①館の外へ
アリッサと執事のルカが登場です、、、!
朝の光が、回廊に斜めに差し込んでいた。
館の中は、いつも少し薄暗い。窓は高く、壁には金の装飾が施され、天井には古い物語のような絵が描かれている。
美しい場所のはずなのに、そこに差し込む光は、いつもどこか遠慮がちだった。光すらも、ここではよそ行きの顔をしている。
花凛はユリウスの半歩後ろを歩きながら、窓の外を見ていた。
庭園の向こうに、街の屋根が見える。薄い霧の奥で、塔の先端が朝日を受けている。オレンジと白が混ざり、石畳の角がほんの少しだけ輝いていた。
あそこには、人がいる。
そう思うだけで、胸の奥が少しだけ騒いだ。生活があって、匂いがあって、疲れた声がある。館の中とは違う、もっと正直な場所が、窓の向こうに広がっている。
「今日は外へ出る」
ユリウスが言った。
花凛は思わず足を止めかけた。
「外って……館の?」
「ああ。フローラ・ミラージュの街だ」
フローラ・ミラージュ。その名前を聞くたび、花凛は不思議な気持ちになる。
この世界は夢ではない。けれど、現実とも違う。眠るたびに訪れる場所。レイナと入れ替わる場所。そして、自分がまだ何も知らない場所。
「……いいの? わたし、レイナじゃないのに」
ユリウスが振り返った。視線が一拍だけ花凛の顔の上に止まる。何かを確かめているような目だった。
「だからこそだ」
「だからこそ?」
「君は、この世界を知らない。知らないままでは、何も選べない」
選ぶ。その言葉が、胸に残った。
花凛はこの世界に来てから、ずっと流されているような感覚があった。目覚めたらレイナと呼ばれ、知らない館にいて、知らない人たちに囲まれて、知らない役目の中に放り込まれる。名前も、役割も、期待されることも、全部が借り物みたいに感じていた。
自分が何を選ぶのか。それを考える余裕すら、あまりなかった。
「……行く」
花凛がそう言うと、ユリウスは小さく頷いた。その動作には無駄がなかった。驚きも、安堵も、何も滲まない。でも、それがかえって信頼に近いものに感じられた。
⸻
館の正門を抜けた瞬間、光があふれた。
花凛は思わず目を細める。
外の空気は、館の中よりもずっと軽かった。土と草と、遠くの煙の匂い。風が頬を撫で、髪を少し揺らす。
肺の奥まで、違う空気が届く気がした。
目の前に広がっていたのは、夢の中で見るような街並みだった。
石畳の道。曲線を描く街灯。蔦の絡まるアーチ。
古い西洋の街並みかと思えば、軒先には和風の暖簾が揺れている。
どちらでもあって、どちらでもない。二つの様式が、喧嘩もせず寄り添っている。
通り過ぎる人々の服も不思議だった。着物のような直線的な衣服に、
洋風の外套を重ねている人。レースの襟元に、帯紐のような飾りを垂らしている人。
袴のような裾に、コルセットのような胴衣を合わせている人。だれもが、二つの世界の間を当たり前に生きているみたいだった。
大正とロココが、同じ鍋で静かに煮込まれている。
花凛は、ほとんど瞬きも忘れて歩いた。
「……すごい」
思わず声がこぼれた。でも、美しいだけではなかった。
街は生きていた。焼き菓子の甘い匂い。
荷車の軋む音。遠くの歌声。子どもの笑い声。誰かが布を叩いて埃を払う音。それらが層になって重なり、
街全体が呼吸しているみたいだった。
花凛の目は忙しかった。街灯の細工。石畳の組み方。店先に並んだ布地の色。
通り過ぎる人の袖口。帯紐の結び方。裾の裁ち方。服飾の学生として身についた目が、勝手に動く。
けれど、気になるのは美しいものだけではなかった。
白いレースの襟元が、うっすら黄ばんでいる。鮮やかな布の端が、雑にほつれている。
路地の隅に汚れが溜まっている。石畳の間に、古い水の跡が残っている。
綺麗なのに、どこか苦しそう。
この街は、見た目よりずっとぎりぎりで成り立っている。なんとか保たれている、という感じがした。
頑張って綺麗に見せているのではなく、綺麗でいようとしながら少しずつ疲弊している。
「ユリウス」
「なんだ」
「この街、すごく綺麗だけど……なんか、細かいところが疲れてる」
「疲れている?」
「うん。服も、建物も、道も。全部じゃないけど、手が回ってない感じがする。余裕がなくなってきてる感じ」
ユリウスは少しだけ花凛を見た。
「よく見ている」
「服飾の学生だから」
そう言ってから、花凛は少しだけ笑った。この世界で「服飾の学生」という言葉が、どれくらい通じるのか分からない。
けれどユリウスは馬鹿にしなかった。それが、少し嬉しかった。
「覚えておけ。その視点は必要になる」
「必要?」
「この街には、美しさだけでは足りないものがある」
ユリウスはそう言って、細い路地へ入っていった。
「行っておくべき店がある」
⸻
路地は、表通りよりも静かだった。
壁に蔦が絡まり、どこかの窓辺から薄紫の花が垂れている。
足元には細い水路のようなものが走っていた。水は澄んでいるのに、流れがどこか緩やかすぎる。少し疲れた水、と思った。
水路のところどころに、布くずのようなものが引っかかっていた。
花凛はそれを見て、少し眉を寄せる。綺麗に見える世界にも、生活の汚れはある。当たり前のことなのに、館の中にいると忘れそうになる。
路地を抜けると、小さな広場に出た。
最初、花凛は建物だと思わなかった。
広場の端に、それはあった。
大きな、きのこだった。
傘の直径は建物一軒ぶんはある。
深い赤褐色の笠が、ゆるやかに波打ちながら広がっている。
縁はふちどりのようにめくれ上がり、その下に白いひだが幾重にも垂れていた。
雨除けになっているのか、ひだの奥は薄暗く、でも温かそうな光が滲んでいる。
柱、というより、茎だった。太く、白く、表面がなめらかで、
ところどころに細い菌糸のような筋が走っている。
地面との境目が曖昧で、石畳の隙間からも細い白い糸が伸び、広場の端まで這っていた。
扉は、茎の根元にあった。
丸い扉。ドアノブは貝のような形をした茸の小さな笠。
扉の周りには苔が生えていて、その苔の中に、親指ほどの小さなきのこがいくつも顔を出している。
窓は傘の縁の内側にあった。丸い窓。曇りガラス。その向こうに、
あたたかいオレンジ色の光がぼんやりと見えた。
看板は、茎の表面に直接彫られていた。
文字は読めない。けれど不思議と、意味だけが胸に届く。
『アリッサの魔法用具店』
ここに来ていい。
「……きのこ」
思わず声が出た。
「ああ」
ユリウスが当然のように答える。
「きのこなんですか、これ」
「アリッサの魔法用具店だ」
「それは分かるんですけど」
「何か問題があるか」
花凛は広場の端から建物を見上げた。きのこの笠の縁から、
細い雨粒みたいなものが滴り落ちている。水ではない。かすかに光っていた。
「……問題はないです」
「ならいい」
ユリウスはそう言って、丸い扉に手をかけた。甘い香りと、
土の匂いと、古い木の匂いが流れてくる。その奥に、かすかにお茶のような、草のような、もっと説明できない何かが混じっていた。
花凛はひとつ息を吸い、中へ入った。
そのとき、扉の奥から微かに聞こえた気がした。
糸が、切れる音。
それは花凛もよく知る音な気がした。




