①目覚めれば締切、隣には蒼
目覚めた瞬間、レイナはまず天井を見た。
違う。
また違う。
館の天井ではない。
花凛の部屋だ。
柔らかい布団。
軽い空気。
窓の向こうから入る、現実世界の朝の光。
そして。
隣に、人がいる。
「…………」
レイナは、ゆっくりと横を向いた。
蒼がいた。
花凛の恋人。
朝。
寝起き。
至近距離。
一件目は、寝起きのキスだった。
あれは事故だ。
完全に事故だ。
少なくとも、レイナの落ち度ではない。
問題は二件目である。
蒼がまた寝ぼけた顔で近づいてきた。
またキスされると思って、レイナは反射的に身を引いた。
けれど花凛の身体は、レイナの思った通りには動かなかった。
布団に足を取られ、体勢を崩し、気づけば蒼の首筋のあたりに倒れ込んでいた。
あの一瞬の沈黙。
蒼の寝息。
自分の頬に触れた体温。
首筋に落ちた髪。
あれを事故と呼ぶには、あまりにも気まずかった。
そして、思い出すだけで腹立たしいほど恥ずかしい。
蒼はまだ眠っていた。
寝息は静かで、顔には警戒心の欠片もない。
敵意も、悪意も、計算もない。
ただ眠っている。
その無防備さが、逆に腹立たしい。
「……なぜ、また隣にいるの」
レイナは小さく呟いた。
その時だった。
蒼が、寝ぼけたまま腕を伸ばした。
レイナは固まる。
腕が近づく。
肩を越える。
胸元のあたりへ、ふらふらと。
「……は?」
次の瞬間、レイナは反射的にその手首をつかんだ。
「起きなさい」
「ん……花凛……?」
「その名前で誤魔化せる段階は終わったわ」
「んー……寒い……」
「寒いからといって、どこに手を伸ばしているの」
蒼は半分眠ったまま、何も分かっていない顔をしている。
レイナは彼の手首をつかんだまま、じわじわと力を込めた。
「今すぐ起きなさい」
「……ん?」
「今。すぐ」
低い声で言うと、蒼の瞼がようやく開いた。
数秒、ぼんやりとレイナを見る。
それから、自分の手首が捕獲されていることに気づく。
「……え」
「三件目は許さないわよ」
「三件目?」
蒼はまだ半分眠っている顔で聞き返した。
レイナは、つかんだ手首をほんの少し持ち上げる。
「一件目。寝起きのキス」
蒼の瞼が少しだけ開いた。
「二件目。キス未遂」
「……え?」
「私が避けたら、なぜかあなたの首筋のあたりに倒れ込むことになった」
「待って、それ俺が悪いの?」
「発端はあなたよ」
「発端」
「寝ぼけて近づいてこなければ、私は避けなかった」
「それは……はい」
「そして今。三件目」
レイナは、蒼の手首をきつくつかんだ。
「胸元に手を伸ばした」
蒼の顔から、ようやく血の気が引いた。
「……俺、また何かした?」
「“また”という自覚があるのね」
「いや、今の言い方で分かった。俺、前にも何かしたんだな」
「二件」
「二件……」
「今回を入れれば三件目。ただし今回は未遂」
蒼は数秒停止した。
それから、両手で顔を覆おうとして、まだ片手首をレイナにつかまれていることに気づく。
「終わった……」
「終わりかけたのは私の平穏よ」
「本当にごめん。まず今の、ごめん。寝ぼけてたとはいえ、完全に俺が悪い」
「早いわね」
「これは早く謝る案件だろ」
「では、二件目については?」
「二件目、それ俺が全部悪いのか……?」
「全部とは言っていないわ」
「言ってないだけで目が言ってる」
「発端はあなた」
「はい……」
蒼は項垂れた。
「寝起きの俺、信用なさすぎる」
「ないわ」
「即答」
「実績があるもの」
「反論できない」
レイナはようやく彼の手首を離した。
蒼は両手を上げた。
降伏の姿勢だった。
「本当に悪かった。触ってない?」
「触る前に捕まえた」
「よかった……いや、よくないけど……よかった……」
蒼は両手で顔を覆った。
「朝から最悪の男になりかけた……」
「なりかけた自覚があるなら、まだ救いはあるわね」
「花凛、今日めちゃくちゃ言葉きつくない?」
レイナは黙った。
ここで、花凛ではないと言うべきなのか、一瞬迷う。
けれど、言ったところで信じるだろうか。
眠るたびに身体が入れ替わる。
自分はレイナで、ここは花凛の現実で、あなたの隣にいるのは花凛の身体だが花凛ではない。
まともに聞けば、頭のおかしい話だ。
レイナは結局、ため息だけを返した。
「……今日は、ではないわ。あなたの行動が悪いの」
「それは本当にそう」
蒼は素直に項垂れた。
「ごめん、花凛。ほんとに。寝ぼけてたとはいえ、今のは完全に俺が悪い」
花凛。
その名で呼ばれて、レイナの胸の奥が少しだけきしんだ。
自分ではない名前。
自分のものではない身体。
自分のものではない関係。
その全部の中に、今自分は座っている。
「……あなた」
「はい」
「花凛には、いつもこうなの」
「こうって、寝ぼけて変なことするかって意味なら、違う。違います。絶対違う」
「必死ね」
「必死にもなるだろ……」
蒼は顔を覆ったまま、深く息を吐いた。
「いや、たぶん距離感が近くなりすぎてた。ごめん。ちゃんとする」
「ちゃんとしなさい」
「はい」
あまりに素直なので、レイナは逆に拍子抜けした。
もっと言い訳をするかと思った。
あるいは、笑ってごまかすかと。
けれど蒼は、ちゃんと焦って、ちゃんと謝っている。
それが分かってしまったから、怒りを持続するのが少し難しくなった。
「……花凛は」
レイナはぼそりと言った。
「普段、あなたにこんな近くで寝ることを許しているの?」
蒼は一瞬黙った。
それから、少し困ったように目を伏せる。
「許してる、っていうか……一緒に住んでるから。疲れてる時とか、不安そうな時とか、隣にいた方が落ち着くこともあるし」
「不安そう?」
「うん」
蒼の声が、少しだけ真面目になる。
「花凛、寝てる時も力入ってることあるから。そういう時は、近くにいた方が安心するのかなって」
レイナは、何も言えなくなった。
花凛の身体の奥に、自分がいる。
自分が知らない花凛の疲れを、蒼は知っている。
それが少しだけ悔しくて、少しだけ安心した。
「……なら、今後は寝ぼけた手の管理を徹底しなさい」
「はい」
「次はないわ」
「はい」
「花凛にも報告する」
蒼が固まった。
「え、花凛にも?」
「あなた、花凛に謝っていたでしょう」
「いや、目の前にいるし……」
「そうね」
レイナは、少しだけ視線を逸らした。
「でも、今の私は、あなたが思っている花凛とは少し違うかもしれない」
蒼の表情が変わった。
「……花凛?」
「今は説明しないわ」
「待って。それ、どういう意味?」
「説明できるほど、私も整理できていない」
蒼は黙った。
彼は、レイナをじっと見ている。
顔は花凛のもの。
声も、おそらく花凛のもの。
でも、目つきも、言葉の選び方も、距離の取り方も違う。
蒼はようやく、何かがおかしいと気づいたようだった。
「……本当に、花凛?」
レイナは答えなかった。
答えないことが、答えになることもある。
蒼は息を呑んだ。
「前回も」
蒼が小さく言った。
「少し変だと思った。寝起きだからかと思ってたけど……違うな」
「気づくのが遅いわ」
「じゃあ、本当に……花凛じゃないのか?」
レイナは、少しだけ目を伏せた。
「今の私は、あなたが思っている花凛ではない」
蒼の顔色が変わった。
「それ、どういう意味」
「説明できるほど、私も整理できていない」
「待って。じゃあ花凛は?」
その問いに、レイナは初めて返答に詰まった。
花凛は、どこにいるのか。
自分のいた場所。
フローラミラージュ。
館。
あるいは、また別のどこか。
そこは花凛にとって、安心できる場所なのか。
それとも、まだ分からない危険の中なのか。
「……私のいた場所にいる」
蒼は息を呑んだ。
寝起きの緩んだ表情が消えていく。
代わりに、花凛を心配する顔になった。
その変化があまりにも早くて、レイナは少しだけ胸が痛んだ。
「危ない場所なのか」
「分からない」
「分からない?」
「分からないから、私も知ろうとしているの」
蒼は何かを言いかけて、やめた。
その時、窓の外で朝の光が強くなった。
レイナは布団から出ようとして、ふと机の上を見た。
そこには、描きかけのデザイン画が散らばっている。
布の線。
鏡の装飾。
一枚布のドレープ。
端に書かれた文字。
締切。
レイナはその二文字を見て、眉を寄せた。
「……何これ」
蒼も机の方を見る。
「ああ。コンテストのやつ。花凛、かなり追い込まれてる」
「こんな状態で、眠るたびにこちらへ来ていたの?」
「こちら?」
「……何でもないわ」
レイナは小さく息を吐いた。
花凛が、何に追われているのか。
何を作ろうとしているのか。
なぜ眠るたびに、あんなに焦っているのか。
それを知る番が来たのだと思った。
蒼が、まだ困惑した顔でこちらを見ている。
「えっと……君は」
君。
その呼び方に、レイナは少しだけ眉を上げた。
花凛ではないと、蒼が認めようとしている。
「名前を聞いてもいいのか」
レイナは少し考えた。
名乗ることは、境界を越えることに似ている。
この世界の人間に、自分の名前を渡す。
それが何を引き起こすかは、まだ分からない。
けれど、ここまで来て黙り続けることもできない。
「レイナ」
短く答えた。
「レイナ……」
蒼はその名を繰り返した。
不思議そうに。
けれど、馬鹿にすることも、笑うこともしなかった。
「花凛の身体に、君がいるってことか」
「おそらく」
「おそらく?」
「私にも、まだ全部は分からない」
蒼は額に手を当てた。
「朝から情報量が多すぎる」
「三件目未遂を起こした人間が言える立場ではないわね」
「ほんとすみません」
即座に謝ったので、レイナは少しだけ口元を緩めそうになった。
危ない。
この男は、謝る速度だけは優秀だ。
本日から5章です。




