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眠るたび異世界の少女と入れ替わる服飾学生は、滅びかけた都を繕う  作者: 魔法使いアリッサ
第二章 綴りの夜

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8/22

④縫い直す夜

 廊下に出ると、夜の空気がひやりと頬に触れた。

 ユリウスが一歩前を歩く。花凛はその半歩後ろを、レイナの薄紫の寝間着の裾を押さえながらついていった。


 昨夜と同じ回廊なのに、今夜は人の気配が少ない。遠くで誰かが扉を閉める音がして、それきり静かになった。


「緊張しているか」

 

ユリウスが前を向いたまま言った。


「してる」


「正直だな」


「嘘ついても仕方ないし」


 ユリウスは何も言わなかった。でも、歩く速度がほんの少しだけ緩んだ気がした。


 塔が見えてきた。夜の庭園の向こうに、黒い影のようにそびえている。昨夜見たときより、なぜか小さく見えた。近づいているのに。


 いや、違う。


 花凛は目を凝らした。塔のまわりの空気が、昨夜と違う。昨夜はあれだけ張り詰めていたのに、今夜はどこか……くたびれている。布で言えば、何度も洗いすぎてへたってしまった感じだ。


「悪化してる?」


「昨夜よりは落ち着いている。ただ、時間の問題だ」


 塔の入口には、すでに人が集まっていた。学者風の老人が三人。昨夜も見た顔だ。それから女官が二人、兵士が一人。そして一番奥に。


 深い紫の着物に、ロココ調のコルセットを重ねた衣装。艶やかな黒髪。刃物のような目。


 セレスティアだった。昨夜と同じ装いなのに、今夜は扇を持っていない。その分だけ、かえって隙がない。


「来ましたね」


 呼びかけは花凛ではなく、ユリウスへ向けられた。 


「準備はできています。ただし」


 セレスティアの視線が、するりと花凛へ移る。

 

「途中で手を止めるなら、最初から触れないでください。中途半端な綴りは、無いより悪い」

 

「分かってる」 


 花凛は言い返した。思ったより声が出た。セレスティアの眉がわずかに動く。 


「では、どうぞ」

 塔の内部は、昨夜より暗かった。


 円形の吹き抜けに垂れ下がる布が、今夜は光をほとんど放っていない。白銀、淡青、薄紫、灰桜。夜の色を集めて織ったみたいな長布が、ただ重たく沈んでいる。


 裂け目は、昨夜より広がっていた。黒い染みが、じわじわと隣の布へにじみ出しかけている。


 花凛は糸の箱を抱えたまま、裂け目の前に立った。


 背後で、全員が息を潜めている気配がした。学者の老人たちの視線。女官たちの緊張。ユリウスの静かな目。そしてセレスティアの、何も見逃さない観察眼。全部が、花凛の背中に刺さっている。


 逃げたい、と思った。でも布は待ってくれない。

 花凛は箱を開け、月の裏側みたいな糸を取り出した。指先に触れた瞬間、じんと温かくなる。


 息を吸う。まず、裂け目を観察する。昨夜は咄嗟だったから、感覚だけで縫った。今夜はちゃんと見る。布の織り目の流れ。元の糸がどこからほどけ始めているか。補修の跡がどの方向に力を引っ張っているか。


 指先で、そっと端をなぞる。

 糸が、鳴いている。


 昨夜と同じだ。一本一本が張り詰めて、悲鳴を上げている。でも今夜は、もう少し細かく聞こえる。


どこが限界で、どこにまだ余裕があるか。どの糸が本来の流れを覚えていて、どの糸がもう方向を失っているか。


「……ここじゃない」

 花凛は呟いた。


「え?」

 老人のひとりが声を上げる。


「裂け目の端から縫い始めたら、また同じことになる。元の流れを探してから、そこに合わせて糸を通さないと」


「しかし、時間が」


「急いで変な方向に縫ったら余計に時間がかかる」


 言い切ってから、花凛は少しだけ怖くなった。こんな強い言い方、していいのか。でも、間違いじゃない。


 後ろでセレスティアが微かに息を吐いた音がした。否定ではない。たぶん。


 花凛は布の表面をゆっくり手のひらで辿った。目を閉じる。


 服を縫うとき、花凛はいつも布の声を聞こうとしてきた。この布はどっちへ流れたいか。この糸はどこで曲がりたいか。素材によって、ちゃんと癖がある。それを無視して縫うと、着たときに歪む。


 封印布も、同じだ。元の流れがある。それを探す。


 手のひらの奥で、何かがかすかに震えた。

 ここだ。


 花凛は目を開けた。裂け目から少し離れた場所、一見なんでもない布の継ぎ目に、指先を当てた。


「ここから」


「そこは裂けていませんが」


「裂けてないけど、流れが変わってる。ここで一回、元の方向に戻してやらないと」


 老人たちが顔を見合わせる。ユリウスは黙ったままだ。でも、止めない。


 花凛は銀の針を持った。指が震える。心臓がうるさい。なのに別の部分は、奇妙なほど落ち着いて、構造だけを見ていた。


 一針。糸が、すうっと布に吸い込まれる。待っていたみたいに。


 二針。黒い染みの広がりが、ほんの少しだけ鈍った。


 三針。老人がひとり、小さく声を上げた。「流れが……」


 花凛は聞こえているけど、止まらない。

 縫いながら、思う。

 守りたいもの。意味。強く思うだけで、糸は受け取る。


 じゃあ何を思えばいいんだろう。封印塔が何を封じているか、花凛はまだ知らない。レイナが何をしたのかも、全部は聞いていない。この世界がなぜ作られたのかも。


 分からないことだらけだ。でも、ひとつだけ分かることがある。


 この布は、ずっと頑張ってきた。

 何十年か、何百年か知らない。誰にも直してもらえないまま、補修の跡で歪みながら、それでもここに張り続けてきた。


 花凛はそれを思いながら、針を動かした。

 お疲れさま、とは少し違う。でも、もう少しだけ、持ちこたえて。


 そういう気持ちで、糸を通した。


 四針。五針。六針。


 裂け目の端が、少しずつ寄っていく。黒い染みが、端から薄れていく。


 花凛の手のひらが、熱い。痛いわけじゃない。でも、糸を通すたびに、何かが流れ込んでくる感覚がある。重い。苦しい。長い時間の重さみたいなものが、指先を伝ってくる。


 歯を食いしばる。手を止めたら、また死ぬ。布じゃなくて、自分がそう思った。


 最後の一針を抜いた瞬間、塔全体がふっと息を吐いた。


 淡い青白い光が、吹き抜けをゆっくり上っていく。長布が、かすかに揺れる。昨夜より静かで、昨夜より深い光だった。


 黒い染みは、消えていた。完全にではない。薄く、名残りのように残っている。でも、広がることをやめた。


 静寂が落ちる。


「……終わった」


 声が掠れた。誰も、すぐには喋らなかった。

 最初に動いたのは、老人のひとりだった。震える手で眼鏡を直しながら、呟く。


「綴りだ……本物の綴りだ」


 次いで、女官たちがざわめく。兵士が息を呑む。

 ユリウスが、花凛のそばに寄ってきた。


「立てるか」


「立ててる」


「顔色が悪い」


「そう?」


自分では分からなかった。ただ、少し遠い気がした。


 セレスティアが前に出た。その顔から、昨夜の棘が消えていた。完全にではない。でも、最初に見たときの刃物みたいな冷たさが、少しだけ違う温度に変わっている。


「……見事でした」


 短い言葉だった。それだけだった。でも花凛には、それで十分だった。


「次も、頼めますか」


 セレスティアの問いに、花凛は少しだけ考えた。でもたぶん、もう選べない気がする。糸を通した瞬間から、この布と自分のあいだに、何かが通ってしまった。


「……やる」


 短く答えると、ユリウスが静かに花凛の隣に立った。言葉はなかった。ただ、そこにいた。


 長布が、夜風にゆっくり揺れている。光はまだ、塔の中に残っていた。

 部屋へ戻る道は、行きよりずっと遠く感じた。

 花凛は黙って歩いた。足は動いているのに、頭だけがどこか遅れている。塔の中に置いてきてしまったみたいだった。


 ユリウスも喋らなかった。ただ、花凛の歩く速度に合わせて、半歩隣を歩いていた。昨夜は半歩前だったのに、と花凛はぼんやり思った。


「ユリウス」


「なんだ」


「あの布、また綻びる?」


「……おそらく」


「どのくらいで」


「早ければ、次の満月までには」


 花凛は少し考えた。


「根本を直さないといけないんだよね」


「ああ」


「根本って、何」


「封じられているものを、正しく封じ直すことだ」


「今は正しくない封じ方をしてるってこと?」


「元々の綴りが、途中で別のものに上書きされている。だから布が歪む」


 上書き。花凛の脳裏に、補修跡の固い糸が浮かんだ。


「誰がやったの」


「まだ言えない」


 また、まだ言えない。花凛は少しだけ息を吐いたが、今夜は責める気力もなかった。


 部屋の前まで来たところで、ユリウスが足を止めた。


「今夜はよく休め」


「うん」


「……よくやった」


 最後の一言は、ほとんど独り言みたいな声だった。


 花凛は振り返らなかった。でも、扉を開ける前に小さく言った。


「ありがと」


 返事はなかった。でも、廊下の気配が少しだけ柔らかくなった気がした。

 部屋に入ると、ミモザが待っていた。


「お帰りなさいませ! お怪我は……」


「ないよ」


「よかった……本当に、よかったです」


 ミモザの目が少し赤い。泣いていたのかもしれない。


 花凛はその顔を見て、胸の奥がじんとした。レイナのことをずっと心配してきた子なんだと、改めて思う。自分はその場所に、知らないまま立ってしまっている。


「ミモザ」 


「はい」


「レイナって……どんな子だった?」


 ミモザの表情が、かすかに揺れた。嬉しいのか、悲しいのか、それとも両方なのか、うまく読めない。


「……怖い方でした」


 やがて、静かにそう言った。


「怖い?」


「いつも正しくて、いつも真っ直ぐで。間違えないし、曲がらないし、弱音も言わない。そういう意味で、怖かった」


 少し間があって、ミモザは続けた。


「でも、ときどきだけ、すごく遠くを見ているような顔をしていました。誰にも届かないところを、ひとりで見ているような」


 花凛は何も言えなかった。鏡廊で見たレイナの横顔が、ふと浮かんだ。真っ直ぐで、きつくて、どこか脆そうな。


「……そっか」


「レイナ様は、今どこに」


 花凛は少しだけ迷った。


「ちゃんといるよ。遠くないところに」


 嘘じゃない。たぶん。


 ミモザは頷いて、布団を整えてくれた。花凛はベッドに横になりながら、天井を見た。薄紅の天蓋が、夜風にゆっくり揺れている。


 向こうでは今、蒼くんがいる部屋で、蒼くんの隣で、誰かが眠っている。


 花凛はそれを思いながら、静かに目を閉じた。


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