③ 綴り
ミモザが盆を置いたあと、何気ない口調で言った。
「今日は鏡の間へ行かれるかもしれません。セレスティア様が、昨夜の件で確認が必要だとか」
花凛の指先がぴくりと動く。鏡廊。鏡の間。名前は少し違うが、無関係とは思えない。
「それと」とミモザが続ける。「レイナ様は、鏡に嫌われてはいませんから。あまり怖がらなくても大丈夫ですよ」
花凛はふっと顔を上げた。嫌われていない。それは、深く関わっているとも取れる言い方だ。
ミモザは特別な含みを持たせたわけではないように見えた。ただ館の者として知っていることを口にしている。だから余計に難しい。
この子は何かを企んでいるわけじゃない。ただ、ここで育って、ここで働いて、この館の空気のなかで息をしている。
そうして自然に見聞きしたことが、別の誰かの耳へ届いていく。本人の意思とは別のところで。
可愛い。柔らかい。よく気がつく。たぶん悪い子ではない。けれど、だからといって何もかも安心して話していい相手とも限らない。それが、この館の息苦しさなのかもしれない。
そのとき、扉がまた開いた。
「起きているか」
ユリウスだ。今日は深い藍色の着流しに近いものを着ている。それでも立ち姿はいつも通り、どこかを常に監視しているような目だった。
ミモザがぺこりと一礼し、静かに部屋を出ていく。その背中を見送りながら、花凛は息をついた。
机の上に、細長い黒漆の箱が置かれていることに気づいたのは、そのあとだった。
「昨夜の礼だ。セレスティアが置いていった」
箱を開けると、糸が一巻き入っていた。
白でも銀でもない。月の裏側みたいな、ほんの少しだけ青みがかった白。触れる前から、静かな何かを帯びている気がした。指先で触れた瞬間、手のひらがじんと温かくなる。
「封印布の元糸だ」
「知ってる。昨夜縫ったとき、この感触に似たものがあった」
ユリウスの目が細くなった。
「なぜ分かる」
「布が鳴いてた。苦しそうに」
少しの沈黙があった。
「ユリウス、聞いていい」
「なんだ」
「綴りって、どうやるの」
ユリウスが窓の外に目をやる。夜がゆっくり開け始めていた。
「糸に意志を込める。織るとき、または縫うときに、守りたいものや意味を流し込む。言葉じゃなくていい。強く思うだけで、糸は受け取る」
「……わたし、昨夜もしかしてそれやってた?」
ユリウスは答えなかった。でも、否定もしなかった。
「綴りを知る者は、今この国にいない。だから封印布は誰にも直せなかった」
「レイナは知ってたんでしょ」
「ああ」
「だから、封印に関わってたの」
「レイナが何をしようとしていたかは、まだ言えない」
「なんで」
「君を、必要以上に巻き込みたくないからだ」
花凛は少し考えて、言った。
「もう十分巻き込まれてる。それより、巻き込まれたまま何も知らないほうが怖い」
ユリウスがこちらを見た。その目に、何かが揺れた気がした。責任感でも警戒でもない、もっと個人的な疲れに近い何か。
「……少しずつなら、話せる」
「うん」
「今夜、塔へ行く。その前に、ひとつだけ」
ユリウスは短く息を吸った。
「レイナは、この世界がどうやって作られたのかを知ろうとしていた。そのために、触れてはいけない場所に踏み込んだ。鏡の、奥だ」
花凛の背中が、ひやりとした。
昨夜、鏡廊でレイナと話した。あの目の奥。
「レイナは今、どこにいるの」
「鏡の中と、君の身体の間。どちらにも完全には戻れない状態だ」
窓の外で、遠く朝の鐘が鳴り始めた。昨日は異変を告げる不吉な音に聞こえたそれが、今朝はまるで幕開けの合図みたいに響く。
花凛は枕の下の鏡片の感触を確かめた。
封印布を縫い直すこと。レイナが踏み込んだ鏡の奥のこと。この世界がなぜ作られたのか。全部が、糸のように繋がっている。まだ端しか持っていない。
でも、手の中にある。
「……塔、行こう」
花凛は立ち上がった。
ユリウスが、かすかに目を瞬かせた。
「ああ」
短い返事だった。でも、昨夜より少しだけ、重さが違った。
ランキング3位も上がって213位でした!!
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