3.[仮説3]に対する反証
屋上に彼はいた。
西の空は、オレンジ色に燃えている。その炎は今まさに今日という日を焼き尽くそうとしていた。そして頭上には未熟な夜が濃紺の帳を広げ、その時を今か今かと待ちわびている。昼と夜とがせめぎ合い、確実な運命に従い今日が負けてゆく。
もし、このグラデーションを巨大なマドラーで攪拌してしまうことができたとしたら、あっけなくこの空は黒一色の夜になってくれるだろうか。そうできたら、夜の訪れを早めた分、明日が早くきてはくれないだろうか。彼はそんな妄想をした。
「また明日ね……」
さきほどまでここにいた彼女が、最後に言った言葉だ。
彼は自分の着ているシャツの襟の辺りが濡れているのが気になった。
そして自分が涙を流していることに初めて気がついた。
彼が病室にいないとなると、いくところはいつも決まっている。紀美子はそれを知っていた。
交通事故で意識不明のまま病院に運び込まれた彼は三日間昏睡情態が続き。目覚めると自分の名前や生い立ち、両親のことも、友人達のことも、紀美子のことさえも忘れていた。そして、そればかりか二十四時間以上、記憶を留めることができなくなっていた。
しかし、好きな食べ物や好きな音楽、好きな場所というのは忘れないものらしい。
彼にとっては初対面であるはずの紀美子が作るパンケーキはいつも美味しいと言って食べてくれるし、天気のよい日は屋上の隅に置かれている色褪せた水色のベンチで鼻歌を歌いながら難しい本を何時間でも読んでいる。
今も彼は彼らしく、彼のままでありつづけている。
「気になるととことん気になる、僕はそういう性格なんだよ。キミのことが気になってしまったんだから、しかたがないじゃないか……」
いつか彼はそう言っていた。
紀美子は自分の複雑な家庭環境のことを彼に話したことはなかった。紀美子の父親は家業が立ちいかなくなると、残高わずかな預金通帳をこそこそと持ち出し。「ちょっと銀行に行ってくる」と言い残し行方をくらませてしまった。母親は残された紀美子と数人の従業員のために必死で働き続けた。ある日、とうとう体を壊し入院することになってしまった。そして一カ月後にこの世を去った。紀美子が大学二年生の時だった。
大学は諦めなければならないかもしれない。紀美子は漠然とそう考えていた時、彼から突然連絡がきた。
「バイト探すのが面倒で、自分で会社作ったんだ。人手が足りないから働いてくれない?」と彼は信じられないことを言ってきた。
紀美子に任された仕事は簡単なデータの入力だった。週に3~5日、一日に4時間程度。自宅のパソコンに向かって仕事をする。すると月末には彼の会社名義の口座から驚くほどの金額が振り込まれた。それは紀美子の両親が家業で手にしていた額よりも多いと思われた。不安を覚えた紀美子は彼を問いただすことにした。
「社員はキミと僕だけだから、相応な額だよ。あと、誰にも言わないで欲しい。やましいことは何もしてないけど、お金のこととなるとね……、信用できる人は少ない」と彼は説明してくれたが疑問は拭えなかった。
学生のうちに起業をする人の話はたまに耳にする。最近では珍しい話ではないのかもしれない。しかし、彼の場合は将来を有望視されている研究者の卵だ。学業の傍ら一体いつのまに準備を進めていたのか。それに、彼はお金に関して野心的な印象はない。彼のことをよく知っていたわけではないが、なんとなくそう感じていたし、その後も彼の服装や生活が派手になるようなこともなかった。
それもそのはず。実は、彼は紀美子のためだけに会社を作ってしまったのだ。
彼は紀美子の事情をどこからか知った。知るやいなや、彼は動き出した。寝る間を惜しんで準備を進めた。その時、彼は信頼していた准教授を頼った。准教授はその豊富な人脈を活かし、彼を手助けしたのだという。紀美子はその准教授にだけは自分の家族の事情を打ち明けていた。紀美子が母の葬儀を済ませ落ち着きを取り戻すまでに、彼はすべてをやり遂げてしまった。
それらはすべて後になって紀美子が知ることとなる。
その企業は、今現在も彼の所属していたサークルのメンバーが中心となって莫大な利益を生み出している。
そのおかげで紀美子は大学を卒業することができた。そして、今年から音楽療法士になることを目指し、また別の大学を受験しなおした。その入学式を明日に控えていた。
彼が信じたもので、彼を救うことができるかもしれない。と紀美子は考えていた。
今度は自分が彼を助ける番だ。そう心に決め、屋上に出るためのドアを開いた。
今日も彼は、色褪せた水色のベンチに座って、本を読んでいた。
近づいていくと鼻歌が聴こえてくる。
誰かが歩いてくることに気がつくと、彼は鼻歌をやめ、読んでいた本から目を離し顔を上げた。
「はじめまして」紀美子は今日はじめて会ったかのように挨拶をした。昨日、彼が思いついたアイディアだった。
「はじめまして」彼は少し困ったように挨拶を返す。
「あの、私これ作ったんですけど、母がここに入院していて、それで……。でも母が苺アレルギーなのを忘れていて。なので、もったいないので、もしよかったら食べませんか?」
紀美子は今日まで演技というものを経験したことがなかった。なのでセリフはしどろもどろで拙いものになってしまった。しかし彼は別のことが気になったようだ。
「ご家族のアレルギーなんて大事なことじゃないですか。それを忘れちゃっていたんですか?」
ちょっと意地悪そうな笑顔で彼は聞いた。
「はい。私ってドジなんですよ」
紀美子は嬉しくなった。このセリフはアドリブにも関わらず自然と言えた。彼の笑顔をあの事故の日以来、久々に見ることができたからだ。
「なんですか?それは」
「苺と生クリームをパンケーキで挟んだものです」
「ああ、多分それ俺好きですよ。大好物です」
「よかったー」
「いやあ、嬉しいなあ。一緒に食べませんか?」
「はい。」
二人は並んで座り。苺のパンケーキを食べた。こんな穏やかな時間はいつ以来のことだろう。そう思うと、紀美子は笑みを隠せなかった。
「さっきの、いい曲ですね」
「やっぱり聞かれちゃってましたか?それが、僕は誰の曲かは知らないんですよ。僕のプレイヤーは壊れているみたいで、なぜかこの曲しか再生できないんです。曲名は『I KNOW YOU』っていうらしいんですが……」
彼の病室にプレイヤーなどは置いていない。初対面の私を気遣わせないために、彼はそんな喩えを使ったのだ。
「実は私もその曲好きなんですよ」
「え、そうなんですか。誰の曲なんですか?」
「the pillowsというバンドの曲なんです」
「へえ。そうか、覚えておきます。携帯の着信音にしたかったんで、誰の曲かわかれば探せます。助かりました」
「どうしてその曲だけしか再生できないんでしょうね?」
「これはあくまで仮説ですが、僕のプレイヤーには曲名があいうえお順に並べられていて、一番先頭にくるこの曲以外消えちゃったんじゃないかな」
「プレイヤー、なおるといいですね」
「うーん。難しいみたいなんですよ。でもとりあえずこれが聴ければいいかな」
「どうしてそんなに好きなんですか?」
その答えは知っている。しかし紀美子はあえて聞いた。
「そうですねー。どうしてかなー……。I LOVE YOUでも、I WANT YOUでもI NEED YOUでもなくI KNOW YOUだからですね。すごく控えめな言葉のようで、実はそれが一番大事なことだと思いませんか?なんというか、相手とのすごく深いところでのつながりを感じるんです。僕はキミを知っているって……」
彼は今確かに〈キミ〉と言った。君ではなく、キにアクセントをつけた。〈キミ〉だ。彼を含めて、親しい友人達は紀美子をそう呼ぶ。
彼は、自分がなぜキミをおかしなアクセントで発音してしまったのか理解できていないようだった。
「どうかしました?」
紀美子は聞いた。驚きを悟られないようにと、どうにか平静を保てた。
「ちょっと、また仮説を思い付きました」
彼は本当に頭がいい。その仮説遊びを最初に思いついたのも彼だった。ルールは簡単で、日常の中でふと疑問に感じたことがテーマとなる。テーマはいつも他愛もないことだった。仮説をたてて、それに対して相手は反証を探す。付き合いはじめたころ、二人には共通の話題が少なく、お互いに口下手だったこともあって、二人だけで会っていると沈黙が続いてしまうこともしばしばだった。そこで彼がこの遊びを思いついた。紀美子は最初そこまでして、無理に一緒にいる必要はないんじゃないかとも思った。
しかし、始めてみると凄く楽しかった。
彼はいつも紀美子が退屈しないように、楽しくすごせるようにといろんな遊びを考えつく。そんな彼を紀美子は本当にいい人だと思った。彼とならずっと一緒にいたい。そう思えた。
それはあの事故の後も変わっていないし、これからも変わらない。
「どんな仮説ですか?」
「それは……。もしかしてキミは僕を知っているの?」
反証を探す。それがルール。
しかし、紀美子は初めてルールを破ってしまう。
思わず正直に答える。
キレイに笑いながら。




