③ 息のできる場所
店の奥は、外から見たよりも
ずっと居心地がよかった。
ユリウスはカウンター脇の椅子に座り、
本を開いている。
ルカは棚の整理をしていた。
けれど、二人とも花凛と
アリッサの会話には入ってこない。
放っておいてくれている。
それがありがたかった。
館では、誰かが常にこちらを見ている気がした。
心配なのか、監視なのか、判断なのか。でもこの店では、視線が少し柔らかかった。見られていても、急かされていない。
ここでは、息ができる。
「この布も、魔法用具なんですか?」
花凛はさっきの布を指した。
「うん。たぶん」
「またたぶん」
「この店、わたしにも分からないものがあるから」
「店主なのに?」
「店主だからって、全部分かるわけじゃないよ」
アリッサはそう言って笑った。
その笑い方が妙に本音っぽくて、
花凛もつられて笑った。
「でも、分からないものを置いてて大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないこともある」
「えっ」
「だからルカがいる」
アリッサが軽く言うと、
棚の向こうでルカが静かに振り返った。
「アリッサ様」
「なに?」
「私は危険物の保管係ではありません」
「え、違った?」
「違います」
「じゃあ何?」
ルカは少しだけ沈黙した。
「店番です」
「だそうです」
アリッサが花凛に向かって真面目に言ったので、花凛は笑ってしまった。
ルカの表情は変わらない。
けれど、その目元が少しだけ柔らかくなったように見えた。
⸻
「アリッサさんの服、可愛いですね」
花凛が言うと、アリッサはぱっと顔を上げた。
「ほんと?」
「はい。ラベンダーの色も、
金ボタンも似合ってます」
「これ、気に入ってるんだよね。かわいいけど動きやすいし、棚の奥に手を伸ばしても引っかからないから」
その言い方が、あまりに自然だったから、
花凛は少しほっとした。
欠けているように見える。
でも、好きなものはちゃんとある。
自分で気に入って、自分で着ている。
アリッサは、ここにいる。
「花凛さんも、服好きなんだよね」
「好きです」
「どんな服を作るの?」
「今は学校で課題をやってて……スカートとか、ブラウスとか。あと、自分では、着る人が楽に息できる服を作りたいです」
「息できる服」
「身体がしんどいときって、おしゃれを諦めちゃうことがあるから。でも諦めたくない人もいると思うから。そういう人でも着られる服を作りたくて」
言ってから、花凛は少しだけ照れた。こんなことを初対面に近い相手へ話すつもりはなかった。
けれどアリッサは笑わなかった。
「分かる」
短く言った。一言だったけれど、空虚ではなかった。ちゃんと届いた感じがした。
「わたしも、ここにいると少し息ができる。外も、館も、人も、役目も。全部が近すぎるときがあるから」
アリッサは布を一枚、棚から取り出した。
「でも、糸はいい。絡んでも、ほどけることがある」
花凛はその言葉を胸の中で反芻した。絡んでも、ほどけることがある。
「服って、ただ着るためだけじゃないと思うんです。その人が、その日を生きるためのものっていうか。鎧じゃないけど、でも守ってくれるものでもある気がして」
「お守りみたいな?」
「そうです。お守りみたいな服」
アリッサが目を細めた。
「いいね、それ」
その声は、やけに静かだった。うっとりしているのでも、褒めているのでもない。ただ、何かが心に触れた、という声。
花凛はアリッサの横顔を見た。この人は、ここにいる。ちゃんと喋って、笑って、布に触れている。なのに、時々どこかが遠い。
花凛はその違和感を、まだ言葉にできなかった。
⸻
棚の奥に、ひとつだけ違うものがあった。
古い手鏡だった。
丸い鏡面に、細い蔦のような装飾が絡んでいる。銀色の縁は少しくすみ、持ち手には小さな傷がいくつも入っていた。他の道具が整然と並んでいる中で、それだけが少しだけ傾いている。誰かが、ちゃんと戻さなかったみたいに。
花凛は何気なくそれを見た。
その瞬間。ちり、と。小さな音がした。
金属音のような、糸が張るような音。空気が一本の線になって、店の中を横切ったみたいな感覚があった。
ルカの手が止まった。ユリウスが、本から目を上げた。
アリッサだけが、気づいていない。棚の奥で何かを探している。
「……今、音が」
花凛が言いかけると、ルカが静かに口を開いた。
「古い道具です。時折、鳴ることがあります」
その声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
花凛はもう一度、手鏡を見る。鏡面には、店の光がぼんやり映っているだけだった。
でも、ルカの目が一瞬だけ鏡に向いた。花凛を見るのではなく、鏡を見た。まるで、鏡に確認するみたいに。
⸻
帰る時間になった。ユリウスが本を閉じ、
花凛に目配せをする。
アリッサは「また来て」と軽く手を振った。
花凛は頷き、扉へ向かう。掌には、さっきの小さなポーション瓶がある。
「これ、本当に持って行っていいんですか」
「うん。合ったみたいだし」
「お代は」
「次でいいよ」
「次?」
「また来るでしょ?」
アリッサは当たり前みたいに言った。疑っていない声だった。
花凛は少しだけ目を伏せた。
「……来ます」
「じゃあ、そのとき」
扉の前で、花凛はふと足を止めた。
ルカがカウンターの前に立っていた。
「ルカさんって……誰かを待ってるんですか」
言った瞬間、自分でも踏み込みすぎたと思った。
ルカの表情が、ほんの少しだけ動く。
驚きではない。もっと奥の、静かな場所に触れたような顔。
「どうして、そう思いますか」
「なんとなく。目が……ここにいるのに、どこか別の場所も見てる感じがして」
ルカはしばらく黙っていた。アリッサは奥で布を片付けていて、こちらの会話には気づいていない。
「待っているのかもしれません。でも、待っているだけでは、届かないものもありますから」
花凛は、その言葉の意味を掴めなかった。ただ、胸の奥に小さな棘みたいに残った。
「……また来ます」
「ええ。お待ちしています」
扉が閉まる。外の光が、少し眩しかった。
光の中で、花凛はふと気づいた。
あの手鏡が鳴ったとき——アリッサは本当に、気づいていなかったのだろうか。
それとも、気づかないふりをしていたのだろうか。
振り返っても、もう扉は閉まっていた。




