② アリッサの魔法用具店
扉の内側は、外から見たよりもずっと奥行きがあった。広い、というわけではない。けれど、奥がある。まるで空間が、静かに息を吸っているみたいに、入ってくる人を少しずつ奥へと引き込んでいく。
天井まで届く棚に、瓶や箱や布の束が整然と並んでいる。カウンターの上には銀の秤。壁には見たことのない植物の押し花——名前の知らない形の葉、五枚の花びら、透き通った茎。窓から差し込む光が、細かな埃をきらきらと浮かせていた。
誰かが、丁寧に守り続けている場所。管理されているというより、愛されている。
花凛はそう思った。ここにあるものは、ただ飾られているのではなく、それぞれがちゃんと居場所を持っている。棚の隙間にも、棚の端にも、余裕があった。詰め込みすぎていない。
「いらっしゃいませ」
奥から声がした。
カーテンをくぐって現れたのは、青年だった。
穏やかな顔立ち。きちんと整えられた服装。柔らかい物腰。黒に近い髪が、光を受けて少しだけ青く見える。整っているのに、整えようとしている感じがしない。ただそのままでいる人の佇まいだった。
けれど、その目だけが少し遠い。
ちゃんとこちらを見ているのに、視線の奥に別の場所があるような気がした。今ここにいながら、もう一つ別の場所も見ている人の目。
「ユリウス様。お久しぶりです」
「ああ。少し借りる」
「もちろんです」
短いやり取りのあと、青年の目が花凛に向いた。観察するでも、警戒するでもない。ただ、確かめるみたいな目だった。何かを探しているのではなく、ただ、今ここにいる相手を見ている。それだけで、なぜか少しだけ落ち着いた。
「ルカです」
「花凛です」
言ってから、しまったと思った。
レイナと名乗るべきだったのかもしれない。
けれど、ユリウスは訂正しなかった。
ルカも何も言わなかった。
その沈黙に、花凛は少しだけ救われた。
「どうぞ。ご自由に」
ルカは静かに脇へ退いた。その距離の取り方が、少し不思議だった。近すぎない。遠すぎない。誰かを待つことに慣れている人の距離だった。
⸻
視線はすぐ棚へ引き寄せられた。
糸。布。見たことのない道具。小さな瓶に入った液体——淡い桃色、青みがかった透明、深い緑。銀色の針。飴玉みたいな石。乾燥した植物の茎。貝殻のような光沢を持つボタン。赤い傘の小さなキノコが入った標本瓶。
どれも少しずつ、現実のものと違う。光の受け方。繊維の動き。棚の奥から漂う匂い。全部が、こちらの知っているものに似ているのに、少しだけずれている。
「あの、これ……」
「触っても大丈夫ですよ」
振り返ると、ルカがさっきと同じ場所に立っていた。いつの間に。音も気配もなかったのに、ちゃんとそこにいる。
花凛は布の端を、そっと指でつまんだ。するり、と馴染む。絹に近い。でも、違う。もっと水を怖がっていない手触りがする。
「これ、普通の布じゃないですよね」
「この店にあるものは、たいてい普通ではありません」
「それ、説明になってます?」
「半分ほどは」
真面目な顔で返されて、花凛は少し笑いそうになった。
「これ、洗えますか?」
ルカが、ほんの一瞬だけ言葉を探した。
「……洗う、とは」
「水で。普通に」
「その発想は、あまり一般的ではありません」
「えっ」
花凛は布を見直した。綺麗なのに、どこか余裕がない理由。さっき街で見た違和感。胸の中で細い糸が一本結ばれた気がした。
「詳しいの?」
別の声がした。
⸻
カーテンの向こうから、女の子が出てきた。
花凛と同じくらいの背丈。黒髪のショート。
ふわりとしたラベンダー色の服。
胸元には金のボタンが並び、柔らかい印象なのに、どこかきちんとしている。袖口には細いレースがあしらわれ、それが少しだけ甘さを足していた。
可愛い。最初に思ったのは、それだった。
けれど次の瞬間、花凛は呼吸を忘れた。
似ているわけではない。顔立ちも、雰囲気も、纏う空気も違う。なのに、どこかが近い。言葉にできない場所が、かすかに重なる。距離でも形でもない何かが、すっと重なった気がした。
「あ、いらっしゃい」
女の子は軽い声で言った。
「アリッサです」
そう言って、笑う。ちゃんと笑っている。なのに、目の奥だけが少し静かだった。
空っぽではない。弱いわけでもない。むしろ、ちゃんと立っている。でも、何かが足りない。何かを置き忘れてきた人の目。誰かに取られたのではなく、どこかに置いてきてしまった人。
「花凛です。えっと……お邪魔します」
「全然いいよ。好きに見てって」
アリッサはそう言って、花凛の指先にある布を見た。
「布、好き?」
「好きです」
即答だった。アリッサの目が、少しだけ緩む。それまで保っていた何かが、ほんの少しだけほどけた。
「じゃあ、こっちも見る?」
花凛はこくりと頷いた。
⸻
奥の棚には、小さな瓶が並んでいた。親指ほどの大きさの瓶。中には淡い紫や青、薄い桃色の液体が入っている。ラベルには、花凛には読めない文字で何かが書かれていた。文字の形が、どことなく刺繍の模様に似ていた。
「これ、ポーションですか?」
「うん。でも、そのまま飲むやつじゃないよ」
「そのまま飲まないポーション?」
「そう」
アリッサは瓶をひとつ手に取り、光にかざした。中身は淡い紫色をしている。けれど、輪郭が曖昧だった。液体なのに、薄い霧みたいに揺れている。固まりきっていない何か、という感じがした。
「何かに垂らすの。お茶でも、水でも、スープでも。なんでもいい」
「で、そのときに思うの。どうなりたいか」
アリッサは瓶を軽く振った。小さな液体が、星屑みたいに揺れる。
「落ち着きたいって思えば、そういうポーションになる。勇気がほしいって思えば、そうなる。本当のことを見たいって思えば、そういうふうに働く」
「すごい。薬みたい」
「薬じゃないよ」
アリッサの声が、少しだけはっきりした。
「ポーションは、何かを無理やり変えるものじゃないの。その人がもともと持ってるものを、ちょっとだけ引き出すだけ」
花凛は、その言葉を聞いて黙った。
服と似ている。服も、人をまったく別の存在に変えるわけではない。でも、その人の中にあるものを、表に出すことがある。背筋が伸びる。少しだけ強くなれる。隠れていた気持ちが、形になる。
「じゃあ、何も考えなかったら?」
「たぶん、あんまり効かない」
「正直」
「そういうものだから」
アリッサは少し笑った。
「願いって、雑に扱うと迷子になるんだよね」
迷子。その言葉に、ルカの手がわずかに止まった。
⸻
「試してみる?」
「いいんですか?」
「うん。初回お試し」
「お試し制度あるんだ……」
「あるある。たぶん」
「たぶん?」
アリッサは気にせず、店の奥から小さなカップを持ってきた。温かいお茶が入っている。
「一滴だけね」
アリッサは紫色のポーションを、カップに一滴垂らした。水面が、ふっと淡く光る。
花凛はカップを両手で持った。目を閉じる。どうなりたいか。
強くなりたい。落ち着きたい。帰りたい。知りたい。
でも、どれも少し違う。
花凛はゆっくり息を吸った。
そして、ひとつだけ思った。今は、落ち着きたい。
お茶を口に含む。味は変わらなかった。
けれど、胸の奥にあったざわざわが、すっと静かになった。消えたわけではない。ただ、乱れていた糸が少しだけ並び直したような感覚。
「……すごい」
「でしょ」
アリッサが得意そうに笑う。その笑顔は、さっきよりずっと自然だった。
「これ、持って帰れるんですか?」
「持って帰れるよ。合えば」
「合えば?」
「うん。この店のものって、持ち主を選ぶから」
アリッサは棚から小さな瓶をひとつ取った。淡い紫色のポーション。
「花凛さんには、これかな。買うっていうより、契約に近いかな」
「契約?」
「大げさに聞こえるけど、怖いものじゃないよ。魔法道具との契約は、自分自身との誓いみたいなものだから」
花凛は瓶を見た。小さなガラスの中で、紫色の光が揺れている。外の明かりに反応しているのか、息をするみたいに、ゆっくりと。
「じゃあ……人間界では?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、アリッサは何気なく答えた。
「アクセサリーに擬態するよ」
空気が止まった。
「……え?」
「ん?」
「今、擬態するって言いました?」
アリッサはきょとんとする。
「言った?」
「言いました」
「……そうなんだ」
分かっていない顔だった。本当に分かっていない。
「なんで、知ってるんですか」
アリッサは少しだけ考えた。その横顔から、先ほどの明るさがすっと引く。答えを探しているのに、どこにも見つからない。そういう顔だった。
「分かんない。でも、たまに分かるんだよね。ここのものが、別の場所でどういう形になるか」
「別の場所……」
「瓶が指輪になったり、キノコがブローチになったり、布の欠片がチャームになったり」
花凛の心臓が、どくんと鳴った。
「それって……」
「アリッサ様」
ルカの声がした。穏やかな声だった。けれど、いつもより少しだけ慎重だった。
「そのお話は、あまり長くなさらない方が」
「……そうだっけ」
アリッサは首を傾げる。その仕草が、少しだけ幼く見えた。
「ごめん。変なこと言った?」
「いえ」
花凛は首を振った。でも、胸の奥はざわついていた。
アリッサは分かっていない。自分が何を言ったのか、本当に分かっていない。それなのに、知っている。
人間界。アクセサリー。形を変える魔法道具。
花凛は掌の小瓶を見下ろした。淡い紫の液体が、小さく揺れる。
まるで、こちらを見ているみたいに。
そのとき、ルカの目が一瞬だけ、花凛の指輪——ではなく、その奥の何かを見た気がした。
気のせいかもしれない。
でも彼はすぐ視線を逸らし、
棚の整理を再開した。何もなかったかのように。
今回から私が出しゃばって参りました。
活躍できるように頑張ります。




