漆:狙われた聖女
店を出たアルディラは、わずかに周囲へ視線を巡らせたのち、小さく息を吐いた。そして静かに呪文を唱え、何もない空間へと足を踏み出す。
その足は、まるで見えない階段を上るかのように宙を捉えた。
それは飛翔魔法。
浮遊すること自体は、魔法を扱う者であれば比較的容易に習得できる初歩の技術に過ぎない。
だが、それを実戦的な移動手段として用いるとなると話は別だ。高度を上げ、速度を維持しながら長距離を移動するには、膨大な魔力と精密な制御が求められる。
ほんの僅かでも制御を誤れば、失速して地に叩きつけられるか、あるいは魔力切れで墜落するため、かなり難易度の高い魔法に分類されている。
そんな魔法を行使して向かうは、北方にあるアカプルコ高原。
アルディラは地上の景色を一瞥することもなく、一気に速度と高度を上げた。
文字通り、アルディラは空を翔けていく。
馬で数日かかるような距離でも、一時間ほどで到着した。
アルディラが降り立ったのは、アカプルコ高原の端、ひと月前に土砂崩れが起きた場所だ。
今は雲のない青空が広がっているが、数ヶ月前に大雨が何日も続いた影響で地盤が緩くなっていたそうだ。
ベリーニの話では、広範囲に渡って崩れたため、数件の民家が飲み込まれたらしい。
ここへ来る途中にいくつかの集落を見かけたが、最後の集落には人の気配がまるでなかった。
おそらく住民たちは、この地を捨てて避難したのだろうと思われた。
そして高原の向こう側には、乾いた風が吹き抜ける荒野が広がっている。その先は隣国ヴィヌム王国の領土だ。
アルディラは周囲の気配を確かめるように一瞬だけ目を細めると、静かにその場に膝を折った。そして懐から何かを取り出す。
先程魔法道具店で購入した短剣だ。
鞘から抜くと、それをそのまま地面に突き立てる。
「解放魔法!」
低く、しかしはっきりとした声で呪文を唱えた刹那。
ぶわり。
清浄な魔力が、波紋のように周囲へと広がった。
それは、何かを洗い流すように、空気を震わせながら大地を駆けていく。澱んでいた気配が、一瞬にして浄化されていくようだ。
「……これでよし」
何かを覚悟した顔で呟いた、その時。
「っ!」
背筋を凍らせるような強烈な殺気を察知し、アルディラは反射的に横へと大きく飛び退いた。
刹那、一瞬前までアルディラの首があったところを銀の光が一閃する。
風を切り裂く音が、遅れて耳に届いた。
「あー、くそ、外したか」
妙に間延びした、緊張感のない声が響く。
その声音に、アルディラは僅かに眉を顰めた。
「……誰?」
鋭く問う。
予想に反して、剣を手にしているのは見知らぬ男だった。
ベルモントの占いで、身近な人物に気をつけろと言われたため、襲ってくるとしたら神官の誰かかと考えていたのだが。
「聞いたところで何になる? お前はここで死ぬんだ。聖女アルディラ。恨むなら、俺に依頼した奴を恨むんだな」
四十代半ばほどの体格の良い男だ。
目つきと剣の持ち方からして、おそらく金で殺しを請け負うことに慣れた傭兵だと思われる。
聖女アルディラの命を狙う者は多い。
祈ることを拒否したことで、神殿に所属する神官たちや、民間人の中でも聖女という存在を神聖視する団体からは、特に疎んじられている。
ベルモントの占いでも、身近な人物が命を狙っていると出た。それを考えると、依頼主とやらは神殿関係者なのではないかと思われた。
最も可能性が高いのは、大神官の一人アディントンか。
脳裏に、自分に対して憎悪の目を向ける男の顔が浮かぶ。大神官という立場で暗殺者を雇うなんて考え難いが、普段から敵意を向けられ続けているアルディラからしてみると、あり得ないとも言い切れない気がした。
とはいえ、今ここで依頼主のことを考えても意味はない。
「私に刃を向けた以上、命を落としても知らないわよ」
アルディラは右手をゆっくりと掲げ、感情を抑えた声で言い放つ。
その態度が癇に障ったのか、男は鼻で笑い、露骨に馬鹿にしたような表示を浮かべた。
「ふん。聖女だか何だか知らねぇが、所詮は小娘だ。この俺が負ける訳ねぇだろ」
剣を構え直す男の瞳には、躊躇いの欠片もない、純然たる殺意が宿っていた。
普通であれば、いくら報酬のためとはいえ、十代の娘を殺すことに多少の躊躇は生じるものだ。
だが、この男にはそれがない。
どうやらこの男は、女子供を殺すことに慣れているらしい。
「死ねぇ!」
怒号と共に、男が剣を振り翳しながらアルディラとの距離を詰める。
「ディフェ……!」
防御魔法の呪文を唱えかけたその時、アルディラの前にひらりと人影が舞い降りた。
かきん、無機質な金属音が響く。
「っ!」
突然の介入に、アルディラは思わず目を見開いた。
視線の先にいたのは、またしても見知らぬ人物。
陽光を受けて輝く金髪に、澄んだ碧眼。均整の取れた体格の青年だった。
「悪いが、ここで殺されたら困るんだ」
言うや、素早く男の剣を弾き飛ばし、剣の柄で項を思い切り叩く。
「がっ……!」
鈍い声を漏らし、男の身体が崩れ落ちた。
完全に意識を失ったらしく、ぴくりとも動かない。
「貴方は一体……?」
警戒しつつ尋ねるアルディラに、青年がゆっくりと振り返る。
見覚えのある顔だったが、思い出せない。
彼が自分を見つめる視線に、アルディラの本能が警鐘を鳴らし始めた時、彼は無言のまま、彼女の足元を目掛けて何かを投げつけた。
それが捕縛の魔法道具だと気付いた刹那、アルディラの意識は、唐突に闇へと引きずり込まれた。
「聖女様には、後任を選んだ後で、罪を償って死んでもらう必要があるからな」
青年がそんな言葉を吐き捨てたのを、アルディラは薄れる意識の中でぼんやりと聞き取ったのだった。
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