② 清め布では足りない
館の廊下に出ると、空気は冷たく澄んでいた。
壁には古い絵が飾られ、床には深い色の絨毯が敷かれている。
遠くで誰かが歩く音がした。けれど、その足音はすぐに消えた。
花凛が少し迷っていると、廊下の角からミモザが現れた。
柔らかな色の衣をまとった少女は、花凛の顔を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「花凛様。お目覚めでしたか」
「あ、ミモザ。おはよう」
「おはようございます。お身体は大丈夫ですか? 昨夜は、少し境界が揺れていたようでしたから」
「境界って、やっぱり分かるんだ……」
花凛は苦笑した。
ミモザは心配そうに首を傾げる。
「どこか、お辛いですか?」
「辛いというか……切実に確認したいことがあって」
「はい」
「お風呂って、どこにありますか」
ミモザは、きょとんとした。
「おふろ」
「はい。身体を洗うところです」
「洗う……?」
ミモザは少し考え込んだ。
その反応だけで、花凛の中の嫌な予感が一段階強くなった。
「えっと、お湯を張って、身体を洗ったり、浸かったりする場所」
「ああ、湯浴みのことですか?」
「たぶんそれ」
ミモザは納得したように頷いた。
「でしたら、清め布と香油をお持ちしますね」
「……清め布」
「はい。香油を含ませた布で、お身体を清めます。香りは落ち着くものがよろしいですか? それとも、目が覚めるもの?」
「待って待って、香りの問題じゃなくて」
花凛は両手を小さく振った。
「お湯は?」
「温めた水なら、ご用意できます」
「浴槽は?」
「よくそう?」
ミモザが不思議そうに首を傾げた。
花凛は、心の中でそっと頭を抱えた。
やっぱりだ。
ない。
少なくとも、現代日本的な意味でのお風呂は、一般的ではない。
昔の大正時代やロココの文化の系譜を繋いでいる。
でもそれにしても日本は温泉文化があり
綺麗好きだったはず。
ここはどうやらヨーロッパ寄りのようだった。
「毎日、湯に浸かったりはしないの?」
「毎日?」
ミモザは目を丸くした。
「それは、とても贅沢な清めです。身体が弱っている方や、祭礼の前には湯を使うこともありますけれど、普段は清め布と香油で十分かと」
十分ではない。
花凛は思った。
全然、十分ではない。
けれどミモザは悪くない。
これは文化の差だ。
ミモザにとっては、香油で清めることが丁寧なケアなのだろう。
香りを選ぶことも、身体を整えることの一部なのだ。
でも、花凛の身体感覚では、足りない。
「ミモザ、香油が悪いわけじゃないの」
「はい」
「香りで落ち着くのは分かる。清め布も、身体を拭くには大事だと思う。でも……」
花凛は、自分の腕を見下ろした。
「汗とか、汚れとか、肌に残るものを、ちゃんと洗いたいの。香りじゃなくて、水と泡で落としたい」
「水と泡……」
ミモザはその言葉を、宝石の名前でも聞いたみたいに繰り返した。
「それは、現実の世界では普通のことなのですか?」
「うん。毎日お風呂入る人も多いし、シャワーだけでも浴びたりする」
「毎日……」
ミモザは少し驚いた顔をして、それから真剣に頷いた。
「花凛様の世界では、身体を休めるために湯を使うのですね」
「そう。まさにそれ」
花凛は勢いよく頷いた。
「清めるだけじゃなくて、休めるため。自分の身体に戻るため」
ミモザは、その言葉で少し表情を変えた。
「自分の身体に、戻る」
「うん」
花凛は小さく息を吐いた。
「こっちに来てから、身体が自分のものなのか分からなくなることが多くて。レイナのこともあるし、鏡のこともあるし。だから、お湯に浸かって、ちゃんと身体を感じたいんだと思う」
ミモザは黙って花凛を見ていた。
その目は、ただ説明を聞いている目ではなかった。
花凛の言葉の奥にある疲れを、そっと受け止めようとしている目だった。
「……でしたら」
ミモザは静かに言った。
「清め布だけでは、足りませんね」
花凛は、思わず顔を上げた。
「分かってくれる?」
「はい。花凛様が必要としているのは、香りではなく、戻る場所なのだと思います」
戻る場所。
その言葉に、花凛の胸が少し熱くなった。
「でも、館の湯浴みの間は、今はほとんど使われていません」
「やっぱり?」
「準備に人手がかかりますし、水も薪も多く使います。けれど……」
ミモザは少し考えたあと、顔を上げた。
「アリッサ様のお店なら、もしかすると」
「アリッサさんの店?」
「はい。あのお店の奥には、特別な浴室があると聞いたことがあります」
花凛の中に希望の光が差した。
「浴室……!」
「ただ、詳しいことはルカ様にお尋ねした方がよいかと。あの方は、湯の温度や布の扱いにとても細かいので」
「ルカさん、やっぱり」
花凛は両手を握った。
風呂の気配がする。
かなりする。
「ミモザ、ありがとう。私、アリッサさんの店に行ってみる」
「私もご一緒します」
「え、いいの?」
「はい。花凛様が戻る場所を探すなら、ひとりで行かせたくありません」
ミモザは少し照れたように微笑んだ。
「それに、私も知りたいです。水と泡で身体を休める、ということを」
花凛は頷きかけた。
その時、廊下の向こうから足音がした。
「それは、俺も同じだ」
ユリウスだった。
いつものように姿勢がよく、けれど表情は少し硬い。
「ユリウスさん」
「花凛」
彼は花凛を見て、それからミモザを見た。
「館の外へ行くのか」
「アリッサさんのお店までです」
「ならば、俺も行く」
「心配してくれてるんですか?」
「それもある」
「それも?」
ユリウスは少しだけ言葉に迷った。
「……今の君を、館の外へ一人で出すことはできない」
その言い方で、花凛は理解した。
護衛。
そして、監視。
ユリウスは花凛を疑っているわけではない。
けれど、レイナに関わる以上、完全に自由にはできないのだ。
館はまだ、レイナを許してはいない。
あるいは、何が起きるか分からないものとして見ている。
そして今、花凛の身体は、その問題の中心にいる。
「分かりました」
花凛は小さく頷いた。
「じゃあ、監視つきのお風呂探しですね」
ユリウスの眉がわずかに動いた。
「……言い方を変えてくれ」
「護衛つき?」
「そちらの方がいい」
ミモザが少しだけ困ったように笑った。
花凛も笑った。
けれど、胸の奥には小さな重さが残った。
風呂を探すだけなのに。
それでも、この身体はまだ自由ではない。




