⑥ 鏡の向こうの朝
次に見えたのは、現実世界の朝だった。
最初に感じたのは、熱だった。
背中にまとわりつく汗の感覚。
寝具に触れていたところが湿っていて、首筋も、胸元も、ひどく不快そうだった。
これは、花凛の身体ではない。
見えているのに、自分では動かせない。
誰かの目に、そっと重なっているみたいだった。
ベッドの上で、金髪の青年が身を起こす。
勇気くん。
花凛は息を呑んだ。
彼は額に手をやり、低く呟いた。
「……最悪だな」
前髪の根元まで汗ばんでいる。
後ろでまとめていた長い髪も半分ほど崩れ、首筋に張りついていた。
夢を見ていたのだと、花凛には分かった。
誰かを探す夢。
いいえ。
ただ、誰かを探しているだけではない。
勇気くんは、探している相手の名前を知っている。
愛菜。
現実で彼が口にした名前。
いなくなった人。
見つけなければならない人。
けれど、その夢の底には、もうひとつ別の景色が沈んでいた。
長い廊下。
白い光。
鏡のように揺れる扉。
そして、花凛がもう知っている、あちら側の空気。
フローラミラージュ。
胸の奥で、その名前が静かに浮かんだ。
勇気くんの夢の中に、どうしてこの世界の気配があるのだろう。
花凛は、そこで初めて息を詰めた。
愛菜を探す現実の朝。
その底に沈んでいる、フローラミラージュの記憶。
二つはまだ、ひとつの線には見えない。
けれど、まったく別のものとして片づけるには、近すぎた。
その時、勇気くんの夢の奥で、何かがわずかに揺れた。
愛菜を探す痛みでもない。
フローラミラージュの記憶でもない。
もっと近い。
今、鏡のこちら側にいる花凛自身へ向けられたような気配。
勇気くんが、夢の中で顔を上げる。
花凛?
声になったのか、思考だったのかは分からない。
けれど、その名前だけが、妙にはっきりと花凛の胸に落ちた。
まさか。
そう思った瞬間、場面は朝の部屋へ戻った。
勇気くんはベッドの縁に腰掛けたまま、しばらくうつむいていた。
それから、汗を吸ったTシャツの襟元を指でつまみ、軽く引く。
湿った布が肌から離れる。
「シャワーだな……」
彼は誰に言うでもなく呟き、立ち上がった。
洗面所の鏡に映った勇気くんは、いつもの整った印象から少し離れていた。
寝起きで、髪が乱れていて、どこか疲れている。
けれど、それがかえって人間らしかった。
花凛は、見てはいけないものを見ている気がして視線をそらそうとした。
けれど、鏡の記憶は勝手に流れていく。
勇気くんは髪留めを外した。
ほどけた金髪が、肩から背中へ落ちる。
汗を吸ったTシャツを脱ぐと、肌から布が離れる時、じわりとした熱が一緒に剥がれていくようだった。
鎖骨のあたりに汗が光っている。
胸元を伝った汗が、腹の上に細い線を引いて落ちていく。
花凛は、思わず呼吸を止めた。
これは、見ていいものではない。
そう思うのに、鏡は止まらない。
勇気くんはシャワーの蛇口をひねった。
最初の水は少し冷たかったのか、彼の肩がわずかに動いた。
けれど、その冷たさがむしろ心地よさそうだった。
水が頭から肩へ落ちる。
汗で張りついていた髪が一気に濡れて、額に沿って流れた。
首筋を伝い、背中を滑り、胸元へ落ちていく水に、彼の呼吸が少しずつ整っていく。
「……はぁ」
短く息が漏れた。
勇気くんは片手で濡れた髪をかき上げた。
水滴が睫毛の先から落ちる。
普段は、人に見せるための身体でもあるのだろう。
モデルとして立つ時は、姿勢も線も、見せ方まで計算する。
けれど今は違った。
ただ目が覚めて、汗を流して、苦しい夢の残りを洗い落としたい。
それだけの、無防備な朝だった。
花凛の胸の奥が、きゅっと痛む。
勇気くんは、誰かを探している。
それは、花凛も知っている。
この前、家に来た時、彼はその名前を口にした。
愛菜。
探している人。
いなくなった人。
彼の声から、その名前は、消せない棘みたいにこぼれた。
けれど今、鏡が見せているものは、それだけではなかった。
愛菜を探す痛みの奥に、フローラミラージュの記憶がある。
現実の勇気くんと、向こう側の世界。
その二つが重なっている。
でも、どうして。
いつから。
どこまで。
花凛には、そこが分からなかった。
シャワーの音が、記憶の中で白く響く。
勇気くんは壁に片手をつき、額から落ちる水をそのままにしていた。
濡れた髪。
濡れた睫毛。
少しだけ鋭くなった目元。
その顔は、何かを探している男の顔だった。
「……こんなふうに、すっきり忘れられたらいいのに」
彼の声が、シャワーの音に紛れて落ちる。
忘れる。
愛菜を。
探しても見つからない焦りを。
そして、フローラミラージュの夢の残りを。
けれど勇気くんは、たぶん忘れられない。
忘れたいと思うものほど、身体の奥に残る。
汗のように。
熱のように。
目覚めた後の呼吸の乱れのように。
勇気くんは顔を上げた。
曇った鏡には、彼の輪郭だけがぼんやり映っている。
その時だった。
彼が、ゆっくりと振り返った。
まるで、誰かに見られていることに気づいたように。
花凛の心臓が跳ねる。
当然、そこには誰もいない。
白いタイルと、立ちのぼる湯気だけ。
けれど、勇気くんの目は、たしかに空白の一点を見ていた。
「……花凛?」
低く、ほとんど息のような声だった。
花凛は、息を呑んだ。
聞こえるはずがない。
届くはずがない。
これは鏡の記憶で、自分はただ見せられているだけのはずだった。
なのに勇気くんは、確かにこちらを見ていた。
「……まさかな」
そう呟いたけれど、その顔は少しも笑っていなかった。
勇気くんはシャワーを止めた。
浴室の中に静けさが戻る。
水滴が肩から落ち、鎖骨を滑り、足元へ消えていく。
扉を開けると、冷えた空気が肌に触れたのが分かった。
勇気くんは腰にタオルを巻き、もう一枚のタオルで髪を拭きながら洗面台の前に立った。
鏡は白く曇っている。
手のひらで軽く拭うと、濡れた顔がぼんやり現れた。
金髪は水を含んで重くなり、肩に落ちている。
普段は後ろでまとめている長い髪が、今はほどけたまま、首筋や背中に貼りついていた。
「……乾かすの、面倒だな」
低く呟く。
けれど、そのままにしておくわけにもいかないらしい。
勇気くんはタオルを頭からかぶせ、髪の水気を丁寧に取った。
乱暴にはしない。
髪も、肌も、植物と同じで、扱い方を間違えると傷む。
そんな考えが、彼の中に自然にあるのが分かった。
タオルの隙間から、首筋に水滴が落ちる。
「冷た……」
肩がわずかに跳ねる。
洗面所の灯りの下で、肌の上に残った水が細く光っていた。
鎖骨の窪みに溜まった一滴が、呼吸に合わせて揺れ、やがて胸元へ流れていく。
勇気くんはそれを気にするでもなく、棚から清潔なタオルをもう一枚取った。
身体を拭く手つきは淡々としている。
けれど花凛は、もうこれ以上見てはいけない気がして、心の中で強く目を閉じた。
それでも音だけは残る。
タオルの擦れる音。
ドライヤーの低い音。
長い髪が風に揺れる気配。
やがて、勇気くんの思考がまたひとつ、鏡の奥から流れ込んできた。
愛菜。
探している人。
消えた人。
けれど、その名前を追いかけようとすると、夢の底で別の扉が鳴る。
白い光。
フローラミラージュの空気。
手を伸ばした記憶。
守らなければならないと思った誰か。
それらはまだ、愛菜という名前とは繋がらない。
繋がらないまま、彼の胸の奥で、それぞれ別の痛みとして息をしている。
勇気くんはドライヤーを止めた。
静けさが戻る。
服を着る前に、もう一度鏡を見る。
首筋にまだ水滴が一つ残っている。
それを指で拭う。
その仕草の途中で、彼の視線が止まった。
鏡の中。
一瞬だけ、彼の後ろに誰かの影が見えた気がした。
勇気くんは振り返った。
誰もいない。
洗面所の扉。
曇った鏡。
籠に入った濡れたタオル。
それだけ。
「……疲れてるな」
そう言って、今度は笑えなかった。
朝の光が、濡れ残った髪の先を金色に透かしている。
勇気くんは鏡を見た。
そこに映っているのは、自分だけだった。
けれど、その目だけが、まだ誰かを探していた。
「……見つけるよ」
声に出してから、彼は少しだけ眉を寄せた。
誰に向けた言葉なのか、花凛には分からなかった。
現実で彼が探している人に。
フローラミラージュの奥に残っている誰かに。
それとも、鏡の向こうで息を殺している気配に。
勇気くんはもう一度、鏡を見た。
その瞬間、鏡の中の朝が揺れた。
洗面所の白い光がほどける。
勇気くんの輪郭が遠ざかる。
最後に残ったのは、彼が現実で探し続けている名前だった。
愛菜。
けれど、その響きが消える直前。
鏡の奥で、もうひとつの声が落ちた。
「……花凛?」
自分の名前だった。




