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眠るたび異世界の少女と入れ替わる服飾学生は、滅びかけた都を繕う  作者: 魔法使いアリッサ
第4章 魔法の図書館と調律鏡

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① 寝台のアリッサ

4章突入です!


 あの鏡が光ってから、店の空気は少しだけ変わった。


 はっきりと何かが壊れたわけではない。

 誰かが叫んだわけでも、棚の瓶が割れたわけでもない。


 けれど花凛には、見えない糸の結び目が、ひとつ強く引かれたように感じられた。


 アリッサは、最初はいつも通りに笑っていた。


「大丈夫。ちょっと驚いただけ」


 そう言って、何でもないことのように棚の方へ歩いていった。

 ルカもいつも通り、紅茶を淹れ、カウンターの上を整え、来客用の椅子を静かに引いた。


 けれど、時々。


 アリッサの呼吸が、ほんの少し浅くなった。

 言葉と言葉の間に、わずかな空白が生まれた。

 棚の瓶を取ろうとした指先が、一瞬だけ迷った。


 小さな違和感だった。


 見落とそうと思えば、見落とせるくらいの。

 気のせいだと言えば、そう思えなくもないくらいの。


 でも、その違和感は、店の奥に沈む埃みたいに少しずつ積もっていった。


 そして気づいた時には、アリッサは店の奥の寝台に横たわっていた。


 薄い天蓋の内側で、力無さそうに。


 いつもなら柔らかく光って見えるその髪も、今は少しだけ色を失っているようだった。


 窓辺では、青い硝子瓶に挿された薬草が、かすかに揺れている。

 部屋には甘い花の香りと、苦い草の匂いが混ざっていた。


「大げさ。少し休めば平気」


 アリッサはそう言って笑った。


 けれど、声は細かった。

 笑い方も、いつもより薄い。


 花凛は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 アリッサの魔法用具店は、外から見るよりずっと奥行きがある。

 棚には瓶や箱や布が並び、カウンターには銀の秤が置かれている。

 けれど今、その店の中心にいたはずのアリッサが寝台にいるだけで、空気の重さが変わっていた。


 店そのものが、息を潜めているみたいだった。


 ルカは何も言わず、アリッサの額に置かれた布を取り替えた。


 その手つきは、ただの看病というには丁寧すぎた。


 壊れ物に触れるというより、壊れてしまったら自分の方が持たないものに触れているようだった。


 濡れた布を取り上げ、新しいものを水に浸して、軽く絞る。

 その一連の動作に、無駄がない。


 ひとつも、ない。


 何度もやってきたのか。

 それとも、何度でもやり直せるよう、体が覚えてしまったのか。


 花凛には、どちらとも判断できなかった。


 ルカは布をアリッサの額に当てる前に、一度だけ手のひらで温度を確かめた。


 冷たすぎないか。

 冷たさが、かえって傷にならないか。


 その確かめ方が、あまりにも静かで、あまりにも慣れていて。


 花凛は、思わず目をそらした。


 見てはいけないものを見た気がした。


「ルカ」


 アリッサの声が、眠りの底から浮かんできたみたいに細く響いた。


「ここにおります」


 ルカはすぐに答えた。


 その声は、いつもの執事の声より少しだけ柔らかい。

 丁寧だけれど、仕事の声ではなかった。


 アリッサの指が、彼の袖をかすかにつかんだ。


 引き止めるというより、そこにいることを確かめるように。


「置いて……」


 そこで、言葉が途切れた。


 ルカの表情が止まる。


 花凛は、その瞬間を見てしまった。


 ルカの目が、かすかに揺れた。

 ほんの一瞬だった。

 でも確かに揺れた。


 まるで、その言葉の続きを知っていて、だからこそ聞かないようにしているような揺れ方だった。


「アリッサ様」


「……いい。行って」


 アリッサは目を閉じたまま、小さく息を吐いた。


「花凛、お願い」


 ルカは動かなかった。


 すぐには、動けなかったのだと、花凛には見えた。


 アリッサの指が彼の袖を握っている。

 強くではない。

 むしろ、力を使うことすら惜しむような、薄い力だった。


 それでもルカは、その指が自然に離れるまで待った。


 待ちながら、彼の視線はアリッサの顔から動かなかった。


 眠ろうとしているのか。

 眠れないのか。

 痛いのか。

 ただ疲れているのか。

 声をかけるべきか。

 かけない方がいいのか。


 そのすべてを、彼は顔色から読もうとしていた。


 やがて、アリッサの指がほどける。


 ルカはその手を、布団の中へ静かに戻した。


 触れるか触れないかの距離で、指の甲をそっと撫でる。


 一度だけ。


 アリッサは気づいていたのか、気づいていなかったのか。

 目は閉じたままで、何も言わなかった。


「必ず、戻ります」


 その言葉を聞いた時、花凛はなぜか胸が痛くなった。


 主従にしては近い。

 けれど、恋人にしては遠すぎる。


 二人の間には、まだ名前のついていない糸が張っている。


 花凛はそう思った。


 あの時、調律鏡が光った感覚が、まだ指先に残っていた。


 顔を映すための鏡ではない。

 魔法用具と持ち主の相性を見るための鏡。

 アリッサは、そう説明していた。


 けれど、あの鏡は魔法用具ではなく、レイナに反応した。


 正確には、レイナの身体に入っていた花凛に。


 鏡の縁が淡く光り、空気が震えた。

 その瞬間の違和感を、花凛はまだ忘れられずにいた。


 自分の身体が、自分だけのものではないのだと突きつけられたような感覚。


 そして、その後からアリッサの様子が少しずつ変わった。


 あの鏡が、レイナだけではなく、アリッサの奥に眠っている何かにまで触れてしまったような気がして。


 だから、聞かずにはいられなかった。


 花凛は、寝台のそばから少し離れた場所でルカに声をかけた。


「ルカさん」


「はい」


「あの時の鏡、何だったんですか」


 ルカの表情が、ほんの少しだけ変わった。


「調律鏡です」


「調律鏡?」


「魔法用具と持ち主の相性を見るためのものです。指輪やリボン、護符がその人に馴染むかどうかを確かめるために使います」


「でも、あの時はレイナに反応してましたよね」


 花凛がそう言うと、ルカはすぐには答えなかった。


 部屋の奥で、アリッサが小さく咳をした。


 ルカは一瞬そちらを見てから、声を落とす。


「本来の使い方ではありません」


「じゃあ、どうして」


「……外側と内側が一致しない時、稀にああした反応を示すと聞いたことがあります」


 外側と内側。


 花凛は、自分の胸元に手を当てた。


 外側はレイナ。

 内側は花凛。


 今ここに立っている身体は、花凛のものではない。

 けれど、その奥で息をしている意識は、たしかに花凛自身だった。


 あの鏡は、顔ではなく、中身のずれを見たのだ。


「聞いたことがあるって……誰からですか」


「人から、というより記録です」


「記録?」


「図書館に、古い記録があります。調律鏡や、境界に関する記録が」


 図書館。


 花凛は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 この世界に図書館があることを、花凛はまだ知らなかった。


 アリッサの店。

 館。

 鏡。

 レイナ。

 ルカ。


 見えている場所だけで、もう精一杯だった。


「図書館って、どこにあるんですか」


「この店から、それほど遠くはありません。ただ……」


「ただ?」


「誰でも奥の記録を見られるわけではありません」


 ルカは言った。


「図書館には、ノエルという管理人がいます。必要以上には話さない方ですが、記録の扱いには長けています」


「ノエルさん……」


 知らない名前が、またひとつ増えた。


 花凛は少しだけ迷った。


 アリッサは体調が悪い。

 レイナのことも分からない。

 鏡のことも分からない。


 でも、分からないままにしておく方が怖かった。


「行きます」


 花凛は言った。


「今ですか」


「今、行けるなら」


 ルカは奥のアリッサを見た。


 アリッサは目を閉じている。

 眠っているのか、眠ろうとしているのか分からない。


「アリッサ様をお一人にするわけには」


 その時、カウンター脇で本を閉じる音がした。


「俺が残る」


 ユリウスだった。


 彼は椅子から立ち上がり、少し硬い表情で寝台の方を見る。


「看病の作法には詳しくない。だが、誰かが近づけば分かる」


「ユリウス様」


 ルカが静かに頭を下げる。


「お願いいたします」


「……頼まれたなら、守る」


 ユリウスは短く言った。


 その言い方があまりに真面目で、花凛は少しだけ胸が緩んだ。


 アリッサは薄く目を開けて、ユリウスを見た。


「ありがとう。助かる」


「礼はいらない」


 ユリウスは少しだけ視線を逸らした。


「俺は、そばにいることくらいしかできない」


「それが、いちばん助かる時もあるよ」


 アリッサがそう言うと、ユリウスは困ったように黙った。


 ルカは外套を手に取った。


「では、参りましょう」


 店の扉を開けると、外の空気は少し冷えていた。


 花凛は最後にもう一度、アリッサを振り返った。


 アリッサは寝台に身を預けている。

 その横顔は、硝子細工みたいに静かだった。


 儚い、と思った。


 でも同時に、どこかで見たことがあるような気もした。


 それが誰なのか、花凛にはまだ分からなかった。

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