⑧戻ってきたのね
図書館を出る頃には、空の色が変わっていた。
薄い紫。夕方のようで、夜明けのようでもある色。
花凛はしばらく無言で歩いた。ノエルは図書館の扉の前で見送るだけで、何も言わなかった。ルカだけが、店まで送ると言って隣にいる。
沈黙が続いた。いつもなら、ルカの沈黙は落ち着く。でも今は、少し息苦しかった。
「ルカさん」
花凛は立ち止まった。彼も止まる。
「はい」
「勇気くんのこと、知ってるんですよね」
ルカの表情は変わらなかった。けれど、空気が変わった。ほんの少し、温度が下がったように感じた。
「……なぜ、そう思われるのですか」
「さっき、反応したから」
花凛はまっすぐ言った。名前が漏れた瞬間のことを、ルカは否定しなかった。できなかった、のかもしれない。
「それに、勇気くんも愛菜さんを探していました。現実世界で」
ルカは黙った。その沈黙が、何よりの答えのようだった。
「ルカさんは、勇気くんと何か関係があるんですか」
ルカは、すぐには答えなかった。遠くで鐘が鳴った。図書館の時計かもしれない。館の鐘かもしれない。
やがて、彼は静かに言った。
「……探している人がいます」
「愛菜さんですか」
「はい」
「勇気くんと同じですね」
ルカの目が、少しだけ揺れた。
「そう、ですね」
その答え方が、あまりにも痛そうだった。花凛は息を呑む。
聞きたい。もっと聞きたい。ルカと勇気くんは何なのか。どうして同じ人を探しているのか。なぜ、アリッサの前で愛菜の名を出してはいけないのか。
けれど、ルカの横顔があまりにも遠くを見ていて、花凛は一度言葉を飲み込んだ。
「私、ちゃんと知ります」
花凛は言った。「レイナのことも、愛菜さんのことも。勇気くんのことも、ルカさんのことも」
ルカは花凛を見た。
「怖くはありませんか」
「怖いです」
花凛は正直に答えた。
「でも、怖いからって見ないふりしてたら、たぶん何も作れないので」
「作る?」
「服も、物語も、人との関係も」
口にしてから、花凛は自分で少し照れた。でも、ルカは笑わなかった。むしろ、ひどく静かな顔をした。
「あなたは、強い方ですね」
「強くないです。締切があるだけです」
ルカが今度こそ、かすかに笑った。花凛はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
魔法用具店に戻ると、店の灯りは少し落とされていた。棚の瓶も、布の束も、眠る前のように静かだった。
奥の部屋では、ユリウスが寝台のそばに立っていた。椅子はあるのに座っていない。剣を持たない騎士みたいに、ただ静かにそこにいる。
「何かありましたか」
ルカが尋ねると、ユリウスは首を横に振った。
「ない。アリッサ殿は一度目を覚ましたが、すぐに眠った」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。頼まれたことをしただけだ」
ユリウスはそう言って、花凛を見る。
「そちらは」
「……いろいろ見ました」
「そうか」
ユリウスは、それ以上聞かなかった。彼のそういうところは、少し不器用で、少しやさしい。
ルカはすぐに寝台のそばへ行く。その足音が、扉口から寝台まで近づくにつれて、少しずつ小さくなっていった。踏み込む音を、抑えているようだった。起こしてしまわないように。驚かせてしまわないように。
「お加減は」
その声が、ほんの少しだけ低くなった。花凛に向ける時の丁寧さとは違う。もっと近くて、もっと抑えている声だった。
アリッサは薄く目を開けた。
「少し楽になった」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの肩から何かが降りた。目には見えない。でも、花凛には分かった。彼はずっと、それを聞くために帰ってきたのだ。
「無理をなさいませんよう」
「そればかりね」
「あなたが聞いてくださらないので」
アリッサが、かすかに笑った。その笑みを見たルカの表情が、ほんの一瞬だけほどける。丁寧さの膜が薄くなって、その下にある何かが、少しだけ透けた。
安堵だった。それも、ただの安堵ではない。崩れそうなほどの安堵を、かろうじて形に保っているような、そういう顔だった。
花凛は、静かに視線を逸らした。やっぱり、見てはいけないものを見ている気がした。
アリッサは、花凛に目を向ける。
「見たのね」
「……はい」
「怖かった?」
「怖かったです」
花凛は正直に言った。「でも、見てよかったかは、まだ分かりません」
「それでいいと思う」
アリッサはそう言って、少しだけ目を細めた。「記憶って、すぐ意味くれないから」
その言葉に、花凛は少しだけ黙った。アリッサは、どこまで知っているのだろう。花凛は飲み込んだ。ルカに止められた言葉を。
「今日は休んで」
アリッサが言う。「あなたも揺れてるし」
「揺れてる?」
「うん。境界が」
当たり前のことみたいに、言われた。花凛には、何が揺れているのか分からない。でも、身体の奥に自分ではない誰かの気配があることだけは、分かった。
「分かりました」
花凛は頷いた。
ルカが出口まで送ろうとした時、アリッサが小さく声を漏らした。
「……戻ってきたのね」
寝ぼけたような声だった。
ルカの足が止まる。花凛も、ユリウスも、思わず振り返った。
アリッサは目を閉じたまま、薄く笑っている。夢と現実の境目にいるようだった。
ルカは、しばらく答えなかった。
店の中が、しんと静まっている。棚の瓶も。窓辺の薬草も。花凛も。ユリウスも。何もかもが、彼が答えるのを待っていた。
やがて、ルカはアリッサの方へ一歩だけ戻った。寝台のそばに立ち、その顔を見下ろす。
眠りかけているアリッサの顔。薄く笑ったまま、静かに呼吸している。
ルカは何も言わなかった。ただ、手を伸ばして、枕の端に乱れていた髪を、ひとすじだけ直した。触れるか触れないかの、ほとんど気配だけの手つきで。
その時。アリッサが、わずかに寝返りを打った。ほんの少し、こちらへ顔を向けて。
ルカはそのまま動けなくなった。
近い。
薄く開いた唇。落ちかけた睫毛。熱を帯びた頰の色。いつもは凛として、誰の前でも揺れない顔。それが今は、無防備なままそこにある。
ルカの視線が、止まった。止まってしまった。
意識する前に、身体が少しだけ傾いていた。引き寄せられるというより、重力が変わったみたいに。息が、かかりそうな距離。
アリッサの睫毛が、かすかに揺れる。
その瞬間、ルカの頭の奥で、別の顔が重なった。
短く切りそろえた黒髪。少し強がりな目元。笑うと少しだけ眉が下がる——愛菜の顔。
なぜ今、と思う間もなかった。
ただ、重なった。
アリッサの顔の上に。あちらとこちらが、一瞬だけ同じ場所に落ちた。
ルカは、自分の呼吸が止まっているのに気づいた。どちらを見ているのか、分からなくなっていた。目の前にいるのは、アリッサだ。分かっている。でも——
ルカは、目を閉じた。
そして、ゆっくりと身体を起こした。一度だけ、深く息を吐く。静かに。音を立てずに。
花凛は、息を止めたまま壁際に立っていた。見てしまった。完全に、見てしまった。
ユリウスは窓の外を向いていた。意図的に、向いていた。
「……はい」
ルカはようやく口を開いた。声は、驚くほど平静だった。でも、その平静さがかえって、どれだけ揺れていたかを教えていた。
「戻りました」
アリッサは、何も気づいていないように見えた。薄く笑ったまま、眠りの底へ沈んでいく。
ルカは一瞬だけ、その顔を見た。それから、静かに視線を外した。
花凛は、胸が痛くなった。
主従にしては近い。恋人にしては遠すぎる。でも今は、もうひとつ分かったことがある。
ルカの中には、アリッサとも違う誰かがいる。その誰かと、アリッサが重なる瞬間がある。そして彼は、その瞬間に——自分で、止まる。
なぜ止まるのか、花凛にはまだ分からなかった。でも、その止まり方が、とても痛そうだった。
絡まった糸が、ほどけるのではなく、もっと深く、もっと複雑に結ばれていく。
花凛はそう思いながら、うまく声が出なかった。
ここで3章完結です!




