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眠るたび異世界の少女と入れ替わる服飾学生は、滅びかけた都を繕う  作者: 魔法使いアリッサ
6章 お風呂がない!

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間話A 身体の――輪郭



その夜、アリッサの魔法用具店には、まだ湯気の匂いが残っていた。


花凛たちが館へ戻り、店の表の灯りを落としたあとも、奥の浴室からは薬草と温かい水の香りがかすかに流れていた。


棚の瓶は眠るように静まり、銀の秤は窓から入る月の光を受けて、細く光っている。


アリッサは寝台の上で、薄い掛け布に包まれていた。


さっきまでより、身体はずいぶん楽になっている。湯に浸かったあと、身体の端が戻ってきた。自分の手、自分の肩、自分の呼吸。そういうものが、少しずつ輪郭を持ちはじめている。


けれど、その分だけ、妙に寂しかった。


戻ってきた身体の中に、ぽつんと自分だけがいる。その感じがした。


「ルカ」


呼ぶと、すぐに返事があった。


「おります」


「知ってる。足音で分かる」


ルカは棚の前で手を止めた。


「失礼いたしました」


「謝るところ?」


「音を立てました」


「足音くらい立てていいよ。幽霊じゃないんだから」


「承知しました」


「そこは承知するんだ」


アリッサは少し笑った。笑えるくらいには、戻っている。それが分かって、少し安心した。


ルカは片づけていた薬草瓶を棚に戻す。


「お身体は、いかがですか」


「だいぶ戻った」


「それは何よりです」


「でも、戻ってきたらさ」


「はい」


「戻ってきた身体が、ちょっと寂しい」


ルカの手が止まった。


アリッサは天蓋の薄布を見上げる。


「変だよね。さっきまで身体の端っこがどこか行ってたのに、戻ってきたら今度は寂しいんだもん」


「お疲れなのだと思います」


「そうかも」


「今日はお休みください」


「ルカはすぐ逃がすね」


ルカは静かにこちらを見た。


「逃がしているのではありません。お守りしています」


「それ、似てるよ」


「違います」


「そうかな」


「違います」


二度目の声は、少しだけ強かった。


アリッサは体を横に向ける。ルカは寝台から少し離れた場所に立っていた。


近い。でも、遠い。


いつもそうだ。手を伸ばせば届く距離にいるのに、ほんとうに触れようとすると、ふっと一歩分だけ離れる。


礼儀。主従。心配。過保護。きっと理由はいくつもある。


でも今夜は、その全部が少しだけ邪魔だった。


「行かないで」


言ってから、自分でも驚いた。軽口ではなかった。


ルカの表情が変わる。


「……アリッサ様」


「今のは、ちゃんと言ったよ」


アリッサは寝台の上で、薄い掛け布を指でつかんだ。


「湯に入ったから、たぶん頭は変じゃない」


「ご体調が完全に戻られていません」


「戻ってるよ」


「完全ではありません」


「完全じゃなくても、分かることはあるよ」


「後悔されます」


「するかも」


アリッサは少し考えた。それから、まっすぐルカを見る。


「でも、今行かれたら、たぶんそっちの方が後悔する」


ルカは黙った。月明かりが、彼の横顔を白く照らしている。


アリッサは、ふと不思議に思った。自分はこの人をいつから知っているのだろう。今日。昨日。もっと前。あるいは、思い出せないどこか。


ルカはいつもここにいる。店の棚を整え、薬草茶を淹れ、湯の温度を確かめ、アリッサが無理をすると静かに怒る。


それなのに、時々。彼が自分ではない誰かを見ている気がする。


それが寂しい。


でも、彼に見られると、戻ってくる気もする。自分が、アリッサという形をしていたのだと。


「私が誰か、分からない時があるの」


アリッサは言った。


ルカの目が、ほんの少し揺れた。


「……はい」


「でも、今ここにいるのは、わたしだよ」


「アリッサ様」


「うん。そう呼んで」


ルカは、ゆっくり息を吸った。


「アリッサ様」


その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。名前を呼ばれる。ただそれだけのことが、こんなに身体に響くものなのかと、アリッサは少し驚いた。


「もう一回」


「アリッサ様」


「うん」


アリッサは小さく笑った。「戻ってきた」


ルカはそれ以上、離れなかった。寝台のそばまで来て、膝をつく。それでも、まだ触れない。


「お休みになるべきです」


「そういうこと言うと思った」


「言います」


「真面目」


「必要なことです」


「じゃあ、必要じゃないことも言って」


ルカは困ったように黙った。アリッサはその沈黙を見て、少しだけ笑う。


「ルカ」


「はい」


「わたしに触れたい?」


その瞬間、ルカの中で何かが止まった。


止まって、割れた。


触れたい。


答えは、問われる前から、もうそこにあった。今夜だけの話ではない。薬草茶を淹れるたびに。布の温度を確かめるたびに。アリッサが笑うたびに。その笑みが、少しだけ疲れているたびに。


触れたいと思っていた。


でも——


ルカの胸の奥で、別の顔が浮かんだ。


短く切りそろえた黒髪。少し強がりな目元。笑うと少しだけ眉が下がる——探している人の顔。


まだ、見つけていない。


まだ、見つけられていない。


その人を探しながら、今ここで別の誰かを求めることが、何かを裏切ることになるのか。ルカには分からなかった。分からないまま、何年も経った気がした。


でも今、目の前にアリッサがいる。


掛け布を握る指が、かすかに震えている。


寂しいと言った。行かないでと言った。今ここにいるのは自分だと言った。


アリッサの言葉は、いつも軽い。でも軽い言葉の下に、重いものが沈んでいる。それをルカは、ずっと見てきた。


どちらに誠実であるべきか。


答えは出なかった。


けれど、離れることだけは——できなかった。


「……その問いには、お答えできません」


「答えてるようなものだよ」


「アリッサ様」


「わたしは、触れてほしい」


ルカの目が、はっきり揺れた。


アリッサは言葉を続ける。ここで曖昧にしたら、また全部が霧になる気がした。


「かわいそうだから、とか、心配だから、とかじゃなくて」


「はい」


「わたしが、そうしたい」


ルカは目を伏せた。


「ご体調が」


「戻ってる」


「完全では」


「完全じゃなくても、選べる」


アリッサは掛け布から手を出した。指先はまだ少しだけ温かい。湯の名残が、皮膚の下に残っている。


「それに、今の私は、ちゃんと分かってる」


「何をですか」


「ルカが逃げようとしてること」


「逃げては」


「る」


アリッサはきっぱり言った。


「逃げてるよ。わたしを守る顔をして、自分も守ってる」


ルカは何も言わなかった。否定しない。それが、答えだった。


アリッサは少しだけ眉を下げた。


「でも、それが悪いとは思ってないよ。怖いんでしょ」


「……はい」


その短い返事で、胸の奥がきゅっと痛んだ。


ルカの怖さが、ようやく見えた気がした。アリッサを壊すこと。間違えること。誰かと誰かを取り違えること。戻れなくなること。きっと、そういうもの全部。


「わたしも怖いよ」


アリッサは言った。


「でも、怖いままでも、そばにいてほしい」


ルカは、長く沈黙した。やがて、ゆっくりと手を伸ばす。それでもまだ、触れる直前で止まった。


「本当に、よろしいのですか」


「うん」


「今なら、止められます」


「止めたくなったら言う」


「必ず」


「必ず」


アリッサは頷いた。


「ルカも、止めたくなったら言って」


「私は」


「ルカも」


アリッサが強く言うと、ルカはようやく頷いた。


「……はい」


その返事を聞いて、アリッサは彼の手に自分の指先を重ねた。ルカの手は、少し冷たかった。けれど、触れたところからすぐに温かくなる。


「冷たい」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいってば」


アリッサは笑った。ルカはその手を、そっと包む。


「アリッサ様」


「うん」


「私は、あなたを傷つけたくありません」


「知ってる」


「それでも、傷つけるかもしれません」


「その時は怒る」


「怒る」


「うん。ちゃんと怒る。だから、ルカもちゃんと謝って」


「……はい」


「謝るの得意でしょ」


「得意ではありません」


「でも、すぐ謝る」


「それは、あなたが」


「わたしが?」


ルカは言葉を止めた。アリッサは少し首を傾げる。


「何?」


「……あなたが、大切だからです」


その言葉は、静かだった。静かすぎて、

逃げ場がなかった。


アリッサは、しばらく何も言えなかった。それから、小さく笑う。


「そういうこと、言えるんだ」


「言うべきではありませんでしたか」


「ううん」


アリッサは首を横に振った。


「もう一回言って、って言ったら困る?」


「困ります」


「そっか」


「ですが」


ルカはアリッサの手を少しだけ強く包んだ。


「必要であれば、何度でも」


アリッサは目を伏せた。胸の奥が熱い。湯に入った時とは違う熱。身体の輪郭が、また少し変わっていく。


ルカは、もう一度だけ迷った。


それから、アリッサの頬に触れた。


その瞬間、また、重なった。


アリッサの顔の上に、別の顔が。


短い黒髪。強がりな目元。


ルカは息を止めた。


違う。目の前にいるのは、アリッサだ。


でも重なる。輪郭が。温度が。指先に伝わる熱が。


ルカは目を閉じた。


どちらを求めているのか、分からなくなりそうだった。


でも——アリッサは今、ここにいる。探している人は、まだどこにもいない。


いない人を待ちながら、いる人から離れることが、正しいのか。


正しくないのか。


答えは出なかった。出ないまま、ルカはゆっくりと目を開けた。


目の前にいるのは、アリッサだった。


重なりは、消えていた。


消えて——アリッサだけが、そこにいた。


それでよかったのかどうか、まだ分からない。


でも今は、それだけが、全部だった。


湯上がりの熱が、まだ少し残っていた。


「……失礼いたします」


「それ、今言うんだ」


「言わなければ、保てません」


「そっか」


アリッサは笑って、彼の手に頬を預けた。その笑みを見た瞬間、ルカの表情が崩れた。ほんの少しだけ。けれど、確かに。


アリッサはそれを見逃さなかった。


「ルカ」


「はい」


「来て」


今度は、ルカは離れなかった。


月明かりの中で、二人の影がゆっくり重なる。


アリッサは最後にもう一度、自分の名前を聞いた。


「呼んで」


「アリッサ様」


「うん」


ルカは、少しだけ間を置いた。


様をつけて呼ぶことは、距離だった。礼儀であり、壁であり、自分を保つための形だった。


その形を外すことが、何を意味するか。


分かっていた。


分かっていて、それでも——


探している人の名前が、胸の奥でかすかに揺れた。


ごめん、と思った。誰に向けているのか、自分でも分からない謝罪だった。


それでも、口が動いた。


「アリッサ」


敬称のない名前が、夜の奥に落ちた。


それだけで、身体のどこかがほどけた。


アリッサは目を閉じる。


その夜、店の奥の灯りは、いつもより少しだけ長く消えなかった。


湯気の匂いが薄れていく頃、アリッサは自分の身体の輪郭を、さっきよりもはっきり思い出していた。誰かの記憶ではなく。誰かの影でもなく。今、ここにいる自分として。


ルカの手が、何度もそれを確かめるように触れていた。


ルカは、アリッサの寝息が落ち着くまで、動かなかった。


月の光が、少しだけ傾いていた。


胸の奥には、まだ答えの出ない問いが残っている。


探している人のことを、考えた。


それから、今ここにいるアリッサのことを、考えた。


どちらも、本当のことだった。


どちらかが嘘になるわけではなかった。


でも、どちらも正しいままでいられるのか——それだけが、まだ分からなかった。


ルカは、アリッサの短い髪をひとすじだけ、そっと直した。


触れるか触れないかの、ほとんど気配だけの手つきで。


「……見つけなければ」


声は、ほとんど息だった。


誰にも聞こえない声で、ルカはそう言った。


その言葉が誰に向かっているのか——アリッサに向かっているのか、愛菜に向かっているのか、あるいは自分自身に向かっているのか。


月明かりだけが、答えを知っていた。


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