2.[仮説2]に関する観察と検証
「で、なんだっけ……、音楽療法?」
そう聞き返すと、准教授はウーロンハイを一口飲み「濃いなあ」とつぶやき顔をしかめた。
「そうです。音楽療法。それをテーマに書いてみるらしいですよ」
彼女は喧騒に負けないよう声を張って答えた。午後八時を過ぎた居酒屋の店内は、金曜日ということもあってにぎわっていた。
「しかし分野がちょっと違うんじゃないか?違うというか……ズレてると言ったらいいか。まったくの畑違いというわけではないので問題はないのだが……」
准教授は割りばしをマドラー代わりにしてジョッキの底を攪拌しはじめた。
「なんだか自信満々なんですよ。といっても、ほとんど知識はないようで、これから調べるとは言っていました。でも彼、音楽は好きなので」
「そうらしいね……。しかし、なぜ音楽療法?また彼特有のひらめきかい?」
「二人でドライブに出かけたとき、彼の好きな曲がラジオから突然流れてきたんです。そしたら彼が、曲が流れた瞬間に好きな曲だってわかった、本当に一瞬でわかったんだ。これってテーマになるかも――って言い出して」
「ああ、彼が言いたいことなんとなくわかるよ。私もねビートルズが好きでね。特に『HELP!』って曲が好きなんだ。テレビでさあ、なんでも鑑定団って番組あるだろ?あのオープニングがその曲なんだけど。いつもあれがテレビから流れるとさ、ドキッとする気がするもんね。不思議なことにさ、CDを買ってうちのオーディオで『HELP!』を聴いてみたけどそうはならないんだ、ましてや他のミュージシャンがカバーしてる演奏じゃなおさらだめ。多分若い頃、あの曲を初めて聴いたのがラジオだったからなんじゃないかなと思うんだ。ハイエンドなオーディオじゃなく、テレビのスピーカーの方が、ラジオのローファイな音に近いから。ただ私は熱心なオーディオマニアじゃないよ、だから耳が肥えてる方じゃない。けどあの音の感覚をね、僕の脳はちゃんとわかっているんだよ」
「あら、今日は白熱しそうですね。准教授が音楽好きって意外でした。あとで今の話をもう一度していただいていいですか?彼も心強い味方ができたと思うでしょうから」
「まあ、普通の学生だったら止めるとこだけど、彼なら大丈夫だろうね。教授も言ってたよ。あいつはひねくれてはいるけど、天才だからって……」
「やっぱり、ひねくれ者って思われてるんですね」
「そりゃあそうだよ。ただ、ひらめきとか直感というかな、そういう自分の感覚を信じてるのは素直だなあって思うよ。私は評価してる。そういうセンスが若い研究者には必要だと思うしね。今の子達はなんだか……なんというか慎重すぎるよね」
准教授は何も刺さっていないヤキトリの串を指揮棒のように小さく振りながら、言葉を選ぶように話す。
「純粋な人ですよ。彼はすごく」
「知ってるよ。だからキミも彼と付き合っているんだろ?」
「そうですねえ。まあいろいろありまして」
「にしても遅いなあ。彼はいつ来るんだ?」
「サークルに顔を出してから行くって言ってたので、まだ向こうで飲んでるかもしれませんね。かなりデキあがってから来るかもしれませんよ」
「酒癖わるいからねえ。この前なんか明け方に正門前で酔いつぶれて寝ているのを発見されたらしいよ」
「あら、それ初耳です」
「そういえば、キミには黙っておいてくれと言われたんだったな」
電車が過ぎ、踏切が開くと同時に再びスタートダッシュを決めた。
「待てー逃げんなー」後ろから酔っ払い達の雄叫びが聞こえる。
まったくしつこい連中だ。
脇腹が痛い。景色が揺れる。かなり飲まされたのだから当然だ。
これから彼女と会うことがばれてしまった。
いつもならこれからカラオケに移動して朝まで……、それがお決まりのコースだった。しかし今日は一軒目で辞することにしていた。
「明日家族と出かける用事があるんで、これで…」と居酒屋の前をそそくさと立ち去ろうとしたまではよかった。
「おいおい付き合い悪ーなあ」
「嘘だー、ジョノカだろージョノカー」
「いい歳してオカンとデートかよー」
「お前彼女居るんなら合コンセッティングしろよー」
「お前妹いるなら紹介してくれー」
酔っ払い達は口々に好き勝手野次を飛ばしてくる。
「ほんとすいません、また今度。ってかジョノカってなんすか?そうですオカンです。先輩こそ合コン誘ってくださいよー。俺妹いないっすー」
応える必要はないのだが、丁寧にもそれぞれの野次を適当にあしらいながら酔っ払いの集団から距離をあけていく。
「あいつ、さっき彼女とメールしてましたよ。これから会うみたいっすよ」
一人の酔っ払いが声をあげた。
「なにー」
「この裏切り者ー」
こうして、酔っ払い達の逃走劇は幕を上げたのだった。
サークルの連中をなんとか振り切り。幹線道路に面した歩道で携帯電話を開いてみた。メールが一通届いていた。
准教授もお待ちかねだよー
卒論について聞きたいこといっぱいあるみたいよ
彼女からだった。
「なんだ、准教授もいるのかよ……」
あと十分で着く。とメールを打ちながら横断歩道を渡ろうとしたときだった。
ヘッドライトの灯りがすぐ右隣に見えた。
え?青信号だよな。そうか左折してきたトラックか。息が上がっていたせいでエンジン音が聞こえなかった。くそ、巻き込み確認くらいしろよ。
右腕で思わず脇の辺りをかばう。顎を引き、握り拳でこめかみを守る。こういう時、人間の反射神経はするどい。
ブレーキ音が聞こえたが、その時には大きな力で体は横移動をはじめていた。痛みを感じるより早く、考えが脳細胞を駆け巡る。骨折くらいはしたかもしれないが、身体への重篤なダメージと脳の損傷は免れた。しかしこの先にまだ何があるかわからない。トラックとガードレールに挟まれるのは最悪だ。弾き飛ばされて、うまいこと何もないアスファルトの上を転がることができればベストか?植え込みかゴミ置き場でもあればクッションになってくれそうだが。植え込みは虫がいそうで嫌だな。ゴミ置き場は臭そうだな。いや今日はゴミの日ではないか……。
意識が途絶えた。
正午をすぎた日差しが悪意を持って、今は夏なんだということを俺に教えてくれた。アスファルトに含有されている金属酸化物や、空気中の水蒸気が無駄に乱反射を起こして、角膜を刺激してくる。仮に、今は冬だ。と仮説を立てみることにしよう。ところが、どうだろう。そこらじゅうにいる蝉たちが「反証」「反証」と大合唱しているではないか。つまり、そう、今は夏だ。
遊園地のゲート前は花火大会は夕方からだというのに、すでにこの時間から混雑しはじめている。
俺はきっと日差しと人ごみが嫌いだ。しかしこの憂うつさは、二日酔いのせいという可能性もあるが。なんにしても。俺はすでに……つまりはそう、げんなりしている。
妹は、大学生くらいの浴衣姿のカップルを横目に見ながら「やっぱり私も浴衣着てくればよかった」と言った。
俺は妹の浴衣姿を想像した。きっと赤い浴衣が似合うだろう。なんとなくそう思ったのだが、もしかしたら俺には妹が赤い浴衣を着ている記憶があるのかもしれない。
「なあ。お前浴衣なんて持ってたっけ?」俺は試しに聞いた。
「持ってるよう。去年買ったじゃん。お兄ちゃんが選んでくれた紫色のやつ」
どうやら赤い浴衣を着た妹のイメージは記憶ではないらしい。
今の俺のセンスならこの子には赤を選ぶはずだが、去年の俺は紫を選んだという。ヒトのセンスや好みというものも記憶の中に含まれているということなのだろうか。
人波に流されるままに俺と妹もゲートをくぐった。
「どう?二日酔いはなおった?」
こちらを向かずに聞いてきた妹の声色に、何かよくない企みを感じた。俺の胃袋のあたりがぎゅっと収縮する。記憶はなくとも、身体が危険を察知した。
「絶叫系はカンベンしてくれ。さっき食べたパンケーキの変わり果てた姿を見ることになるし、それが宙を舞うことにもなりかねない」
「やめてよ、きたない。じゃあやさしめのにしてあげるわよ」
「助かる」
俺たちはまず観覧車に乗ることにした。
シートに向かい合って座ると妹は足を組み、そして腕を組んでオホンとわざとらしい咳ばらいをひとつした。
「さて。なぜ人間は高い所にあこがれるのでしょう」
急になにを言い出すのか、とも思ったが俺の頭脳はすかさず、その問に対して面白い答えを出そうとフル回転しはじめた。
「地上が人間で飽和してきたから。二次元の世界から三次元の世界に居住空間を切り開こうとしているんだな」
うーん。と妹は何か気に食わないという顔でうなり、三秒ほど何かを考えた後「反証していい?」と聞いてきた。
「人間が密集している都会ではそれはいえるかもしれないけど、まだまだ切り開ける土地だって存在しているし……。それにこの観覧車は居住のためのものじゃなくて、楽しむためのものじゃない?」
妹は挑戦的な目を俺に向け言った。
「さすが俺の妹だ。君がそう言うのはわかっていた」
「はいお兄ちゃんの負けー。あとでアイスおごってね」
「まあ聞きなさい。今のは君を試しただけだ。そうだなあ……。じゃあ、神様に近づきたいからってのはどうだろう。自分たちを作って下さった神様に近づけば近づくほど、その気配が近くに感じるほど人間は安心するんだ」
「似たような話が聖書とかにあった気がするけど……。っていうか神様は空にいるの?」
「地上に見当たらないんだから空にいるっていうのが有力な説だったんだろうね、昔は」
「昔はってことは、今現在は違うっていうこと?」
「神様の存在を否定してしまえるくらいに科学が進歩しちゃったからね」
「でも神様が空にいないってわかっても、現代の人間も競い合うように高い建造物を造ったり、こうしてみんな楽しそうに観覧車に乗るじゃない」
「それはね科学の進歩が早過ぎたんだよ。実は神様っていうのは地球を覆っている大気中に存在してるんだよ。そこをちゃんと調べもせず、一気に宇宙まで到達しちゃったわけだ。
多分ね、人間の魂と呼ばれているものもその一部なんじゃないかな。ヘリウムガスみたいに上に上に向かうんだよ。大気の一部に含まれたがる。根源的な部分で人間はそれを知っているはずなんだ。わざわざ空気のない宇宙にまで行ってみることはないのに、自分たちが何によって生かされているのか、気づいていないのか、忘れちゃっただけなのか……」
二日酔いの頭がひねり出したにしては上出来な仮説だろう。
「なるほど。面白かった。アイスは割り勘でいいよ」妹は満足げにうなずいて言った。
「アイスを食べないっていう選択肢もあるぞ」
「それはないの。私の気分がアイスを求めているの」
「それに割り勘って……お前一人が食べればいいんじゃないか?」
「じゃあもういいわよ」
妹はそれきり黙りこんでしまった。今に泣き出してしまうんじゃないかという表情で外を見ている。我が妹ながらよくわからんやつだ。
しかしよくわからないままにしておく気にはなれない。この気まずい空気が観覧車が一周する間つづくのを想像するとぞっとする。それならば観覧車のスピードを上げるか、この最悪な雰囲気を打破するかだ。
問題は、もし観覧車のスピードを上げて一分もたたないうちに地上に到達してしまうと、きっと妹はそのまま俺の元から走り去ってゆく気がする。いじけた女の子とは総じてそういう行動をとるものだ。そして、自分が帰るべき場所や家族のことさえ忘れている今の俺は、ひとりで大きな病院へ行き「あのう、俺、記憶喪失なんです」と言わなければならない。
それはなんだかまぬけだ。そして俺に観覧車の速度を操る能力はない。ということで、打破してみようではないか。
「ごめん」とりあえず謝ってみた。
「何に対してのごめんよ?」
火に油を注いでしまっただろうか?
「お前の気持ちをよくわかってやれていないことに対して」
これじゃ本当に痴話喧嘩みたいだ。兄妹ってこういうものなのか?
「それはいつものことじゃない……」
「頼むから機嫌なおしてくれよ」
「じゃあ……。誰が神様を作ったのでしょう?」
「え?」
「面白い仮説を聞かせて。そしたら機嫌なおるかも」
受けて立とう。俺は天才なのだ。天才?俺が?そうだったかもしれない。よし。
「俺が神様を作った」
「は?」
案の定、妹はきょとんとしている。よし。俺の勝ちだ。
「本当は神様なんていないんだよ。さっき俺は、お前の期待に応えたいがために……、ただそれだけのために、わざわざイメージの中で神様を作り出したんだよ」
さあ、どうだ、妹よ。
「お兄ちゃんらしい……。うん。まあまあかな……」妹はやっと微笑んでくれた。
「うむ。ありがとう」
「アイスおごってね」
「よし。おごってやる」
あれ?負けたのは俺の方か?
妹は鼻歌を歌いながら地上を見下ろす。どこかで聴いたことがあるメロディだ。
俺も妹が見ている方に視線を落とす。そこには蟻の行列がこの観覧車に向って蛇行しているのが見えた。所々にいるピンク色や藍色の蟻は、浴衣を着た人達だろう。
いい気なもんだ。俺はさっきまで機嫌を損ねた神様をなだめるのに必死だったんだ。アイスひとつで済んだのが不幸中の幸いだ。
記憶のない俺にとって、今はこの妹だけがこの世界との接点なのだ。この子が俺を「お兄ちゃん」と呼んでくれることで、俺はこの子の兄として世界に存在している。もしこの子がいなければ、[仮設1]をいまだに捨てきれず、ゴミ置き場で反証理由を探し、悩み苦しんでいたかもしれない。つまり今の俺にとってこの妹こそが神様と呼ぶにふさわしい。地上を這う蟻たちすべてに問いたい。お前たちには神様がいるのか? と……。
神の視点を楽しんでいた俺はふと大変なことに気づいてしまった。
「俺は高い所が好きじゃないみたいだ。忘れてたけど……」
「私は知ってたけど。どうして観覧車に乗るのキョヒらないのか不思議だった」
「どうして教えてくれなかった?」
「大丈夫。神様が、お前たちはまだ地上にいろとおっしゃっておられるのよ。私たちはもう地上に戻されつつあるから」
妹の言うとおり俺達の乗った箱はいつのまにか頂点を過ぎていた。
その後、俺たちは遊覧船に乗ったり、くるくる回るコーヒーカップに乗ったりした。乗り物の待ち時間はくだらない話で盛り上がった。いつのまにか二日酔いはすっきりとおさまっていたし、自分が記憶喪失だということもすっかり意識から抜け落ちていた。
花火大会の時刻が迫っきたので、俺たちは広場に移動することにした。メイン会場の広場には多くの人が集まっており、レジャーシートを広げている家族づれや、芝生に直接あぐらをかき酒盛りをはじめているおじさん、一つの焼きそばを二人で立ったまま頬張る若いカップルなどが、ひしめきあうようにして、思い思いにこの空気感を楽しんでいた。
人々のざわめきと、芝の青臭さ、屋台から漂う油や砂糖の焦げた匂いに、自然と気分は高揚してしまう。
日本人は基本的にお祭りが好きだ。きっとそういう本能を持って生まれている。でなければわざわざこんな人だかりに出掛けて、しかも蚊に食われて痒い思いをするリスクを冒してまで、これだけ多くの人々が集まったりはしない。
それに、幼き日に両親に連れられて行ったお祭りの楽しかった思い出や、初めて恋人と行った夏祭りの甘酸っぱい青春。そういった経験が俺にもあるのかもしれないが、それらをなくしている今の俺でさえ、胸が高鳴ってしまうのだ。
日本人のDNAに刻まれた、お祭り好きの本能がそうさせるに違いない。
面白い仮説だが、これを妹に披露するには、俺が記憶喪失だということを打ち明けなければならない。
隠す必要などないのだが、楽しそうな妹を見ているとそれもためらわれる。
自分が記憶喪失になってしまったら、普通なら一大事だろう。しかしこの楽しい時間に水を差すことの方が俺にとっては一大事なように思えた。
せめて今日一日は――。
「お兄ちゃんはビールじゃなくてよかったの?」屋台で買ってきた瓶のラムネを二つ両手に持って妹は戻ってきた。
ひとつを俺に差し出す。
「今日はソフトドリンクでいい」
受け取ると瓶は濡れていた。後で手がべたべたになってしまう。ラムネとはそういう飲み物だということも忘れていたようだ。
「昨日飲み過ぎたから?」
「その話はなしだ。最悪な目覚めだった、もう思い出したくない」
「人多いね。あっちの方で観ようか?」
人混みを逃れて、俺たちは人工池にかかる小さな橋の上にきた。ここなら人がほとんど来ない。
「コンパスでー描いたようなー月の下――」
一メートルほどの高さの欄干に、ひょいと腰かけ、妹が木々の間に浮かぶ月を見上げ歌いだした。
「え?それ、どこかで聞いたことが……」俺は目を見開いて聞いた。
「お兄ちゃんが好きな曲の歌いだしじゃん」
俺の好きな曲?そうだ。なんとなく覚えている。
その時、最初の花火が打ちあがった。
どこかで「おー」と声があがった。
振り向くと真昼のように視界が明るくなった。人工池とその向こうにある広場の人々が見渡せるほどに。
夜空と水面にはコンパスで書いたようなキレイな丸が二つ広がってゆく。一秒遅れて、みぞおちの辺りを共振させる低音を伴なった重い爆発音がドーンとやってきた。
「わー」と妹が声を上げる。広場の方からも歓声が聞こえてきた。
そうか。覚えていることもあるんだ。それは好きなことや、苦手なことだ。例えば俺は妹のことが好きだし、高い所が苦手だ。お祭りは好きだけど人が多い所は苦手だ。
しかし、俺の妹を好きだという感情は兄として正しいものだろうか?
俺は妹の隣に腰かけた。妹の顔を盗み見ると、花火が発した光に照らされキレイな顔がよく見えた。
俺たちは自然と手をつないだ。
妹の手も、俺の手もさっき飲んだラムネのせいでべたべたしているはずだが、気にならなかった。
血の繋がった家族を愛するのは人間として正しいことだ。しかし、今の俺が妹に向けている愛情と思われるものは、あきらかに他人を求める本能だ。倫理的に正しいことではない。
妹は俺をどう思っているのだろう。
もう一度妹の顔を盗み見ると、今度は暗くて表情がよく見えなかった。
俺が記憶を取り戻したとき、今日の記憶と一緒にこの不純な感情も一緒に消えてなくなってくれたらいいのだが……。
「ありがとう。今日は楽しかった」妹は言った。
「あ、あの、あのな、実はな……」そろそろ本当のことを言わなくては……。
「記憶ないんでしょ? 」
「え?なんで、知ってたのか?」
「あなたはそうなのよ。あなたの記憶は、二十四時間しかもたないの」
「なんだそれ?いつからそんな……」
「八年前から」
「それじゃ……俺は誰なんだよ?君も誰なんだよ…… いや、君が誰なのかはなんとなくわかっている」
俺は混乱した。しかし何故か安心もした。
「ごめん。多分、俺、毎日同じことを君に聞いてるんだろ?」
「うん、そう。あなたは頭がいいから、気がついて、謝るの。毎日ね」
「妹じゃないよな?」
「やっぱり気がついてた?」
「うん。最初から」
「なんで?」
「君のことが好きだったから」
「そのセリフも毎日言ってる」
「やっぱりか」
「明日はどういう設定がいい?」
「結婚しようか」思わずそう言ってしまった。
「フフ、ダーメ。忘れちゃったの、私達の関係」
「関係って、本当の兄妹じゃないんだろ?」
「私達、夫婦なのよ」
「え?」
「昨日、結婚式したの。あなた三次会で酔いつぶれちゃって」
「ああ、だから。二日酔いだったのか」
「これから毎日結婚式する気?それも悪くないかな」
「ありがとう……。でも君はつらくないの?こんな、俺なんかといて」
「正直、時々ちょっとつらくなる……。うそ。ごめん、忘れて」
「そんな、そんなの笑えない。忘れたくて忘れてるわけじゃないのに。ならもう俺のことは放っといてくれていいんだよ。そしたら君は……」
「そう?じゃあ、さよならね。今日はそういう設定なのね?悲しい結末。はい。それでは明日のあなたはどんな人生にしたいですか?」テレビ番組の司会者のように彼女はおどけて言った。握りこぶしを俺の口元に近づけているのはマイクを持っているつもりらしい。
「違う!もう君は君の人生を生きていいんだよ。俺のためにこんなこと……もしかしたら俺は一生治らないかもしれない、そしたら君はいつまで続けることになるんだよ。大丈夫だよ、君がいなくてもなんとかなるから」
「あなたそれも毎日言ってる。私はね、それを聞くのが一番つらい、それだけが……」
苦しそうに喉の奥を震わせた声。その声を合図に、俺の体中に動脈を伝って最悪な感情が広がってゆく。後悔、罪悪感……。それらはまた静脈を伝って心臓に帰ってくる。だからこんなにも胸が苦しいに違いない。いつかそれらが詰って俺の心臓は破裂してしまうのではないかと思うほどに……。
できることなら君をこんな俺から解放したい。何かいい手がないだろうか。何か思いつけないだろうか。今日がダメなら明日が、明日がダメなら、明後日の俺が。明後日がダメなら……とにかくなるべく早いうちに。もうこれ以上彼女の人生を俺のために無駄に使ってほしくない。そう考えているうちに、俺は気づいてしまった。
「そうか、多分こんなくだらないこと、思いついたのはボクなんだね?」
「うん」彼女は小さくうなずいた。
やはりそうか。俺がこうなってしまってから、きっと俺達は戸惑いながら毎日を過ごしていた。一日が終わればまた戸惑いながら同じような一日を過ごす。その繰り返し。でも君は離れてはいかなかった。だから、俺は考えた。
せめてなるべく多くの時間を二人が幸せに過ごすための方法を。
そして、俺は……。
毎日俺を騙すことにした。
「ごめん。大変なことにつきあわせちゃって」
「大丈夫。私は結構楽しいから。設定を考えることも。苦手だった演技も上手くあなたを騙せるくらいになると楽しくなってきちゃった」
「そう、でも目が覚めたらゴミ置き場っていうのは、もう勘弁して欲しいかな」
「わかった。もうしない」
最期が近づきつつあるのを感じる。
頭の中にかかる霧が濃くなってきた。目を凝らさなければ君の顔が見えないほどに。
でもまだだ。まだ伝えなければいけない。
イメージする。この霧の中に隠されているはずの〈それ〉を探して両手を振り回す。しかしイメージの中の俺の両手は何かに触れることはなく、むなしく空をさ迷うだけだった。
もう無理かもしれない。明日の俺は、ちゃんとすべてを君に伝えられるだろうか?
霧はしだいにその密度を増してゆく。それはまるで鋼鉄で作られた壁のように硬く冷たく俺の眼前に立ちふさがり、無情な闇を作り出す。
いつか俺はこの霧を頭の中から追い出いことはできるのだろうか?
灯りが欲しくなった。この霧の向こうを覗けなくとも、せめて今だけでも、君の顔を見るための明かりが……。
諦めかけたその時、何かを掴んだ気がした。か細くて頼りない。強く引っぱれば容易く切れてしまいそうな感触。
それは記憶の糸。
手繰り寄せた先にあったのは、ひとつの言葉だった。
なんでもいい。伝えなければ。
「僕は……キミ……を……」
糸は切れた。言葉は不完全なまま小さく空気を震わせただけだった。焦っていたせいか〈キミ〉のアクセントもおかしくなってしまった。
「知ってるよ」
と、キミが言った気がした。
知ってる?
キミは知っているの?
最後の花火が打ち上がる。
ひときわ大きな大輪が夜空に咲いた瞬間。君の顔が見えた。
キミはキレイに笑っていた。
そして頭の中にかかる霧の向こう側をやっと見透すことができた。僕の一日の人生。その終りに見た走馬灯は、僕が失ってきた何百日間ものキミとの人生の記憶。
あのメロディが流れ出す。
僕が先生でキミが生徒だったこともあった。無人島に流れ着いた二人だったこともあった。古いアパートの二階で暮らし、キミは窓辺に乗りだしシャボン玉を飛ばしていたことも。ついに結婚式の日を迎えた恋人同士だったことも。
やがて閃光が消える。濃密な闇が訪れ、僕の記憶がまた消える。僕はまた僕をなくすのだろう。
メロディが鳴りやむ。
僕は闇に落ちてゆく。
下は人工池だ。きっと大丈夫、怪我はしないだろう。
[仮説3] ヒトは記憶を残して、それを積み重ねて生きている。君の顔も、君の名前も、君の声も、匂いも、感触も、君への感謝の気持ちも、愛しさも、申し訳なさも、何もかもすべて記憶でしかない。それを残すことも積み重ねることもできない僕は、いつの日か彼女が僕の前からいなくなったとしても、辛さも、悲しさも感じないだろう。
そう、全部忘れてしまうのだから。




