②鐘が鳴る、結界布が裂ける夜
部屋の空気が、ひやりと凍った。
ミモザが小さく息を呑む。
花凛はとっさに返事ができなかった。
否定すれば、何が起きるのかわからない。
肯定したところで、この目の前の青年の視線はきっと誤魔化せない。
沈黙だけが、じわじわと伸びていく。
やがて花凛は、掛け布団の端をぎゅっと握りしめたまま、かすれた声で言った。
「……違う」
その一言で、ミモザの顔がさっと青ざめた。
花凛は、自分が悪いことをしたわけでもないのに、なぜかとても酷いことをしてしまったような気分になった。
たぶんこの子は、レイナという少女のそばにずっといたのだろう。
自分はその場所に、知らないまま立ってしまっている。
「ごめんね……。何もわからないの。私はレイナじゃないってことしか、知らない。レイナって……誰?」
青年の表情は動かなかった。
けれど、その沈黙の奥で、何かが決定的に噛み合ってしまった気配がした。
「やはりか」
低い声だった。
驚きよりも、確信のほうが強い響き。
「そして、あなたは……誰?」
思わずこぼれた問いに、青年は一瞬だけ眉をひそめた。
「そこからか」
呆れたような、けれど見下したわけではない声音だった。
「ずっと様子がおかしいとは思っていた。言葉も視線も、ときどき別人のようだった」
短く息を吐いてから、彼は言った。
「俺はユリウス。レイナの護衛兼、監視役だ」
護衛と、監視。
やけに物騒な二つの言葉に、花凛の背中が冷たくなる。
「監視役って……」
「今のレイナには、それが必要だった」
今のレイナ。
つまり、本来この身体にいるはずの少女のことだろう。
「ねぇ、それってどうい──」
問いを重ねかけた、そのときだった。
遠くで、鐘が鳴った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
澄んでいるのに、不吉なほど高い音だった。
耳に届くたび、胸の奥に細い針が刺さるみたいに落ち着かない。
ミモザが、悲鳴に近い声を上げた。
「封印塔の鐘です!」
ユリウスの顔つきが一変する。
「最悪だ」
「なにが起きてるの?」
「説明している時間がない」
彼は花凛に向かって手を差し出した。
「立てるか」
さっきまで正体を疑っていたくせに、この人はもう次の局面へ進んでいる。
切り替えの速さに、花凛の頭がついていかない。
「待って、状況が……」
「待てない。君が誰であれ、もう巻き込まれている」
その言い方に、花凛はほんの一瞬だけ救われた。
レイナでなくてもいい。
少なくとも今は、そう聞こえたからだ。
花凛は迷いながらも、意を決してその手を取った。
思ったよりも、温かかった。
⸻
廊下へ出た瞬間、花凛は息を呑んだ。
長い回廊は、宮殿と旧家を無理やり継ぎ接ぎしたみたいな不思議な造りをしていた。
天井には繊細な漆喰飾りが走り、壁には金の縁取りが施されている。なのに足元には艶のある木板が続き、ところどころに障子めいた格子がはめ込まれていた。
西洋の館の華やかさと、日本家屋の静かな気配が、奇妙なくらい自然に同居している。
ふと、花凛は以前見た古い屋敷を思い出した。
長野の岡谷で、恋人と一緒に訪れた旧林家住宅。
あの屋敷も和と洋が同じ敷地に並んでいたけれど、もっときっぱりと境界が分かれていた。
和室は和室、西洋館は西洋館、と言い切れる感じだった。
けれど、ここは違う。
混ざっているのに、ちぐはぐではない。
むしろ最初から、こういう世界だったみたいに馴染んでいる。
ぼんやりそんなことを考えていると、その向こうを侍女や兵士らしい人々が慌ただしく走り抜けていった。
「頭を下げて。今は誰とも目を合わせるな」
ユリウスが低く囁く。
花凛はこくりと頷き、薄紫の寝間着の裾を押さえながら歩いた。
そのとき、すれ違った女官の袖口がふと目に入る。
刺繍は見事だった。
糸の艶も、柄の組み方も美しい。
なのに、布端の始末がほんの少しだけ粗い。
花凛は無意識にそんなところを見てしまう自分に、変な気分になった。
こんな状況なのに。
どこに連れていかれるのかも分からないのに。
なのに目は勝手に、縫い目や布の落ち方を追ってしまう。
豪奢な香の匂いの奥に、汗と薬草をごまかしたような匂いが混じっていた。
綺麗なのに、整っていない。
華やかなのに、どこか余裕がない。
不快、と言い切るには少し違う。
でも、胸の奥に薄いざらつきが残る。
花凛が恋人と一緒に見る景色は、たいていいつも綺麗だった。
同じ場所でも、隣にいる人が違うだけで景色の見え方まで変わってしまうのだと、こんなときに思い知る。
ここには、恋人がいない。
その事実が、急にひどく心細かった。
「封印塔って何?」
足早に進みながら、花凛は小声で尋ねた。
「この屋敷の北棟にある塔だ。魔力の暴走を抑えるためのものでもあり、罪人を封じるためのものでもある」
「罪人……」
「レイナが関わっている」
花凛の足が止まりかけた。
「待って。わたし、その人じゃない」
「分かっている」
「でも身体はレイナなんでしょ。だったら捕まるのは……」
「だから急いでいる」
そこでようやく、ユリウスが振り返った。
暗い回廊の灯りの下で見る彼の顔は、思っていたよりずっと若い。
若いのに、その目だけが妙に疲れている。
「今の君が何者かは知らない。だが少なくとも、昨夜までとは違う。そしてこの異変は、君が来た夜に限って起きることが多い」
「それって、わたしのせいってこと?」
「そうは言っていない」
けれど、強くも否定しない。
その曖昧さがいちばん怖かった。
花凛は唇を噛む。
ここには恋人もいない。
事情を知っている人もいない。
名前を呼んでくれる人すら、自分のことを自分として見ていない。
私は、ひとりぼっちなんだ。
そう思った瞬間、急に喉の奥が詰まりそうになった。
説明もされないまま走らされ、疑われ、どこへ行くのかもわからない。
現実なら、こんなの絶対に嫌だ。
布団に潜って、知らないふりをしていたい。
でも、ここには自分の布団なんてない。
回廊を抜けると、空気がふっと変わった。
冷たい夜気が頬に触れる。
窓の外には夜の庭園が広がり、そのさらに奥に、黒い影のような塔がそびえていた。
細く高く、先端へいくほど棘のような装飾が増えている。
まるで巨大な針山だ、と花凛は思う。
服飾のことばかり考えている自分の頭に、こんなときちょっとだけ呆れた。
塔のまわりには、すでに何人もの人が集まっていた。
女官、兵士、学者めいた老人たち。
皆一様に、緊張した面持ちで塔を見上げている。
その中心に、ひときわ目を引く女がいた。
艶やかな黒髪を高く結い、深い紫の着物にロココ調のコルセットを重ねたような衣装を纏っている。
美しい顔立ちなのに、その目は刃物のように冷たかった。
せっかく肌が白いのに、唇にはくすんだ色のリップ。
似合わない、というより、わざと血色を消しているみたいだった。
どうしてそんなところばかり目につくのか、自分でもわからない。
けれど花凛にとって、服も化粧も、その人が何を隠したいのか、何を見せたいのかを語るものだった。
「……ようやく起きたのね、レイナ様」
呼び方は丁寧なのに、敬意はまるで感じられない。
ユリウスが一歩前へ出る。
「レイナ様は体調が優れません。今は事情聴取よりも──」
「封印塔の綻びより優先すべきことが?」
女はゆるやかに扇を開き、そのまま花凛へ視線を戻した。
「宵宮家当主補佐、セレスティアと申します。今夜の異変が偶然だと思っていない者が、ここには大勢おります」
花凛は身を強ばらせた。
「……わたしは」
「言い訳は結構」
しゃらり、と扇が鳴る。
花凛は思わず、その扇に目を留めた。
乳白色の艶。
細やかな彫り。
あれ、象牙ではないだろうか。
今の時代なら、そんなもの簡単には使えないはずだ。
禁止されているものを、当たり前みたいに手にしている。
その小さな違和感に気を取られていると、わざとらしい咳払いが聞こえ、花凛ははっと現実へ引き戻された。
「塔の結界布が破断しかけています」
セレスティアの声は、よく通るのに冷たい。
「しかも破れ方が妙だ。刃物でも爪でもない。織り目だけが選り分けられたように切れている」
花凛は思わず顔を上げた。
「……布?」
「ええ」
セレスティアが細く目を眇める。
「封印塔の結界は、特別な布で編まれております。魔術式を糸に織り込み、幾層にも重ねたものですから」
その言葉に、花凛の胸がどくりと鳴った。
布に、魔法。
比喩じゃない。
飾りでもない。
ここでは本当に、糸と織りと布そのものが力を持つのだ。
花凛は塔を見上げた。
黒い夜空に突き刺さるようなその影のまわりで、見えないはずの何かがぴんと張り詰めている気がする。
もし本当に、布が人を守れる世界なのだとしたら。
もし本当に、糸に祈りや術を織り込めるのだとしたら。
それは花凛がずっと夢見ていたものに、あまりにも近かった。
ただ綺麗なだけじゃない服。
ただ着飾るためだけじゃない布。
誰かを守って、支えて、傷ついた心にそっと寄り添えるような、お守りみたいな服。
そんなものが、本当にある世界。
怖い。
わけがわからない。
今すぐ帰りたい。
なのに胸の奥の、服を好きな自分だけが、どうしようもなく震えていた。
知りたい、と。
なんとなく書きたくなったので更新。
さいきんのチャッピーすげぇな、私が続きを読みたくなってるまである。




