①鏡の裏側
朝の光は、嘘をつかない。
次に花凛が目を覚ましたとき、見えたのは薄紅の天蓋ではなく、見慣れた自分の天井だった。
「……戻った」
声は掠れていた。喉だけじゃない。もっと深いところから、何かが擦り切れたみたいな音だった。
しばらく、体が動かなかった。
天井のしみを目で辿る。あそこに染みがあるのは、去年の台風のせいで雨漏りが少しあったから。
ほら、知ってる。ちゃんと自分の部屋だ。
枕元にはタブレット。机の上には開きっぱなしのノート。床には裏返しの靴下。
何もかも、昨夜のまま。
なのにどうして、帰ってきたという感じよりも、置いてきたという感じの方が強いんだろう。
花凛はゆっくり上体を起こした。窓の外は白く霞んでいて、朝なのか昼なのかもよくわからない。身体はちゃんと重い。頭も、ちゃんと痛い。現実だ。
それでも、胸のざわつきはすぐには消えない。
封印塔。
結界布。
ユリウス。
そして、あの少女。
名前も知らない、小さな手と、怖いような、縋るような目。
全部夢だったと言い切るには、手のひらに残る感触が生々しすぎた。
花凛はそっと右手を開く。
そこには何もない。傷も、糸も、針もない。指先も、爪の際も、いつもどおりだ。
なのに確かに、あの布を縫ったときの重さだけが残っている。針が布を貫くたびに感じた、微かな抵抗。糸が締まるときの、一点に集まってくる静かな力。
縫い物をしているとき、花凛はいつも考える。布は繋ぐためにある、と。
あの世界でも、それは同じだったのだろうか。
机の上のノートへ目をやる。
昨夜、閉じたはずのページが開いていた。
そこには、花凛の字ではない、細く整った文字が一行だけ記されていた。
『つぎは鏡を見なさい』
ノートごと、誰かに触れられた。それだけは確かだ。でも怖いとは思わなかった。恐怖より先に、腑に落ちる感覚があった。
次がある。
ただ巻き込まれたのではなく、たぶんもう、引き返せないところまで糸が通り始めている。自分の意志で握った針で、自分の手で縫った糸で。
花凛は深く息を吐いて、視線を窓に移した。
現実ではコンテストの締切が待っている。提出できていないパターン。見直せていない縫い代。指導教員へのメール。
向こうでは、あの壊れかけた塔と、美しいのにどこか息苦しい世界が待っている。
どちらも、逃げていい理由にはならない。
花凛は無意識に、枕元のタブレットの角を撫でた。スリープ状態の画面には何も映っていないけれど、中にはこっちの世界で書き留めたアイデアがぎっしり詰まっている。
切り替えの角度。裏地の素材。ファスナーの隠し方。見栄えのためではなく、動きやすさのためのパターン。
お守りになる服。
守るための布。
見た目だけじゃなく、
人がちゃんと息をして、生き延びるためのもの。
もしあの世界が本当に、
そういうものを必要としているのなら。
そしてもし、
自分に少しでも縫えるものがあるのなら。
―――あるでしょ、と、心の奥の小さな声が言った。知ってるくせに、と。
花凛は小さく息を吸って、ベッドから足をおろした。フローリングの冷たさが足の裏を刺す。それが妙に、ありがたかった。
「……鏡、ね」
その声はまだ少し震えていたけれど、昨夜よりも確かに、芯があった。
鏡は、すぐそこにある。
でもその前に、と花凛は部屋を出た。
廊下は静かだった。リビングを抜けてキッチンに入ると、シンクの横に、見慣れたマグカップが一つ伏せて置いてあった。花凛のものより一回り大きい、紺色のやつ。同棲を始めてから、いつもここにある、蒼くんのカップだ。
昨夜、出張に出る前に洗って置いていったんだ、と思ったら、少しだけ肩の力が抜けた。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して、自分のコップに注ぐ。一口飲む。冷たくて、ちゃんと苦い。
現実だ。
キッチンにはまだかすかに、昨夜の夕飯の匂いが残っていた。たぶん蒼くんが出張前に作ってくれたやつ。出かける前に「遅くなるかも」と言い置いたら、「じゃあ先に食べてるね」と笑っていた顔。
あの人は帰ってきたら、何も聞かないと思う。どうかしたの、とは聞いてくれるかもしれないけれど、無理に話さなくていいとも知っている。
それが、じわりと、ありがたかった。
花凛はコップを置いて、もう一度深呼吸した。
さて。
「鏡、見に行くか」
今度の声には、震えがなかった。
花凛はゆっくり机の上のノートに近づき、
その文字をもう一度見た。
『つぎは鏡を見なさい』
細く整った、自分のものじゃない字。夜のうちに書かれた、向こうからの伝言。
怖いとは少し違う。ただ、心臓の奥に小さな鉤がひっかかっている感じがした。
花凛は部屋の隅に置いた全身鏡の前に立った。
もらいもののちゃんとした姿見だ。白木のフレームに、自分でスタンプを押して模様を入れてある。
映っているのは、寝起きの自分だった。くせっ毛の混じった黒髪。着たまま眠ったわけじゃないのに、なんとなく疲れた顔。目の下にうっすら影がある。
どこにも異変はない。
花凛は少し待った。何も起きない。
「……拍子抜けじゃん」
呟いた、その瞬間だった。
鏡の中の自分が、ほんの一拍だけ、遅れた。
動作ではない。表情だ。
花凛が口を閉じたあとも、鏡の中の唇がわずかに動き続けた。まるで、こちらが喋り終えたあとに、別の言葉を付け足そうとしているみたいに。
近づく。鏡の中の自分も近づく。今度はちゃんと同時だ。
でも何かが違う。
目だ。自分の目は今、眠そうにぼんやりしているはずなのに、鏡の中の目には、もっと鋭い光が混じっている。
見ている。こちらを。
「レイナ?」
声に出した瞬間、鏡の中の表情がほんのわずかに動いた。驚きではない。確認だ。まるで名前を呼ばれて、ようやく正しい相手に届いたと分かったような。
花凛はノートを手に取り、ペンで大きく書いた。
【何をしてほしいの】
掲げると、鏡の中の表情がかすかに変わった。どこか、ほんの少しだけ呆れているみたいに。
それから、鏡の中の手が動いた。花凛の手は動かしていないのに。指先が空中に何かをなぞる。文字だ。
花凛は目を凝らし、ゆっくりたどるように読んだ。
封印布の、元の糸を探して。
「糸……」
指先がもう一度動く。
夜、ちゃんと来て。話がある。
それだけ書いて、鏡の中の目は普通に戻った。また、ただの朝の自分だけが映っている。
花凛はしばらく立ったまま、ゆっくり息を吐いた。
コーヒーでも淹れるか。
コーヒーの香りが部屋に広がりはじめる頃、花凛はテーブルの前に座って、広げたままのデザイン画を見た。
コンテストの締切まで、あと三週間。課題の提出は来週。夜間部の今学期のテーマは「守る形」だ。
花凛が最初に出したキーワードは「お守りになる服」だった。担任の先生は、いいねと言ってくれた。
でも今の花凛には、それが比喩だけじゃなくなりはじめている。
シャープペンシルを持つ。線を一本引く。消す。また引く。また消す。
向こうの世界のことが、頭の端に引っかかって離れない。結界布の感触。糸が鳴いていたあの感覚。お守りになる服というのは、ああいうことなんじゃないか。表面を綺麗にするんじゃなくて、中から支える。押さえつけるんじゃなくて、流れを戻す。
今夜また、向こうへ行く。
レイナが待っている。糸の話がある。
でも今はまだ、ここにいる。コーヒーが温かい。
線を一本引いた。今度は消さなかった。
⸻
自宅学習日の火曜日は、いつも時間の流れが変な感じがする。
平日なのに家にいる。学校へ行かなくていい日ではなく、学校へ行かない代わりに家で課題をやる日だ。さぼっていい日じゃない。分かってる。分かってるけど、午後になると不思議と体が重くなる。
テーブルの上には広げたままのデザイン画。シャープペンシルと消しゴムと定規。開きっぱなしの参考書籍。全部が「さあやろう」という顔をして並んでいるのに、花凛はしばらくソファに倒れ込んだまま天井を見ていた。
こういう日は珍しくない。やる気がないわけじゃない。ただ、頭の中のイメージと手の動きが噛み合わなくて、何を描いても違う気がして、全部消してしまう。
スマホを手に取り、pixivを開きかけてやめた。開いたら最後、二時間は戻ってこない。
代わりに、窓の外を見る。
平日の昼間の住宅街は、妙に静かだ。遠くで誰かが自転車を走らせる音。空が高くて、今日は雲が少ない。蒼くんはこういう晴れた日に外へ出るのが好きで、花凛はこういう静かな部屋でひとりでいるのが嫌いじゃない。組み合わせとしては、悪くないと思っている。
花凛はもう一度、白紙のデザイン画を見た。
向こうの世界で、ユリウスが言っていた言葉が浮かぶ。
糸に意志を込める。守りたいものや意味を流し込む。強く思うだけで、糸は受け取る。
服を作るとき、花凛はいつも何かを思いながら布に触れてきた。これを着る人が、少しでも楽に息ができるように。重さに押しつぶされそうな日に、ぎりぎり立っていられるように。言葉にしたことはなかった。祈りとか願いとか、そういう大げさな名前もつけたくなかった。ただ、そう思いながら縫うのと、何も思わないで縫うのとでは、できあがるものが違う気がしていた。
もしかしてそれが、綴り、に近いものだったんだろうか。
花凛はシャープペンシルを持ち直した。
今度は袖の形から始めるのをやめた。まず、輪郭から。人の形から。誰かが着ている姿を先に描く。その人がどんな日に着るのか。どんな気持ちのときに、この服を選ぶのか。
線がするりと出た。消さなかった。
次の線も、その次も、少しずつ残っていった。完璧じゃない。でも、方向が見えてきた。
窓の外で、自転車の音が遠ざかっていく。冷めかけたお茶を一口飲んで、また線を引く。
向こうの世界のことを考えながら、でも手はこちらの世界で動いている。
どちらも本物だと、今はそう思う。
⸻
夕方、蒼くんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
声だけで返しながら、花凛は手を動かし続けた。
「……なんか進んでる?」
隣から覗き込んでくる気配がした。
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも進んだならいいじゃん」
単純な言葉だった。でも、なぜかその一言がすとんと落ちてきた。
向こうの世界では、誰もこんなふうに言ってくれない。ユリウスは警戒するし、レイナは試すし、セレスティアは疑う。ここには、ただそれだけを言ってくれる人がいる。
「……うん」
花凛は小さく頷いた。
今夜また、向こうへ行く気がする。でも今はまだ、ここにいる。
シャープペンシルの先が、紙の上をゆっくり動いていく。




