待ってたぜ
壁に叩きつけられた男は床に崩れ落ちたまま動かなかった。
腕が変な方向へ曲がっている。
肩のあたりも服の上から見て分かるくらい不自然に沈んでいた。
それを見た瞬間、誰かが悲鳴を上げた。
その声が合図になったみたいに、周りの参加者たちが一気に崩れる。
「うわっ、うわ、うわああああっ!」
「いや、無理、無理だって!」
「戻る! 戻るからどけよ!」
「誰か、誰か外に――」
声が重なって、何を言っているのか分からなくなった。
誰かが後ろへ走ろうとして別の参加者にぶつかり、そのまま床に倒れる。
倒れた人の足を別の誰かが踏みかけて、踏まれそうになった方が悲鳴を上げる。
入口側へ向かった男は作業服の男に肩を掴まれ、勢いのまま壁へ押し戻された。
「離せよ!」
そう叫んだ男の腹に作業服の男の拳が入る。
男は声を詰まらせ、その場に膝をついた。
それを見た別の参加者が今度は横の細い隙間へ逃げようとする。
でもそこは壁だった。
通れる場所なんてない。
石の壁に手をついたまま、その参加者は自分がどこにも行けないことに気づいたのか、変な声を漏らしてその場に座り込んだ。
瀬川も動けなかった。
逃げなきゃいけない。
逃げないと死ぬ。
そう思っているのにどこへ逃げればいいのかが分からない。
前には神崎がいる。
後ろには作業服の男たちがいる。
左右は石の壁で、足元にはさっき殴られて動かなくなった参加者がいる。
いや、動け。
動いてくれ。
起き上がってくれ。
そう思ってしまった。
そんなことがあるわけないのに、まだ起き上がってくれれば、これは本当に人が死ぬような状況ではないと思える気がした。
だがその男は動かなかった。
床に落ちた腕は力が抜けたままで、さっきまで人だったものがもう人として立ち上がる形をしていないように見えた。
瀬川の喉が詰まる。
吐きそうだった。
胃の奥がせり上がってくるのに何も出ない。
息だけが浅くなって胸の中が変に痛い。
なんでこんなことになっている。
説明だけじゃなかったのか。
入口付近じゃなかったのか。
変だったら帰ればいいんじゃなかったのか。
自分で言った言葉が頭の中でぐちゃぐちゃに戻ってくる。
そのどれもが、今は何の役にも立たなかった。
「覚醒者同士っつっても、レベル差がありゃこんなもんか」
神崎が笑っていた。
その声を聞いた時、瀬川はようやく神崎の顔をまともに見た。
いや、まともに見たというより見てしまった。
この男の顔をどこかで見たことがある。
どこだ。
どこで見た。
バイトの説明の時か。
いや違う。
その前だ。
スマホの画面。
動画。
氷室。
そこまで浮かんで、瀬川はようやく思い出した。
そうだ。
この男は氷室と戦っていた男だ。
拡散されてるあの動画に映っていた。
氷室が相手にしていた。
画面越しに見た時は、すごいと思った。
覚醒者同士が戦っている。
氷室があんな相手に向かっていっている。
自分も早くダンジョンに入りたい。
実戦を経験すれば、少しは近づけるかもしれない。
そんなことを思っていた。
でも今、瀬川はその男の前にいる。
画面の中みたいな安全が保証されているような場所からではない。
さっき目の前で人が一人潰された。
それをやった男が今、なんの悪びれもなく普通に笑っている。
氷室はこんな奴と戦っていたのか。
こんな奴の前に立っていたのか。
瀬川は足元を見る。
膝が震えていた。
自分でも分かるくらい、はっきり震えている。
情けない。
でも止まらない。
足に力を入れようとしても、床に貼りついたみたいに動かない。
呼吸もまともにできていない。
なのに自分は、少し前まで氷室を羨ましいと思っていた。
早くダンジョンに入りたいとか、強くなりたいとか、覚醒者なんだから実戦経験が必要だとか、そういうことばかり考えていた。
今の自分にそんなことを言う資格があったのか?
たぶん無かった。
少なくとも目の前で人が潰されて、逃げることもできず、戦うことなんて考えられず、ただ足を震わせているだけの今の自分には確実に無い。
「おら、次は誰だよ」
神崎が一歩進む。
その一歩だけで、参加者たちがまた押し合うように後ろへ下がった。
でも後ろには作業服の男たちがいる。
下がれば押し返される。
逃げようとすれば殴られる。
誰かが泣いていた。
誰かが「ごめんなさい」と何度も言っていた。
誰に謝っているのかは分からない。
瀬川にも分からない。
ただ、その声を聞いているだけで自分まで何かを謝りたくなった。
ここに来てすみません。
調子に乗ってすみません。
変だったら帰ればいいなんて言ってすみません。
そんな意味の分からない言葉が頭の中だけでぐるぐる回る。
神崎の視線が参加者たちの間を動いていく。
誰を先に潰すか決めているだけの目だった。
人を見ているというより、邪魔な物をどかす順番を選んでいるように見えた。
その視線が相沢で止まる。
相沢は瀬川のすぐ横にいた。
瀬川の袖を掴んだまま、声も出せずに固まっている。
手が震えていた。
震えは袖越しにも伝わってくる。
顔色は悪く、唇もほとんど血の色がなかった。
相沢は瀬川よりレベルが低い。
覚醒者養成プログラムにも、そこまで多く参加できていない。
戦闘経験も少ない。
今この場で感じている恐怖は、きっと瀬川より大きい。
そんなことは見れば分かる。
なのに相沢は動けない。
いや、動けるわけがない。
瀬川だって動けないのだから。
「お前か」
神崎が相沢へ近づく。
相沢の指が瀬川の袖をさらに強く握った。
助けてと言われたわけではない。
相沢は何も言っていない。
ただ掴まれた袖の力だけで、瀬川は自分が今どういう場所にいるのかを嫌でも分からされた。
ここで動かなければ、たぶん相沢が殺される。
さっきの男みたいに。
壁に叩きつけられて、変な形になって、そして最後には動かなくなる。
瀬川は自分の足を見る。
まだ震えている。
情けないくらい震えている。
相沢を守る。
そんな格好いい言葉を口にできるほど、自分は強くない。
そもそも守れる力があるとも思えない。
神崎が腕を振れば、それだけで終わる。
さっき見た。
あれを自分が受けたら死ぬ。
間違いなく死ぬ。
そんなことは分かりきっているのに、ここで相沢の後ろに立ったまま何もしなかったら、自分はもう覚醒者として生きていけないと思った。
実際はめちゃくちゃ怖い。
逃げたい。
死にたくない。
でも、ここで何もしない自分をこの先ずっと抱えて生きる方が、今は少しだけ怖い気がした。
瀬川は震える足に力を入れる。
一歩。
本当に一歩だけだった。
それでも相沢の前に出た。
「瀬川くん……?」
相沢の声が震えていた。
瀬川は振り返れなかった。
振り返ったら、もう前を向けなくなる気がした。
「下がってて」
声がかすれた。
自分でも情けない声だと思った。
それでも、どうにか口にした。
神崎が足を止める。
それから、面白そうに口元を歪めた。
「はっ。あの付与術師といいコイツといい、男ってのはどいつもこいつも女の前で格好つけたがるんだな。まあ、どうせ死ぬ順番が変わるだけだぜ」
神崎の腕が上がる。
瀬川には、その動きがやけにゆっくり見えた。
いや、本当にゆっくりなわけがない。
体が勝手にそう感じているだけだ。
——死ぬ。
そう思った。
けれど、相沢の前から退くことだけはしなかった。
「……死ねや」
神崎の冷たい声とともにその拳が迫る。
そんな最中、何かが瀬川の体を包んだ。
温かいわけではない。
光ったわけでもない。
ただ、体の外側に分厚い膜を何枚も重ねられたような感覚が、一瞬で全身に広がった。
神崎の拳が瀬川の胴に直撃する。
鈍い音。
そして強い衝撃。
「……っ!?」
瀬川の体が宙に浮いた。
息が止まる。
視界が揺れる。
体が床に叩きつけられ、肺の中の空気が全部押し出された。
「がっ……!」
痛い。
とんでもなく痛い。
だが、潰れていない。
腕も肩も、さっきの男みたいにはなっていない。
意識が飛びそうだった。
「瀬川くん!」
それでも、相沢の悲鳴だけは聞こえた。
死んでいない。
瀬川はそれだけを、ぼんやりと理解した。
「……あ?」
神崎の声が聞こえる。
「なんだ?」
瀬川の視界はかすれていたが、神崎が自分の腕を見ているのは分かった。
手応えが違ったのだろう。
さっきの男を潰した時とは違う。
同じように殴ったはずなのに、瀬川は潰れず、吹き飛ばされただけで済んでいる。
神崎の視線がゆっくりと奥へ動いた。
瀬川も首だけをわずかに動かす。
作業服の男たちのさらに後ろだ。
通路の影の中に、一人の青年が立っていた。
氷室蓮。
いつ来たのかは分からない。
なぜこんな場所にいるのかさえも分からない。
ただ、そこにいた。
「はっ、待ってたぜ。付与術師」
神崎の視線は氷室をたしかに捕らえ、そして口元をゆっくりと歪ませた。




