間話A 身体の――輪郭
その夜、アリッサの魔法用具店には、まだ湯気の匂いが残っていた。
花凛たちが館へ戻り、店の表の灯りを落としたあとも、奥の浴室からは薬草と温かい水の香りがかすかに流れていた。
棚の瓶は眠るように静まり、銀の秤は窓から入る月の光を受けて、細く光っている。
アリッサは寝台の上で、薄い掛け布に包まれていた。
さっきまでより、身体はずいぶん楽になっている。湯に浸かったあと、身体の端が戻ってきた。自分の手、自分の肩、自分の呼吸。そういうものが、少しずつ輪郭を持ちはじめている。
けれど、その分だけ、妙に寂しかった。
戻ってきた身体の中に、ぽつんと自分だけがいる。その感じがした。
「ルカ」
呼ぶと、すぐに返事があった。
「おります」
「知ってる。足音で分かる」
ルカは棚の前で手を止めた。
「失礼いたしました」
「謝るところ?」
「音を立てました」
「足音くらい立てていいよ。幽霊じゃないんだから」
「承知しました」
「そこは承知するんだ」
アリッサは少し笑った。笑えるくらいには、戻っている。それが分かって、少し安心した。
ルカは片づけていた薬草瓶を棚に戻す。
「お身体は、いかがですか」
「だいぶ戻った」
「それは何よりです」
「でも、戻ってきたらさ」
「はい」
「戻ってきた身体が、ちょっと寂しい」
ルカの手が止まった。
アリッサは天蓋の薄布を見上げる。
「変だよね。さっきまで身体の端っこがどこか行ってたのに、戻ってきたら今度は寂しいんだもん」
「お疲れなのだと思います」
「そうかも」
「今日はお休みください」
「ルカはすぐ逃がすね」
ルカは静かにこちらを見た。
「逃がしているのではありません。お守りしています」
「それ、似てるよ」
「違います」
「そうかな」
「違います」
二度目の声は、少しだけ強かった。
アリッサは体を横に向ける。ルカは寝台から少し離れた場所に立っていた。
近い。でも、遠い。
いつもそうだ。手を伸ばせば届く距離にいるのに、ほんとうに触れようとすると、ふっと一歩分だけ離れる。
礼儀。主従。心配。過保護。きっと理由はいくつもある。
でも今夜は、その全部が少しだけ邪魔だった。
「行かないで」
言ってから、自分でも驚いた。軽口ではなかった。
ルカの表情が変わる。
「……アリッサ様」
「今のは、ちゃんと言ったよ」
アリッサは寝台の上で、薄い掛け布を指でつかんだ。
「湯に入ったから、たぶん頭は変じゃない」
「ご体調が完全に戻られていません」
「戻ってるよ」
「完全ではありません」
「完全じゃなくても、分かることはあるよ」
「後悔されます」
「するかも」
アリッサは少し考えた。それから、まっすぐルカを見る。
「でも、今行かれたら、たぶんそっちの方が後悔する」
ルカは黙った。月明かりが、彼の横顔を白く照らしている。
アリッサは、ふと不思議に思った。自分はこの人をいつから知っているのだろう。今日。昨日。もっと前。あるいは、思い出せないどこか。
ルカはいつもここにいる。店の棚を整え、薬草茶を淹れ、湯の温度を確かめ、アリッサが無理をすると静かに怒る。
それなのに、時々。彼が自分ではない誰かを見ている気がする。
それが寂しい。
でも、彼に見られると、戻ってくる気もする。自分が、アリッサという形をしていたのだと。
「私が誰か、分からない時があるの」
アリッサは言った。
ルカの目が、ほんの少し揺れた。
「……はい」
「でも、今ここにいるのは、わたしだよ」
「アリッサ様」
「うん。そう呼んで」
ルカは、ゆっくり息を吸った。
「アリッサ様」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。名前を呼ばれる。ただそれだけのことが、こんなに身体に響くものなのかと、アリッサは少し驚いた。
「もう一回」
「アリッサ様」
「うん」
アリッサは小さく笑った。「戻ってきた」
ルカはそれ以上、離れなかった。寝台のそばまで来て、膝をつく。それでも、まだ触れない。
「お休みになるべきです」
「そういうこと言うと思った」
「言います」
「真面目」
「必要なことです」
「じゃあ、必要じゃないことも言って」
ルカは困ったように黙った。アリッサはその沈黙を見て、少しだけ笑う。
「ルカ」
「はい」
「わたしに触れたい?」
その瞬間、ルカの中で何かが止まった。
止まって、割れた。
触れたい。
答えは、問われる前から、もうそこにあった。今夜だけの話ではない。薬草茶を淹れるたびに。布の温度を確かめるたびに。アリッサが笑うたびに。その笑みが、少しだけ疲れているたびに。
触れたいと思っていた。
でも——
ルカの胸の奥で、別の顔が浮かんだ。
短く切りそろえた黒髪。少し強がりな目元。笑うと少しだけ眉が下がる——探している人の顔。
まだ、見つけていない。
まだ、見つけられていない。
その人を探しながら、今ここで別の誰かを求めることが、何かを裏切ることになるのか。ルカには分からなかった。分からないまま、何年も経った気がした。
でも今、目の前にアリッサがいる。
掛け布を握る指が、かすかに震えている。
寂しいと言った。行かないでと言った。今ここにいるのは自分だと言った。
アリッサの言葉は、いつも軽い。でも軽い言葉の下に、重いものが沈んでいる。それをルカは、ずっと見てきた。
どちらに誠実であるべきか。
答えは出なかった。
けれど、離れることだけは——できなかった。
「……その問いには、お答えできません」
「答えてるようなものだよ」
「アリッサ様」
「わたしは、触れてほしい」
ルカの目が、はっきり揺れた。
アリッサは言葉を続ける。ここで曖昧にしたら、また全部が霧になる気がした。
「かわいそうだから、とか、心配だから、とかじゃなくて」
「はい」
「わたしが、そうしたい」
ルカは目を伏せた。
「ご体調が」
「戻ってる」
「完全では」
「完全じゃなくても、選べる」
アリッサは掛け布から手を出した。指先はまだ少しだけ温かい。湯の名残が、皮膚の下に残っている。
「それに、今の私は、ちゃんと分かってる」
「何をですか」
「ルカが逃げようとしてること」
「逃げては」
「る」
アリッサはきっぱり言った。
「逃げてるよ。わたしを守る顔をして、自分も守ってる」
ルカは何も言わなかった。否定しない。それが、答えだった。
アリッサは少しだけ眉を下げた。
「でも、それが悪いとは思ってないよ。怖いんでしょ」
「……はい」
その短い返事で、胸の奥がきゅっと痛んだ。
ルカの怖さが、ようやく見えた気がした。アリッサを壊すこと。間違えること。誰かと誰かを取り違えること。戻れなくなること。きっと、そういうもの全部。
「わたしも怖いよ」
アリッサは言った。
「でも、怖いままでも、そばにいてほしい」
ルカは、長く沈黙した。やがて、ゆっくりと手を伸ばす。それでもまだ、触れる直前で止まった。
「本当に、よろしいのですか」
「うん」
「今なら、止められます」
「止めたくなったら言う」
「必ず」
「必ず」
アリッサは頷いた。
「ルカも、止めたくなったら言って」
「私は」
「ルカも」
アリッサが強く言うと、ルカはようやく頷いた。
「……はい」
その返事を聞いて、アリッサは彼の手に自分の指先を重ねた。ルカの手は、少し冷たかった。けれど、触れたところからすぐに温かくなる。
「冷たい」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいってば」
アリッサは笑った。ルカはその手を、そっと包む。
「アリッサ様」
「うん」
「私は、あなたを傷つけたくありません」
「知ってる」
「それでも、傷つけるかもしれません」
「その時は怒る」
「怒る」
「うん。ちゃんと怒る。だから、ルカもちゃんと謝って」
「……はい」
「謝るの得意でしょ」
「得意ではありません」
「でも、すぐ謝る」
「それは、あなたが」
「わたしが?」
ルカは言葉を止めた。アリッサは少し首を傾げる。
「何?」
「……あなたが、大切だからです」
その言葉は、静かだった。静かすぎて、
逃げ場がなかった。
アリッサは、しばらく何も言えなかった。それから、小さく笑う。
「そういうこと、言えるんだ」
「言うべきではありませんでしたか」
「ううん」
アリッサは首を横に振った。
「もう一回言って、って言ったら困る?」
「困ります」
「そっか」
「ですが」
ルカはアリッサの手を少しだけ強く包んだ。
「必要であれば、何度でも」
アリッサは目を伏せた。胸の奥が熱い。湯に入った時とは違う熱。身体の輪郭が、また少し変わっていく。
ルカは、もう一度だけ迷った。
それから、アリッサの頬に触れた。
その瞬間、また、重なった。
アリッサの顔の上に、別の顔が。
短い黒髪。強がりな目元。
ルカは息を止めた。
違う。目の前にいるのは、アリッサだ。
でも重なる。輪郭が。温度が。指先に伝わる熱が。
ルカは目を閉じた。
どちらを求めているのか、分からなくなりそうだった。
でも——アリッサは今、ここにいる。探している人は、まだどこにもいない。
いない人を待ちながら、いる人から離れることが、正しいのか。
正しくないのか。
答えは出なかった。出ないまま、ルカはゆっくりと目を開けた。
目の前にいるのは、アリッサだった。
重なりは、消えていた。
消えて——アリッサだけが、そこにいた。
それでよかったのかどうか、まだ分からない。
でも今は、それだけが、全部だった。
湯上がりの熱が、まだ少し残っていた。
「……失礼いたします」
「それ、今言うんだ」
「言わなければ、保てません」
「そっか」
アリッサは笑って、彼の手に頬を預けた。その笑みを見た瞬間、ルカの表情が崩れた。ほんの少しだけ。けれど、確かに。
アリッサはそれを見逃さなかった。
「ルカ」
「はい」
「来て」
今度は、ルカは離れなかった。
月明かりの中で、二人の影がゆっくり重なる。
アリッサは最後にもう一度、自分の名前を聞いた。
「呼んで」
「アリッサ様」
「うん」
ルカは、少しだけ間を置いた。
様をつけて呼ぶことは、距離だった。礼儀であり、壁であり、自分を保つための形だった。
その形を外すことが、何を意味するか。
分かっていた。
分かっていて、それでも——
探している人の名前が、胸の奥でかすかに揺れた。
ごめん、と思った。誰に向けているのか、自分でも分からない謝罪だった。
それでも、口が動いた。
「アリッサ」
敬称のない名前が、夜の奥に落ちた。
それだけで、身体のどこかがほどけた。
アリッサは目を閉じる。
その夜、店の奥の灯りは、いつもより少しだけ長く消えなかった。
湯気の匂いが薄れていく頃、アリッサは自分の身体の輪郭を、さっきよりもはっきり思い出していた。誰かの記憶ではなく。誰かの影でもなく。今、ここにいる自分として。
ルカの手が、何度もそれを確かめるように触れていた。
ルカは、アリッサの寝息が落ち着くまで、動かなかった。
月の光が、少しだけ傾いていた。
胸の奥には、まだ答えの出ない問いが残っている。
探している人のことを、考えた。
それから、今ここにいるアリッサのことを、考えた。
どちらも、本当のことだった。
どちらかが嘘になるわけではなかった。
でも、どちらも正しいままでいられるのか——それだけが、まだ分からなかった。
ルカは、アリッサの短い髪をひとすじだけ、そっと直した。
触れるか触れないかの、ほとんど気配だけの手つきで。
「……見つけなければ」
声は、ほとんど息だった。
誰にも聞こえない声で、ルカはそう言った。
その言葉が誰に向かっているのか——アリッサに向かっているのか、愛菜に向かっているのか、あるいは自分自身に向かっているのか。
月明かりだけが、答えを知っていた。




