② 机の上の異世界
レイナは机の上に散らばる布の線を見つめた。
そこには、見覚えのある曲線が描かれていた。
館の廊下。
記憶の鏡の縁。
アリッサの店に並ぶ小瓶。
そして、レイナ自身の知らないはずの感情。
花凛は、こちらの世界を現実の服にしようとしている。
そのことに気づいた瞬間、レイナの胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……花凛は、これを作るのね」
蒼はまだ困惑していたが、その言葉には素直に頷いた。
「うん。たぶん、すごく大事にしてる」
「そう」
レイナはデザイン画を一枚、丁寧に机へ戻した。
夢ではない。
異世界でもない。
ここにも、戦う場所がある。
そして、それはどうやら。
締切という名の、かなり凶悪な敵らしかった。
「締切というのは、敵なの?」
「敵……まあ、敵みたいなもんかな」
蒼はまだ状況に追いついていない顔で、ゆっくり布団から出た。
起き上がる動きが慎重だった。
さっきの件を引きずっているのが分かる。
レイナはその様子を横目で見た。
「あなた、今後は寝る前に両手の置き場を決めておきなさい」
「はい……」
「返事だけはいいのね」
「実行します……」
「本当でしょうね」
「ほんとに」
蒼は両手を胸の前に上げて見せた。
「今後、寝起き半径一メートル以内では腕を動かさないよう努力する」
「努力では足りないわ。規則にしなさい」
「寝起き規則……」
「守れないなら、床で寝なさい」
「はい……」
蒼があまりにも素直なので、レイナは深く追及する気を失った。
かわりに、机の上へ視線を戻す。
紙が何枚も重なっている。
鉛筆の線。消しゴムの跡。修正された肩線。布の流れ。
端には花凛の字で、いくつも言葉が書かれていた。
『一枚布』
『締めつけない』
『帯?サッシュ?』
『和×ロココ』
『鏡の縁』
『洗える?』
『身体に負担がない形』
『サリー ドゥパッタ ドレープ』
レイナは、最後の単語で目を止めた。
「サリー……?」
「ああ、それ昨日調べてたやつ」
蒼が言った。
「布を巻く服、みたいな。花凛、今コンテスト用のデザインで、一枚布とか、巻く構造とか調べてる」
「縫わないの?」
「縫わない、か、縫う部分を少なくするのかな。身体に負担が少なくて、調整できる服にしたいって言ってた」
身体に負担が少ない服。
レイナは、その言葉をゆっくり繰り返した。
服とは、美しく見せるためのものだと思っていた。
身分を示すもの。
役割を示すもの。
人にどう見られるかを決めるもの。
けれど花凛は、身体を守るものとして服を見ている。
それは、レイナには少し不思議で、少し眩しかった。
「身体に合わせて変わる服……」
レイナは、紙の端に描かれた布の流れを指でなぞった。
その線は、館のカーテンに似ている。
けれど閉じ込めるためではなく、身体を逃がすための布に見えた。
蒼は近くの棚から、花凛が開いたままにしていた本を取った。
「これ、見てた。インドの衣服の資料っぽい」
開かれたページには、長い布を身体に巻きつけた衣装の図が載っている。
レイナは思わず身を乗り出した。
布が、身体の線に沿って落ちている。
縫い込まれていないのに、形がある。
固定されているようで、自由がある。
「不思議ね」
「そう?」
「一枚の布なのに、服になっている」
「花凛もそれ言ってた」
蒼の声が少し柔らかくなる。
「一枚布って、着る人の身体に合わせて変わるからいいんだって。作る側が全部決めるんじゃなくて、着る人がその日の身体で完成させる感じがするって」
レイナは本のページを見つめた。
着る人が、その日の身体で完成させる。
そんな考え方があるのかと思った。
館では、服は役割を着るものだった。
誰かに決められた姿になるためのものだった。
けれど花凛の線は違う。
人を決めるためではなく、人に合わせるために引かれている。
「……花凛は、変な人ね」
「それ、本人もよく言われてる」
「でも」
レイナは、デザイン画の端をそっと押さえた。
「悪くないわ」
蒼は少しだけ笑った。
「たぶん、本人が聞いたら喜ぶ」
「そう」
レイナは視線を上げずに言った。
「では、起きたら伝えなさい」
「伝える」
「あと、三件目未遂も」
「それも……伝える」
蒼は再び項垂れた。




