④夜間の教室
夜になっても、花凛は朝のことを思い出しては一人で変な顔をしていた。
学校の教室には、ミシンの音が断続的に響いている。
だだだだ、と誰かのミシンが走る。その隣で、アイロンから白い蒸気が上がる。
紙をめくる音。裁ちばさみが布に入る音。チャコペンが机を擦る音。
夜間部の教室は、昼間の学校とは少し違う匂いがする。
アイロンの熱。布の埃。古い木の机。誰かのコンビニコーヒー。疲れた人たちの、でもまだ諦めていない空気。
昼の世界を一度終えてから、もう一度ここに来る人たちの場所。花凛は、その空気が好きだった。
「花凛さん、そこ縫い代つけた?」
先生の声に、花凛ははっとした。
「あ、つけました。たぶん」
「たぶんは危ないよ」
「確認します」
慌てて定規を当てる。縫い代は、ちゃんと一センチついていた。
ほっとした瞬間、鏡の前で見たレイナの不機嫌そうな顔が脳裏をよぎる。首元。心拍確認。攻めてる。
だめだ。花凛は下を向いて、笑いを噛み殺した。
「何笑ってるの?」
隣の席の子に聞かれて、花凛は首を振った。
「いや、ちょっと……朝からいろいろあって」
「寝坊?」
「寝坊ではない」
「恋愛?」
「近いけど違う」
「何それ」
説明できるわけがなかった。異世界の女の子が自分の身体で彼氏のキスを避けようとして、
なぜか首元に突っ込み、心拍確認した。言えるわけがない。
「人生」
「急に重い」
隣の子が笑った。花凛もつられて笑う。
⸻
授業の後半、花凛はアイロン台の前に立った。蒸気が上がる。布が、熱で少しずつ言うことを聞いていく。
朝のこと。アリッサの店のこと。ルカの目。あの手鏡。ポーション。レイナのこと。そして——蒼の言葉。
花凛が花凛じゃない感じがする。
全部が頭の中で絡まっていた。でも、布を触っている間だけは、少しだけ整理できる。
折り目をつける。余分を逃がす。歪みを直す。
人の心も、こんなふうに扱えたらいいのに。焦って引っ張れば、伸びる。無理に押さえれば、跡が残る。
でも、熱と手順を間違えなければ、少しずつ形になる。
花凛はアイロンを置き、布を持ち上げた。縫い目はまだない。けれど、形になる前の形が見えた。
その瞬間、右手の人差し指に違和感があった。
小さな重み。
花凛は布を置き、指を見る。
そこに、指輪があった。細い銀色の輪。飾り部分には、小さな瓶の形をした石がついている。
その中には、淡い紫色の光が閉じ込められていた。
花凛は息を止めた。
昨日、アリッサの店で手にしたポーションと同じ色だった。
「……なんで」
思わず声が漏れる。
アリッサの声が、頭の中で響いた。アクセサリーに擬態するよ。人間界では。
花凛は指輪に触れた。冷たい。でも、奥にほんの少しだけ温度がある。
夢じゃない。この世界は、夢じゃない。
「花凛さん?」
先生の声で、花凛ははっと顔を上げた。
「大丈夫です」
「指輪、かわいいね」
隣の子が言った。
「それ。瓶みたい。魔法っぽい」
花凛は反射的に手を握った。
「うん……ちょっと、お守りみたいな」
「どこで買ったの?」
「……夢で。いや、ネットで」
「どっち?」
「ネット」
「疲れてるね」
「うん、たぶん」
花凛は小さく笑い返した。でも胸の奥は、まだ震えていた。
アリッサは知っていた。人間界では、アクセサリーに擬態する。なんで。なんで、知っていたの。
⸻
授業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
学校の階段を降りると、夜の空気が少しだけ冷たかった。
スマホが震えた。蒼からだった。
【迎え行こうか?】
【大丈夫。駅まで歩く】
すぐに返事が来た。
【無理しないでね】
その短い言葉に、朝の蒼の顔が重なる。
花凛が花凛じゃない感じがする。
花凛はスマホをしまい、夜道を歩き出した。
現実の街は、フローラ・ミラージュほど美しくはない。看板の光。コンビニの白い明かり。車の音。人の疲れた足音。
でも、ここにも生活がある。
花凛は右手の指輪に触れた。
なら、花凛自身はどうなのだろう。眠るたびに別の世界へ行き、別の誰かと入れ替わる自分は。どちらの世界で、どんな形になるのだろう。
そして——蒼は、どこまで気づいているのだろう。
街灯が揺れた。答えは、まだ夜の奥にある。




