間話B 夜道にて
夜道を歩きながら、勇気はずっと考えていた。
花凛。
その名前が、頭から離れない。
初めて会う人のはずだった。実際、会ったことはない。でも、どこかで聞いた名前だ。最近。確かに最近、聞いた。
駅までの道を歩きながら、記憶を辿る。
ルカとして、か。
店に来た客の中に、花凛という名前の子がいた。ユリウスと一緒に来て、アリッサと布の話をしていた子。ポーションを気に入って、持って帰った子。
勇気は足を止めた。
同じ名前。
偶然かもしれない。よくある名前ではないけれど、別人という可能性の方がずっと高い。それに、フローラ・ミラージュに来ている人間が現実にもいるなんて、そんな話は聞いたことがない。
でも。
あの子の目を見たとき、何かが引っかかった。名前でも、顔でもなく——もっと奥の、何か。店で会ったあの子と、同じ気配がした気がした。
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勇気が愛菜を初めて見たのは、文化服装学院のエントランスだった。
雨の日だった。
エントランスの大きなガラス扉の前に、彼女は立ち尽くしていた。傘を持っていない。外を見ている。でも出ようとしない。
濡れた髪。少し困った顔。けれど、目だけが妙に強かった。泣きそうなのに、泣かない人。それが最初の印象だった。
勇気はその横を通り過ぎようとして、足が止まった。
「傘、一本しかないんですけど」
自分でも驚くほど自然に、声が出ていた。
愛菜は顔を上げた。「え?」
「よければ」
それだけの会話だった。でも、その一瞬で何かが決まってしまった。
植物の観察を始めるとき、似た感覚になることがある。この葉の細工を、もっとよく見ていたい。でもそれよりずっと強くて、そしてずっと焦った。
この人を、見失いたくない。
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それから、毎日一緒に帰るようになった。
特に約束をしたわけではない。気づいたら、エントランスで落ち合うのが当たり前になっていた。愛菜が先に出ていることもあった。勇気が待つこともあった。どちらも、それを変だとは思わなかった。
愛菜は不思議な人だった。よく笑う。よく喋る。好きなものの話になると、目が急に明るくなる。ファスナーの話でも、芯地の話でも、パターンの話でも、どうでもいい雑貨の話でも。何かを好きでいることに、全力だった。
でも、ふとした瞬間に沈む。隣を歩いているのに、急に遠くへ行ってしまう。手が届かない場所へ。
「大丈夫?」
勇気が聞くと、愛菜は決まって笑った。「大丈夫」
その大丈夫が、大丈夫ではないことくらい分かった。でも、どう踏み込めばいいのか分からなかった。
帰り道の信号待ちで、勇気はよく愛菜の横顔を見ていた。植物の葉脈。昆虫の翅。光の角度。小さな変化。観察することには慣れていた。けれど、人の心は標本のようには扱えない。触れ方を間違えれば、壊してしまう。
だから、ただ隣を歩いた。それしかできなかった。
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少しずつ、愛菜は元気をなくしていった。
笑う回数は変わらない。言葉の数も、たぶん変わらない。でも、目の中の光が、日に日に奥へ沈んでいった。
そして、ある日。愛菜の目から、何かが消えた。
空っぽ、という言葉では足りなかった。そこにいるのに、いない。声は愛菜だった。顔も愛菜だった。でも、あの日の人は、どこにもいなかった。
「愛菜?」
呼んでも、届かなかった。
気づいたときには、もう探していた。
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眠るたびに、勇気は知らない街へ行くようになった。
フローラ・ミラージュ。最初は夢だと思った。でも夢にしては、匂いがありすぎた。石畳の冷たさ。布の感触。海の気配。古い木の香り。
そこで、彼は一人の女の子に出会った。
黒髪のショート。ラベンダー色の服。少し欠けた目をしていて、でも、ちゃんと立っていた。
「行くところないの?」
彼女はそう聞いた。軽い声だった。でも、目の奥がどこか欠けていた。
勇気は答えられなかった。行くところはある。でも、探している人のいる場所だけが分からない。
「じゃあ、うちに来る?」
彼女は言った。「名前、どうしよっか。ここでは別の名前があった方がいいよね」
少し考えてから、笑った。「ルカ。似合うと思う」
勇気はその名前を受け取った。
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ルカとして店に立つようになって、少し経った頃。
アリッサは、たまに知らないはずのことを知っていた。別の場所の話。別の世界の話。本人は覚えていない。でも、口から出てくる。まるで、どこか深いところに記憶が眠っていて、時々勝手に浮かび上がってくるみたいに。
それを見るたびに、胸の奥がざわつく。
愛菜も、そうだった。
アリッサと愛菜は、似ていない。顔も、雰囲気も、声も違う。欠け方も違う。愛菜は内側へ沈んでいくように消えた。アリッサは最初から、どこかに置き忘れてきたような欠け方をしている。
だから別人だと思っていた。今も、そう思っている。
でも——アリッサのそばにいると、たまに息が止まりそうになる瞬間がある。笑い方でも、声でも、顔でもない。もっと奥の、どこか。糸の端が同じ布から来ているような、そういう感覚。
「ルカ」
アリッサが棚の奥から声をかけた。
「これ、どこに置いたっけ」
「二段目の右端です」
「あった。ありがとう」
アリッサがひょこっと顔を出して笑う。その笑顔に、勇気はいつも通り小さく頷いた。
いつも通り。でも、胸の奥の引っかかりは、今日も消えなかった。
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駅の改札をくぐりながら、勇気はもう一度だけ今夜のことを思った。
花凛という名前の子。蒼の恋人。服飾の学生。お守りみたいな服を作りたいと言っていた。
お守り。
アリッサの店で花凛と名乗った子も、ポーションをお守りみたいに大切そうに握っていた。
同じ言葉。同じ名前。同じ——気配。
もし本当に同じ子なら。現実とフローラ・ミラージュを、花凛という子が行き来しているとしたら。
それは——愛菜も、同じかもしれない。
「偶然だ」
ホームで電車を待ちながら、声に出して言った。でも誰に言い聞かせているのか、自分でも分からなかった。
電車が滑り込んでくる。勇気は乗り込み、窓の外の暗闇を見た。
次にフローラ・ミラージュへ行ったとき、さりげなく聞いてみようと思った。
今夜は、少しだけ近づいた気がした。
死ぬほど眠いので今日の登校は早めです
許してください




