⑦ 糸の端、もう一本
再びアリッサの魔法用具店を訪れたとき、花凛はすぐに違和感に気づいた。
アリッサの顔色が、前より少し悪い。
笑っている。喋っている。けれど、目の奥の静けさが濃くなっている。前回は静かだったが、今回はその静けさが少し重い。
「来たんだ」
アリッサは軽く手を振った。
「来ました」
「今日は何見る? ポーション? 布? キノコ?」
「キノコもあるんですか」
「あるよ。こっちでは素材。向こうではブローチになったりする」
アリッサはまた、当たり前のように言った。向こう。花凛の胸が、また小さく鳴る。
「……アリッサさん。その『向こう』って、どこですか」
アリッサはきょとんとした。
「え?」
「前も言ってました。人間界ではアクセサリーになるって」
「わたし、そんなこと言った?」
「言いました」
「そっか」
アリッサは棚に視線を逃がした。困っている。でも、嘘をついているわけではない。本当に、覚えていない。
「分からないんだよね。分かることがあるのに、どうして分かるのかが分からない」
その言葉に、花凛は何も返せなかった。
ルカが、棚の向こうで静かに二人を見ていた。彼も、気づいている。アリッサが時々、知らないはずのことを知っていることに。
でも、それが何なのかまでは、たぶん分かっていない。
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花凛は、あの手鏡を見つけた。前と同じ場所。
でも今度は、少しだけはっきり分かった。こっちを見ている。いや、違う。花凛の奥を、見ている。
ちり、と音が鳴る。今度ははっきり。棚の奥で、何かが震えた。糸が、わずかに動く。
ルカが、一歩前に出た。花凛と鏡の間に立つ。
「触れないでください」
その声は静かだった。でも、いつもの柔らかさは少しだけ消えていた。
「これ、何なんですか」
花凛が聞く。ルカは答えない。代わりに、ユリウスが口を開いた。
「記憶に触れる道具だ。ただし、誰の記憶に反応するかは分からない」
花凛は息を呑んだ。あれは、自分に反応したんじゃない。もっと奥。もっと深いところに向かっていた。
花凛の中にいる、もう一人。レイナ。
名前を出す前に、アリッサが棚の向こうから顔を出した。
「どうしたの?」
その瞬間、鏡の音が止まった。何事もなかったみたいに。店の空気が、元に戻る。
けれど花凛の胸のざわめきだけは、消えなかった。
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「花凛さん」
ルカがカウンターの向こうから声をかけた。
「少し、よろしいですか」
「はい」
アリッサは奥で棚を探している。ルカは声を落とした。
「店主様が、最近少し疲れやすくなっています」
「アリッサさんが?」
「ええ。前から時折そういうことはありましたが、近頃は少し深い」
花凛は、勇気の言葉を思い出す。ある日、目に何もなくなった。
愛菜。アリッサ。違う。違うはずなのに。どこか同じ場所を指している気がした。
「ルカさんは、現実にも、戻るんですよね」
ルカの目が少しだけ細くなる。
「ええ」
「向こうでは、別の名前がある」
「あります」
「その……探している人も?」
ルカは沈黙した。ほんの短い沈黙だった。けれど、答えは十分だった。
「います」
「その人は、どんな人なんですか」
ルカは少しだけ目を伏せた。
「目が強い人でした」
胸の奥で、何かが鳴った。
「でも、ある日から、その目が変わった。だから、探しています」
「……見つかるといいですね」
ルカはかすかに笑った。
「ええ」
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奥から、アリッサが顔を出した。
「二人で何話してるの?」
「布の話です」
ルカが自然に答えた。
「嘘っぽい」
「事実です」
アリッサが少し笑った。その笑顔に、ルカの目がわずかに柔らかくなる。
花凛はそれを見ていた。ルカは知らない。自分が探している糸の端が、目の前に絡まっていることに。
でも花凛にも、まだ言葉にできなかった。言葉にした瞬間、何かを間違えてしまいそうだった。
糸は、急いでほどくと絡まる。
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帰り道、花凛はユリウスの隣を歩いた。
街は夕方の色に染まっている。布屋の軒先で、淡いランプが灯る。子どもたちが路地を走っていく。
「ユリウス」
「なんだ」
「糸ってさ。一本だけだと思ってたら、もう一本絡まってることあるよね」
ユリウスは少しだけ沈黙した。
「ほどけそうか」
「まだ分からない。でも、端は見えた」
アリッサ。愛菜。ルカ。勇気。レイナ。花凛。それぞれ別の場所にあるはずの糸が、少しずつ同じ布の上に集まり始めている。まだ模様は見えない。
でも、確かに何かが織られ始めていた。
「ユリウス、一つだけ聞いていい?」
「なんだ」
「アリッサさんのこと、知ってる? 本当のことを」
ユリウスは答えなかった。
ただ、少しだけ足を速めた。
花凛はその背中を見た。答えがある。知っている。でも、まだ言わない。
なぜ。
その問いだけが、夕暮れの石畳の上に残された。




