隣に蒼くん。朝。戻ってきた。
「どしたの、ぼーっとして」
「……なんでもない」
花凛は天井を見た。レイナが、ここにいたんだ。この部屋で、蒼くんの隣で、一晩過ごした。
「ねえ、蒼くん」
「ん?」
「昨夜、わたし変じゃなかった?」
蒼くんが少し考えた。
「寝てたじゃん、ずっと」
「そっか」
「なんか夢でも見た?」
「……まあ、そんな感じ」
花凛は布団の中で、そっと手を握った。
レイナ、と心の中で呼びかける。ご苦労さま。
返事はない。でも、どこかで気まずそうにしている気配だけがした。
蒼くんが伸びをして、起き上がった。
「コーヒー淹れるね」
「ありがと」
その背中を見ながら、花凛はひとりで少しだけ笑った。レイナが蒼くんにキスされた。絶対に今頃、向こうで死にそうになってる。
⸻
コーヒーの香りが部屋に広がりはじめた頃、花凛はそっとスマホを手に取り、メモアプリを開いた。
【レイナ、起きてる?】
書いてから、鏡の前に立った。
映っているのは、寝起きの自分だ。くせっ毛が爆発している。
鏡に向かって、メモ帳を掲げた。
【蒼くんのこと、どうだった?】
一秒。二秒。
鏡の中の表情が、ほんの少しだけ変わった。目が、細くなった。明らかに不本意そうに。
花凛は口元が緩むのを堪えた。メモ帳をめくって、次のページに書く。
【キスされたとき、どんな顔してたの】
鏡の中の目が、ぐっと険しくなった。完全に怒ってる。
花凛は耐えきれなくなって、布団に顔を突っ込んで笑った。声を殺しながら、肩が震えた。
ひとしきり笑ってから、顔を上げてまた鏡を見る。レイナはまだそこにいた。不機嫌そうに、でも消えずにいる。
花凛は少しだけ表情を戻して、書いた。
【ごめん、からかいすぎた。でもありがとね。助かった】
鏡の中の表情が、少しだけ緩んだ。ほんの少しだけ。気を抜いたら見逃すくらい。
花凛はもう一行書いた。
【蒼くん、いい人でしょ】
今度は答えなかった。でも、鏡の中の目が、ほんのわずかに逸れた。
否定しない、ということだ。
花凛はメモ帳を閉じた。レイナが蒼くんのことをどう思ったか、なんとなく分かった気がした。悪意がないってことに、あの子は慣れていない。だから対処できなかった。怖いもの知らずに育ったんじゃなくて、優しさに免疫がないんだ。
そう思ったら、からかった自分が少し申し訳なくなった。
「コーヒーできたよ」
蒼くんが呼んでいる。
「いく」
花凛は鏡にもう一度だけ目をやった。もう、レイナはいなかった。ただの朝の自分が映っている。
花凛はくせっ毛を手で適当に直して、キッチンへ向かった。
テーブルの上に、コーヒーが二つ。蒼くんが向かいに座って、スマホを見ている。いつも通りの朝だ。
なのに今日は、その景色がいつもより少しだけ大切に見えた。レイナが一晩、ここを守ってくれたから。
花凛はコーヒーを一口飲んだ。
「美味しい」
「いつも通りだけど」
「いつも通りが美味しいんだよ」
蒼くんが、ふっと笑った。花凛もつられて笑った。
向こうの世界には、こういう朝がない。綺麗で、華やかで、息が詰まるくらい濃い世界。でも、コーヒーを淹れてくれる人がいない。
どちらも本物だと、今はそう思う。どちらも、失いたくない。




