③ 魔法の布は悲鳴を上げる
塔の内部は、外から見た以上に異様だった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。外の冷たさとは違う、古い絹の匂いに似た、甘くて少し重い空気。花凛は思わず息を浅くした。
円形の吹き抜けの中央に、何本もの巨大な布が垂れ下がっている。帯のようでも、幕のようでもある。白銀、淡青、薄紫、灰桜。夜の色を集めて織ったみたいな長布が、微かな光を放ちながら空中に浮いていた。光源はどこにもない。布そのものが、内側から滲み出るように輝いている。
それでも花凛の目は、光よりも先に、ある一枚へ引き寄せられた。
その一枚に、裂け目があった。
正確には、裂けかけていた。
布そのものが破れているというより、織り込まれた文様の一部がほどけ、そこから黒い染みのようなものがじわじわと広がっている。まるで滲んだインクのようにも見えたが、液体ではなかった。光の欠落、とでも言うべきものだ。そこだけが静かに、世界から抜け落ちていくようだった。
「……違う」
気づけば、花凛は呟いていた。
言葉にしてから初めて、自分が何かを見ていたことに気づく。観察していたのか、感じていたのか、もう区別がつかなかった。
セレスティアの眉がぴくりと動く。
「何が?」
「壊れ方。これ、内側からだけじゃない。外から補強した跡が変な方向に引っ張ってる」
一同が静まる。
花凛は自分でも驚いたが、もう止まれなかった。口が言葉を先取りしていく感じがした。縫い物をしているとき、手が考えるより先に動くのと同じ感覚だった。
「この縁、元の織りは流れるように力を逃がす形なのに、途中で別の糸が混ざってる。たぶん補修したんだと思う。でもその糸、硬すぎる。しなりがないから、負荷が一点に集まってる」
ユリウスが裂け目を見上げる。
セレスティアは黙ったままだ。
花凛は言葉を探しながら続けた。この世界の人間にわかるように言うには、どう言えばいいだろう。服で例えるしかない。
「たとえば柔らかい生地に急に針金みたいな芯を入れたら、そこだけ動きが変になるでしょ。見た目が綺麗でも、着たらすぐ歪む。こういう補修って、形だけ整えても中の力の流れが壊れてたら意味がなくて。これもそれに近い」
「……面白いことを言うのね」
セレスティアの声は冷たいままだったが、最初の棘が少しだけ薄れた。研ぎ澄まされたナイフが、わずかに角度を変えたような変化だった。
「でも布なんでしょ」
花凛は反射的に言った。
「魔術でも何でも、布として無理な織り方してたら壊れるよ」
言ったあとで、しまったと思った。相手は明らかにここの管理者か、それに近い立場の人間だ。素人が上から物を言うみたいになってしまった。
だがセレスティアは怒らなかった。じっと花凛を見つめ、何かを測るように間を置いて、やがて言う。
「……触れてみなさい」
「セレスティア!」
ユリウスが鋭く制する。
「危険だ」
「だからこそよ。無関係なら拒まれる。関わりがあるなら、反応が出るでしょう」
逃げ場はなかった。
花凛は息を吸った。吐いた。もう一度吸う。
こういうとき、怖いと思う前に手が動くのが自分の癖だと、ずっと前から知っていた。怖いと思う前に布を持つ。考える前に指が動く。今もそうだった。
そっと手を伸ばした。
指先が、裂け目の少し下に触れる。
ひやり、とした。
絹に近い、けれど絹ではない。指の腹が最初に拾ったのは温度だった。冷たい。でも金属や石の冷たさではなく、長い時間をかけて熱を失った、生き物の皮膚みたいな冷たさだった。
それから、重さ。
布なのに、圧がある。押し返してくるわけでも、引き込んでくるわけでもない。ただそこに、確かな存在感があった。無視できない密度。
次第に、布の質感が手のひら全体に広がってきた。経糸と緯糸の交差点が、細かく指先に伝わってくる。整っているようで、整っていない。ある箇所だけ、リズムが崩れている。いびつな結び目を親指で撫でるときのような、ひっかかり。
糸が、鳴いている。
そんな気がした。一本一本が張り詰めて、悲鳴を上げている。重い。苦しい。噛み合っていない。言葉にならない違和感が、手のひらから腕を伝い、胸の奥まで流れ込んでくる。
花凛は目を閉じた。閉じなければ、立っていられない気がした。
感触の中に、構造が見えてくる。本来の織り、後から入れられた糸、そしてその糸が作った歪み。補修した人間は悪意があったわけじゃないと思う。
急いでいたのか、正しい糸を持っていなかったのか。でも結果として、直そうとしたその場所が、今一番壊れかけている。
その感覚の中に、もうひとつ別のものが混ざっていた。
汚れではない。
傷みでもない。
何かを隠すように上から塗り固めて、見た目だけを保った跡。
誰かが、意図的に覆ったのだ。
花凛は息を呑む。
この世界は、もしかしたら、布だけじゃない。
都そのものが、どこか似たような壊れ方をしているのかもしれなかった。綺麗な表面の下で、誰かが力技で押し込めたものが、じわじわと滲み出している。
「……っ」
視界が揺らぐ。
薄暗い牢。
真っ赤な糸。
鏡の前に立つひとりの少女。
振り返ったその顔は、花凛と同じだった。
同じなのに、違った。目の奥に、花凛の知らない疲れが溜まっていた。長い時間をひとりで抱えてきた人間の目だった。
『勝手にわたしの身体を使わないで』
声が、頭の内側に落ちる。
花凛は息を呑む。
『でも、壊されたくないなら縫って』
「え……」
『そこ、裏側の糸から』
次の瞬間、花凛の身体が勝手に動いた。
「針!」
AIと一緒に描いてると暴走するから制御大変、、、。
Claudくんが新しく仲間に入りました




