そして翌朝
ドッ——
鈍い音。
拳が、男の胴にめり込んだ。
【実績を達成しました】
【A:付与術師として、他者への付与を一切行わず、敵対する戦闘系ジョブ保有覚醒者に、自己付与のみの一撃で最大HPの二割以上のダメージを与える】
【世界初達成報酬が付与されます】
【報酬:衝撃付与】
「ぐっ……!」
男の体がくの字に折れる。
そのまま数歩後ろへ下がった。
入った。
かなり深く入った。
視界の端に、実績達成の表示が浮かんでいる。
見えた。
取れた。
最大HPの二割以上。
あの無茶苦茶な条件を、本当に満たした。
しかも世界初達成報酬まで出ている。
報酬。
衝撃付与。
気になる。
めちゃくちゃ気になる。
けど、今は無理だ。
確認している余裕なんてない。
男はまだ倒れていない。
壬生も後ろにいる。
ここでステータスを開いている場合じゃない。
俺は左手を下ろしながら、荒くなりそうな息を抑える。
拳が痛いし手首も痛い。
あと普通にMPがきつい。
耐久、敏捷、筋力。
付与残響を使って三つを重ねる。
そして筋力付与の二重がけ。
理屈の上ではできると分かっていた。
検証もしていた。
でも実戦でやるのは別物だった。
体の中を何かが一気に削っていくような感覚がある。
立っているだけで少しだるい。
けど。
男は腹を押さえていた。
さっきまでの余裕は消えている。
「……っ、てぇな」
男が低く呻いた。
膝はついていない。
ふらついてはいる。
息も乱れている。
だが、倒れてはいない。
普通に立っている。
いや。
普通ではないか。
かなり効いている。
けれど、まだまだ戦える目をしていた。
くそ。
やっぱり闘士ってのは強い。
というか、この男は単純に見た目的に素の戦闘力も高そうだしな。
一方のこっちは、かなり無理をした一撃だった。
それでも終わらないのか。
「付与術師って……マジかよ」
男は腹を押さえたまま、俺を見る。
「支援職の拳じゃねぇだろ、今の」
俺もそう思う。
そこは否定できない。
付与術師の正しい戦い方かと聞かれたら、多分かなり違う。
先生に……いや、正確には俺の師匠的存在、御幸七海センパイに見られたら怒られる気がする。
「氷室くん」
壬生の声がした。
すぐ近く、俺のやや後ろ。
いつでも動ける位置。
いつでも戦える距離。
いつの間にか、壬生はそこに立ってくれている。
たぶんこの先は二人でやった方がいい。
壬生もそう思っているんだろう。
実際、俺一人でもう一度同じことをやれと言われたらかなりきつい。
あの男も、それを分かっているのかもしれない。
視線が俺と壬生を交互に動く。
「二人で来るか?」
男が口元を歪めた。
「いいぜ。そっちの女も覚醒者なんだろ? 一人が付与術師なら、もう一人もただの高校生ってわけじゃねぇんだよな」
壬生は答えない。
俺の隣で静かに構えている。
こっちはもう十分に試した。
前に出る付与術師がどこまでやれるか。
それは分かった。
ジョブ専用実績もとれた。
だからここから先は普通に安全重視でいきたい。
俺は呼吸を整える。
次に入れるなら耐久か。
いや、男が壬生を狙うなら敏捷もいる。
筋力はもう一発入れたいところだがMPが重い。
というかもうMP、ほぼないんだけど。
ああ。
やっぱりこのジョブ、戦闘中に考えることがあまりに多すぎるな。
ちょうどそんなことを考えた時だった。
男のポケットから電子音が鳴った。
着信音。
男は一瞬だけ顔をしかめる。
「……こんな時にかよ」
舌打ちしながらスマホを取り出した。
画面を見た瞬間、わずかに眉が動く。
知っている相手らしい。
「なんだよ」
男はスマホを耳に当てる。
電話の向こうの声は聞こえない。
ただ、男の表情だけが変わっていく。
「……あ?」
男の目が細くなる。
それから視線が、俺ではなく壬生へ向いた。
「この女が?」
男は少しだけ黙った。
次の瞬間、口元が歪む。
「壬生議員の?」
壬生の空気が変わった。
ほんの少し。
でも俺には分かった。
壬生が息を止めた。
男は壬生を見たまま、スマホ越しに言う。
「マジかよ。じゃあ余計帰すわけにいかねぇだろ」
電話の向こうから、何かを言われたらしい。
男の眉間に皺が寄る。
「見逃せってか?」
低い声だった。
「壬生の娘だぞ。ここで連れて帰れば――」
そこで言葉が止まる。
男は黙った。
数秒。
電話の向こうの声はもちろん聞こえない。
男の口元が、さっきとは違う形に歪む。
「……おいおい」
さらに少し沈黙。
男は壬生を見た。
「それ、本当だろうな?」
電話の向こうから返事があったらしい。
男は舌打ちした。
不満そうではあるのに、なぜか完全には嫌がっていない様子だった。
「……分かったよ」
男は通話を切った。
そしてスマホをポケットに戻す。
「命拾いしたな」
男はそう言って、壬生を見る。
「いや、違うか」
口元に嫌な笑みが浮かぶ。
「助かったと思わねぇ方がいいぜ、嬢ちゃん」
男は腹を押さえながら、ゆっくりとこの場から立ち去っていった。
会議室の扉が閉まる。
そしてここには、倒れた椅子と荒れた机と俺たち二人だけが残された。
俺はしばらく動かなかった。
壬生も動かない。
音が完全に消えるまで待つ。
たぶん一分も経っていない。
でも、やたら長く感じた。
「……助かったのか?」
俺は小さく言った。
壬生は答えなかった。
その沈黙が、答えのようにも思えた。
俺は倒れた椅子を見た。
揺れた机。
転がったマーカー。
なんだこの荒れた空間は。
「出ましょう」
壬生が言った。
「ああ」
ここに長くいる理由はない。
というか、長くいたらまた誰か来るかもしれない。
そう思い、俺たちは第七会議室を出た。
廊下に人影はない。
さっきまでここで密会があり、盗み聞きがあり、戦闘があったとは思えないほど静かだった。
階段を下りる。
ビルの外へ出る。
外はもう夕方だった。
駅前には普通に人がいる。
さっきまで貸し会議室で覚醒者と殴り合っていたのが、急に現実味を失っていく。
俺と壬生は並んで歩いた。
壬生は何も言わない。
いつも通りの様子に見える。
けれど、なんとなく。
ほんの少しだけ。
その横顔が沈んでいるように見えた。
「壬生」
「何?」
「……いや」
何を聞くつもりだったのか、自分でも分からなかった。
大丈夫か。
そう聞くのは簡単だ。
でも、大丈夫なわけがない。
男は帰った。
壬生は連れて行かれなかった。
それはよかった。
よかったはずだ。
でも、あの男は最後まで不穏なことを言っていた。
『助かったと思うな』
しかも電話の向こうにいた誰かは、壬生のことを知っていた。
壬生議員の娘だと分かった上で、あの男を引かせた。
高槻が怪しい連中と話していたことも確かだ。
何かが完全に分かったわけじゃない。
でも、不穏なものだけは嫌になるほど並んでいる。
それで壬生が平気なはずもない。
そう思ったら、余計に何も聞けなかった。
「何でもない」
「そう」
壬生はそれ以上聞かなかった。
駅前の交差点で、壬生が足を止める。
「今日はここで」
「ああ」
「氷室くん」
「何?」
「今日はありがとう」
壬生はそう言った。
その声はいつも通りだった。
いつも通り静かで、落ち着いている。
でもなぜか、少し遠く感じた。
「いや。全然」
「そう」
このまま別れるのもなんとなく嫌だった。
だから俺は、少しだけわざとらしく息を吐く。
「それに、デートって言われて来たら尾行だった件については、まだ納得してないからな」
「それはまた今度ね」
「また今度で流すな」
壬生はほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
少なくとも、そう見えた。
でもすぐに、いつもの顔に戻る。
そして改札の方へ歩いていった。
俺はその背中を見送る。
華奢な背中だった。
でも、いつもはもっと真っ直ぐに見える。
今は少しだけ遠く見えた。
終わった。
そう思いたかった。
あの男は引いた。
壬生も連れて行かれなかった。
俺たちは無事に帰ってきた。
普通ならそれで終わりのはずだ。
でも、どうにもそうは思えなかった。
そして翌朝。
そんな予感は、当たった。
学校へ行く前にスマホを開くと、SNSのトレンド欄に見慣れた名前があった。
【壬生議員の娘】
【未成年覚醒者】
【貸し会議室トラブル】
【覚醒者養成プログラム私的利用疑惑】
俺は一瞬、画面を見たまま固まった。
嫌な汗が背中に流れる。
トレンドを開く。
そこには動画があった。
荒れた貸し会議室。
画質はあまり良くない。
たぶん室内の監視映像。
音声はほとんどない。
あっても加工されているのか、よく聞こえなかった。
映っていたのは、壬生が俺に何か声をかける場面。
俺が前へ出る場面。
男と向かい合う場面。
そして。
俺が男の胴を殴る瞬間。
そこだけだった。
男が先に襲ってきたところはない。
俺がどれだけ攻撃を受けたかもない。
高槻たちがあの部屋で何を話していたのかもない。
壬生がなぜあそこにいたのかもない。
ただ、壬生彩葉が俺に何かを言い、俺が前に出て、男を殴った。
そう見える動画だけが出回っていた。
投稿文には、こう書かれていた。
『壬生議員の娘、未成年覚醒者の男子を使って成人男性を攻撃か』
『覚醒者養成プログラム参加者の私的利用疑惑』
他にも様々な投稿内容やコメントが流れて、拡散されていく。
”いや、この動画だけじゃ分からんだろ。前後切られてる可能性ある”
”でも男を殴ってるのは事実じゃん”
”壬生議員の娘がプログラム参加者を連れ回してたってこと?”
”実地同行ってこういう意味だったんですか?”
”男が先に何したか映ってないのは気持ち悪い”
”覚醒者が外で戦闘してる時点で普通に問題だろ”
”子どもを戦わせる制度なんて最初から無理だったんだよ”
”覚醒者養成プログラム、身内で何やってるの?”
”正当防衛かもしれないのに決めつけるのは危険”
”発案者の娘がこれなら第二段階は一旦止めるべき”
賛否は割れていた。
疑っている人。
怒っている人。
面白がっている人。
冷静に見ようとしている人。
色んな声があった。
でも、そんなことは関係なかった。
男が先に襲ってきたかどうか。
俺たちがなぜあの場所にいたのか。
高槻たちが何を話していたのか。
その動画だけでは何も分からない。
分からないはずなのに。
映っている事実だけは、はっきりしていた。
壬生彩葉がいた。
壬生議員の娘がいた。
その横に覚醒者である俺がいた。
そして俺が男を殴った。
それだけで十分だった。
そこに真実なんて必要なかった。
壬生議員。
壬生彩葉。
覚醒者養成プログラム。
それらが、たった一つの切り取られた動画に結びつけられていく。
俺はスマホを握りしめた。
画面の中で、俺の拳が男の胴に沈む。
何度も。
何度も。
まるでそれが全てであるかのように。
その下でコメントの数だけが増えていった。




