⑩ 海風の泉
話が一段落した頃、花凛は魔法用具店のカウンターで、借りた紙にメモを書いていた。
『風呂文化』
『香油と清潔は別』
『清め布の使い方』
『湿った布を使い回さない』
『傷口に触れる布は分ける』
『湯上がり着』
『乾きやすい素材』
『洗える美しさ』
『身体の輪郭を思い出す場所』
書きながら、現実のデザインノートと同じ感覚がした。
これは、服の話だ。
でも、服だけではない。
身体の話。
生活の話。
安心して息をするための話。
レイナの声が、胸の奥で小さく響いた。
『洗える美しさ』
「うん」
花凛は小さく答えた。
『花凛』
「何?」
『あの湯は、悪くなかった』
花凛は笑った。
「かなり気に入ってるじゃん」
『悪くなかったと言っただけよ』
「はいはい」
『でも』
レイナの声が、少しだけ真面目になる。
『あれが必要な人は、他にもいるかもしれない』
花凛は手を止めた。
「うん。私もそう思う」
館で息ができなかった人。
美しい服に閉じ込められている人。
香りで不調をごまかしている人。
身体の疲れに名前をつけられない人。
そういう人たちに、湯と布と休息が必要なのかもしれない。
アリッサは寝台からこちらを見ていた。
「花凛」
「はい」
「海風の泉って場所があるよ」
「海風の泉?」
「うん。水と風が強い場所。休むところ。泊まれるし、日帰りもできる」
「温泉みたいな?」
「おんせん?」
「あ、湯に浸かる場所、みたいな」
「近いかも。違うかも」
「どっちですか」
「行けば分かるよ」
またそれだ。
花凛は思わず眉を下げた。
「アリッサさん、それ多いです」
「便利だからね」
「便利で済ませてる」
「でも本当に、見た方が早いよ。水のことは、水の場所で聞くのがいいし」
ルカが静かに頷いた。
「海風の泉では、湯と水の扱いに独自の文化があります。ただ、清潔と療養が混同されている部分もあります」
「行きたいです」
花凛は即答した。
ユリウスが少し驚いたように見る。
「今度は泉か」
「はい。お風呂問題は大事なので」
「危機なのだな」
「危機です」
ユリウスは深く頷いた。
「ならば、備えよう」
ミモザも小さく手を上げる。
「私も、できるなら一緒に行きたいです。花凛様の言う、水と泡で休むことを、もっと知りたいので」
「ミモザ……!」
花凛は嬉しくなった。
「一緒に行こう」
「はい」
アリッサがその様子を見て、ふっと笑った。
「いいね。水の話をしに行くのに、こんなに人が集まるの」
「大事ですから」
「うん。大事」
アリッサは、自分の胸元に軽く手を当てた。
「身体が戻る場所は、たぶん、みんな必要だから」
その言葉は軽かった。
でも、部屋にいる全員が、少しだけ黙った。
花凛はメモの最後に、大きく書いた。
『次:海風の泉』
その文字の下に、もう一つ。
『身体を守る布』
書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに結ばれた気がした。
現実のコンテスト作品。
レイナの線。
アリッサの浴室。
ルカの衛生知識。
ユリウスの「見えない敵」という言葉。
ミモザの「戻る場所」という言葉。
全部が、少しずつ繋がっていく。
花凛は顔を上げた。
窓の外で、フローラミラージュの夕暮れが揺れている。
淡い藍色の空に、細い月が浮かんでいた。
この世界は美しい。
でも、美しいだけでは足りない。
人が生きるには、洗える場所がいる。
休める場所がいる。
息ができる服がいる。
花凛は、紙をそっと畳んだ。
次の糸口は、水の音のする場所にある。
そう思った。




