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眠るたび異世界の少女と入れ替わる服飾学生は、滅びかけた都を繕う  作者: 魔法使いアリッサ
第4章 魔法の図書館と調律鏡

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⑦ 愛菜という名前



 花凛は、記憶の鏡の前で膝をついていた。


 息が荒い。

 手のひらが冷たい。

 目の奥が熱い。


 鏡の中で見たものが、まだ身体の奥に残っていた。


 レイナの震える手。

 黒い花のブローチ。


 そして、勇気くんの朝。


 引き剥がされたような目。

 シャワーの白い音。

 夢の底に沈んでいた、フローラミラージュの気配。


 愛菜。


 それから、最後に落ちてきた、自分の名前。


「花凛様」


 ルカの声が近くで聞こえた。


 彼が手を差し出している。


 その手を見た瞬間、花凛はなぜか胸が詰まった。


 さっき見た勇気くんの手。

 濡れた髪を拭く指。

 鏡の中で誰かを探していた目。


 そして、目の前のルカの手。


 何かが繋がりかけている。


 でも、まだ形にならない。


「大丈夫ですか」


 花凛は頷こうとして、うまくできなかった。


「……見えました」


 ノエルは黙っていた。


 ルカが、花凛の様子を見るように少し身を屈める。


「何が」


「レイナの記憶と……現実の朝」


「現実の朝?」


 ルカの声が、かすかに変わった。


 花凛は彼の顔を見た。


 言うべきか迷った。

 でも、言わなければ何も進まない気がした。


「勇気くんがいました」


 その瞬間、ルカの手が止まった。


 本当に一瞬だった。

 でも、花凛は見逃さなかった。


「……その名を」


 ルカの声は、ほとんど息だった。


「こちらで聞くことになるとは、思いませんでした」


 花凛の胸の奥が、ざわついた。


「知っているんですか」


 ルカはすぐには答えなかった。


 知っている。

 けれど、それは説明できる種類の知り方ではない。


 そんな沈黙だった。


「はい。現実で、愛菜さんを探している人です」


 その瞬間、今度こそルカの表情が変わった。


「……愛菜」


 名前を口にしただけなのに、ルカの声はかすかに揺れていた。


 知らない名前を読む声ではなかった。

 けれど、思い出した名前を呼ぶ声でもなかった。


 もっと曖昧で、もっと危うい。


 胸の奥に置き忘れていた鍵が、突然どこかの扉に合いそうになったような声だった。


 花凛は続ける。


「この前、私の家に来た時、勇気くんは愛菜さんの名前を出しました。探している人だって。いなくなった人だって」


 ルカは黙っている。


 その沈黙が、何よりも雄弁だった。


「それに」


 花凛は、喉の奥に引っかかっていたものを押し出すように言った。


「勇気くんの夢の中に、フローラミラージュがありました」


 ルカの目が、静かに花凛を見る。


「長い廊下と、白い光と、鏡みたいに揺れる扉。あれは、私がもう知っている空気でした。ここに近い場所の空気です」


 言葉にすると、胸の奥が冷えていく。


 見たものが、ただの夢ではなくなる。


「どうしてですか」


 花凛は息を整えながら言った。


「どうして、現実の勇気くんの朝が、この鏡に映るんですか。どうして、勇気くんの夢の底に、フローラミラージュがあるんですか」


 ルカは、ゆっくりと視線を伏せた。


「……私にも、分かりません」


「本当に?」


「はい」


 その声は静かだった。


 でも、嘘には聞こえなかった。


 分からない、と言いながら、何かを抱えている人の声だった。

 分からないことと、知っていることが、同じ胸の中に混在しているような。


「ただ」


 ルカは、言葉を選ぶように間を置いた。


「その名を、アリッサ様の前で軽々しく口にしないでください」


「愛菜さんの名前を?」


「はい」


「どうしてですか」


「……分かりません」


 ルカは、本当に分からないという顔をしていた。


「けれど、その名は、あの方を傷つける気がします」


「アリッサさんが、愛菜さんを知っているってことですか」


「いいえ」


 ルカは首を振った。


「アリッサ様は、おそらく何もご存じない」


「じゃあ、どうして」


「だからこそです」


 花凛は何も言えなかった。


 アリッサ。

 愛菜。

 勇気。

 ルカ。

 レイナ。


 名前が増えていく。


 けれど、その名前たちはまだ、同じ糸には通っていない。

 近くに落ちているのに、結んでいいのか分からない。


 ただ、ひとつだけ分かったことがある。


 現実で勇気くんが探している愛菜という名前は、フローラミラージュの奥にも落ちている。


 そして、その名前はアリッサの近くで、何か危うい音を立てる。


 ノエルが、鏡を見ていた。


「記憶の鏡が現実の残響を映したのなら、境界はすでに片側だけのものではありません」


 彼は、それだけ言った。


「どういう意味ですか」


 花凛が聞いても、ノエルは答えなかった。

 いつものように、必要なことだけを置いていく。


「ノエルさん」


「今はまだ、言葉にするべきではありません」


「またそれですか」


 花凛の声に、少し苛立ちが混じった。


「この世界の人、みんなそうです。まだ言えない、知らない方がいい、見れば分かる。そうやって大事なところだけ隠す」


 自分でも驚いた。


 こんな言い方をするつもりはなかった。

 でも、止まらなかった。


「レイナだって、何も知らなくていいって言われてた。守るって言われて、閉じ込められてた。私も同じですか?」


 図書館が静まり返った。


 本の羽音も止まった気がした。


 ノエルは、ゆっくりと花凛を見た。


「違います」


「何が違うんですか」


「あなたは、知ろうとしている」


 その言葉に、花凛は黙った。


「知ろうとする者には、鏡は続きを見せます。ただし、一度にすべてを見れば、心が持ちません」


 ノエルは鏡の縁に触れた。


「記憶は布と同じです。強く引けば裂ける。ほどく順番を誤れば、元には戻らない」


 布。


 その言葉で、花凛は少しだけ呼吸を取り戻した。


「……じゃあ、私はどうすればいいんですか」


「レイナ様と話すことです」


「レイナと」


「あなたが見たものは、彼女の痛みの一部にすぎません。記憶を覗くだけでは、結びつきにはなりません」


 ノエルの声は静かだった。


「聞くことです。彼女自身の言葉で」


 花凛はうつむいた。


 レイナの記憶を見た。

 勇気くんの朝も見た。

 勇気くんの夢の底に、フローラミラージュの気配があることも知った。

 愛菜という名前が、この世界の奥に落ちていることも知った。


 でも、あれで分かった気になってはいけない。


 見えたものは、全部ではない。


 鏡は、答えをくれたわけではなかった。

 ただ、問いを増やしただけだった。


 それでも。


 花凛は、手のひらを握った。


「……分かりました」


 小さくそう言うと、鏡の奥で、ほんの少しだけ光が揺れた。


 その光の奥で、誰かが息をひそめているような気がした。


 愛菜。


 アリッサ。


 まだ結ばれていない二つの名前。


 その間に落ちた細い糸の先を、花凛はまだ掴めない。


 けれど、糸がそこにあることだけは、もう知ってしまった。

 

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