②鏡廊
夜が来た。
風呂に入り、髪を乾かし、細々したものを整える。日常の手順をひとつずつ踏むたびに、現実の自分へ杭を打っていくみたいな気持ちになる。そうでもしないと、気を抜いた瞬間に向こうの空気が滲んできそうだった。
蒼くんは先に眠っていた。規則正しい寝息。丸まって、ごく自然に眠っている。
花凛はしばらくその寝顔を見ていた。
昨夜もここにいたのに、全然違う場所で目が覚めた。今夜もそうなるのかもしれない。
ノートの端に走り書きする。
糸の話、聞く。全部は信用しない。でも聞く。
ペンを置いて、目を閉じる。
甘い花の香りを待ち構えていたのに、鼻先をかすめたのは水を打った石みたいな冷たい匂いだった。
驚く間もなく、視界がふっと暗転する。
沈むというより、鏡面へ吸い込まれるような、つるりとした冷たさがある。世界の縫い目が裏返る、あの感覚。でも今夜は少し違った。
⸻
目を開けたとき、花凛は寝台の上ではなく、薄暗い部屋の中央に立っていた。
床も壁も、磨かれた黒い石でできている。窓はない。代わりに、部屋じゅうの壁面に大小さまざまな鏡が埋め込まれていた。円い鏡。細長い鏡。手鏡ほどの小さなものから、人ひとりをまるごと映せる大鏡まで。どれも枠の意匠が違っていて、銀、金、木、真珠色の装飾が暗がりのなかで鈍く光っている。
鏡の間だ。
そう直感した瞬間、ひゅっと喉が詰まる。
「遅い」
声がした。
部屋の奥、一番大きな鏡の前に、ひとりの少女が立っていた。
薄い藤色のドレスとも小袖ともつかない服。腰まで流れる黒髪。白い肌。少し気の強そうな目元。花凛と同じ輪郭を持っているのに、纏う空気がまるで違う。
自分の写し身というより、自分のほうが似せて作られたみたいに思えるほど、その少女は完成して見えた。
「……レイナ」
「やっと名前を覚えたのね」
「そっちが勝手に人の身体使ってるくせに、偉そう」
「あなたも使っているでしょう」
即座に言い返され、花凛は言葉に詰まる。たしかにその通りだった。
「……わざとじゃないし」
「わたしだってそうよ」
棘がある。けれど怒鳴るというより、ずっと気を張ってきた人の鋭さだった。
花凛は一歩だけ近づいた。
「聞きたいことがある」
「たくさんあるでしょうね」
「まず、なんでわたしに鏡を見ろって書いたの」
レイナは答えず、背後の大鏡を指先で撫でた。その表面には花凛の姿もレイナの姿も映っていない。
代わりに、深い水の底みたいな揺らぎだけがある。
「ここは鏡廊。境目がいちばん薄い場所よ。寝台ではうまく話せない。あそこは誰かの気配が多すぎるから」
「見張られてるってこと?」
「ユリウスだけじゃない。この館では、誰も彼もが誰かを見ている。見張って、疑って、役目を押しつけて、それで均衡を保ってる。壊れかけの家具を無理やり立たせてるみたいにね」
花凛は息を呑んだ。
壊れかけ。昨夜結界布に触れたときの感触と、ぴたりと重なる言葉だった。
「封印塔だけじゃないんだ」
「ええ」
レイナは花凛を見た。
「あなた、もう触ったのね。あの布に」
その瞬間、花凛は少し身構えた。責められると思ったのだ。けれどレイナは怒らなかった。
「……助かったわ」
小さく、しかしはっきりそう言った。
「え」
「勘違いしないで。感謝しているわけじゃない。ただ、あれが切れたらもっと面倒なことになっていた」
「そこ、素直にありがとうでよくない?」
「言ったでしょう。勘違いしないで」
思わずむっとしたが、そのやり取りが妙に普通で、逆に少しだけ緊張がほどけた。
レイナは花凛と同じ顔をしているくせに、花凛よりずっと真っ直ぐで、きつくて、どこか脆そうだった。同じ布から別の型紙で裁たれたみたいな違いがある。
「ねえ、教えて。わたしたち、なんで入れ替わってるの」
鏡廊の空気が少し張り詰めた。
「まだ全部は分からない」
レイナはしばらく沈黙してから言った。
「でも、鏡と糸が関係している。あなたとわたしは最初からまったく無関係だったわけじゃない。たぶん、もっと前から、どこかで縫い合わされていた」
「縫い合わされてた……?」
「偶然じゃない。切れていたはずのものが、今になってまた引き寄せられている」
謎ばかり増える。けれど完全な意味不明ではなくなってきた。鏡と糸。入れ替わり。結界布。どれも同じ大きな何かの一部だ。
「レイナは、何をしたの」
その問いに、今度はレイナの表情がはっきり曇った。
「わたしは、この世界がどうやって作られたのかを調べていたの」
「世界が、作られた?」
「館も、塔も、結界布も、住んでいる人たちも、みんな自分の役目を当然みたいに着せられている。けれどときどき縫い目が見えるの。誰かがあとから継ぎ足したみたいな、不自然な綻びが」
花凛は昨夜の塔の裂け目を思い出した。元の流れを無視して上から固い糸で押さえつけた補修跡。見た目だけ整えて、中で無理が起きていた布。
都そのものが、似たような壊れ方をしている。自分が感じた違和感は、間違いではなかったのだ。
「それを調べたら、罪人扱いされたってこと?」
「触れてはいけないものに触れたから」
「何に?」
花凛が問うと、レイナは少しだけ躊躇した。その瞬間、鏡廊の奥の小さな鏡が一斉にかすかに震えた。
しゃらり、と鈴のような音が鳴る。
レイナの顔色が変わる。
「時間がない。誰かがこちらを探ってる」
「えっ」
「よく聞いて。次に向こうで鏡を見るとき、映ったものを信じすぎないで。鏡は通路だけど、嘘も映す。記憶も願いも、混ざるの」
「ちょ、待って、それだけじゃ」
「それと」
レイナは花凛の手のひらに、何か小さなものを押し込んだ。冷たくて、硬い。
「ミモザは悪くないわ。でも、あの子の前では何も見せないで。あの子が見たことは、あの子の意思と関係なく館の中を流れることがある」
「どういう――」
大鏡の表面が水面みたいに激しく波打った。足元がぐらりと揺れる。遠くで誰かの声がした気がした。
「レイナ!」
「次は早く来て」
それだけを残して、レイナの輪郭が砕けるように消えた。
⸻
花凛がはっと目を開けると、薄紅の天蓋が見えた。
息が荒い。胸が痛い。寝て目覚めたというより、通路の途中で叩き出されたみたいな感覚がある。
手を握りしめたままだったことに気づき、恐る恐る指を開く。
そこには、小さな銀の鏡片がひとつ乗っていた。爪の先ほどの欠片。なのに、表面には淡い光が宿っている。
持ってきてしまった。いや、レイナから渡されたのだ。
「レイナ様……?」
戸口の向こうから、控えめな声がした。ミモザだ。
さっきレイナに言われた言葉が、胸の奥によみがえる。
『ミモザは悪くない。でも、あの子の前では何も見せないで』
花凛は反射的に鏡片を握りしめ、枕の下へ滑り込ませた。
「お目覚めでしょうか。朝のお支度を……」
「……入っていいよ」
扉が開く。桃色の髪を結い上げた小柄な少女が、盆を手に現れた。昨日と同じ、可愛らしいフリル付きの和装エプロン。
見慣れた姿に見えるのに、花凛のほうだけが少し変わってしまったみたいだった。
ミモザは花凛の顔を見るなり、心から安心したように笑った。
「昨夜はよくお休みになれましたか?」
その笑顔に嘘があるようには見えない。たぶん本当に心配してくれているのだと思う。だからこそ花凛は少し困ってしまう。疑いたくない。でも、何も知らないままでもいられない。
「……それなりに」
なんかランクインしててびっくりしました、、、!!
ありがとうございます!!!




