⑥ 蒼が知ったこと
昼過ぎ、蒼は台所で簡単な食事を作った。
同じ家の中にいるのに、蒼は必要以上に近づかない。
キッチンから声をかける時も、食器を置く時も、ほんの少し距離を取る。
その距離が、いかにも反省中という感じで、レイナは内心で少しだけ呆れた。
ただ、反省していること自体は悪くない。
現実世界の台所は危険物が多い。
火を使わないのに温まる箱。
小さな音を立てる機械。
水が蛇口から無限に出る設備。
刃物。
白くて冷たい箱。
その中で蒼は、意外なほど普通に動いていた。
「あなた、料理ができるのね」
「簡単なのだけ」
「花凛も?」
「できるけど、追い込まれると食べるの後回しにする」
「愚かね」
「それ本人にも言ってやって」
「言うわ」
蒼は少し笑った。
食卓に並んだのは、温かいスープと、焼いたパンと、果物だった。
レイナは慎重にスープを飲んだ。
熱い。
けれど、身体に落ちていく感覚があった。
「悪くないわ」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
「分かりにくいな」
「慣れなさい」
蒼は苦笑した。
食事の途中、彼はふと真面目な顔になった。
「レイナ」
「何」
「花凛は、向こうで大丈夫なのか」
レイナはスプーンを置いた。
その問いは、避けられないものだった。
「分からない」
「君のいた場所って、危ないのか」
「危ないものもある。優しい場所もある」
「花凛は、戻ってこられる?」
レイナはすぐには答えられなかった。
戻ってこられる。
そう言いたかった。
でも、言い切ることはできない。
「戻ると思う」
「思う?」
「花凛は、戻りたいと思っているはずだから」
蒼はじっとレイナを見ていた。
「君は?」
「私?」
「君は、戻りたいのか」
その問いに、レイナは息を止めた。
戻りたい。
どこへ。
館へ。
フローラミラージュへ。
自分の身体へ。
自分の問題へ。
答えは簡単ではなかった。
「私は」
レイナはゆっくり言った。
「知らないままでいるのが嫌なの」
蒼は黙って聞いていた。
「だから、戻りたいというより、知りたい。私に何が起きているのか。花凛とどう繋がっているのか。アリッサ様が何を抱えているのか」
「アリッサ?」
蒼が聞き返す。
レイナは一瞬、しまったと思った。
けれどもう、隠す意味は薄い。
「向こうにいる人よ。アリッサの魔法用具店の主」
「アリッサ……」
蒼はその名前を繰り返した。
「勇気が探してる愛菜って人と、関係あるのか」
レイナは蒼を見た。
「あなたも、愛菜という名前を知っているのね」
「勇気から聞いた。花凛の家に来た時に」
蒼の表情が曇る。
「ずっと探してる人だって。いなくなったって」
「そう」
「君は知ってるのか。愛菜さんのこと」
「私は知らない」
レイナは正直に答えた。
「けれど、花凛は記憶の鏡で何かを見た。愛菜という名前は、こちらだけではなく、向こうにも落ちている」
蒼は眉を寄せた。
「向こうにも……」
「そして、ルカという男もその名に反応した」
「ルカ?」
「アリッサ様に仕えている人」
蒼はしばらく考え込んだ。
「勇気と、そのルカって人は関係あるのか」
「分からない」
「分からないことだらけだな」
「ええ」
レイナはスープの表面を見た。
揺れる湯気が、小さな鏡のように見える。
「でも、分からないままにしておくつもりはないわ」
蒼は小さく頷いた。
「俺も、知りたい」
「あなたも?」
「花凛が関わってるなら」
蒼は静かに言った。
「知らないまま待ってるだけは、きつい」
レイナは蒼を見た。
この男は、寝ぼけて事件を起こす。
朝の治安は悪い。
だが、起きている時は、思ったより誠実だ。
そこは認めてもいい。
「では、あなたも見ることね」
「何を」
「花凛の現実を」
レイナは机の方を見る。
「彼女が何を作ろうとしているのか。何を怖がっているのか。何を守ろうとしているのか」
蒼は、真剣な顔で頷いた。
「分かった」
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