↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/42

第9章 合格できても、払えない

九万二千四百円は、紙の一番下に小さく印刷されていた。

 上の方には、もっと立派な言葉が並んでいる。

〈夏で変わる〉

〈弱点を得点源へ〉

〈八月県内模試完全対応〉

 英数基礎講座。五教科総合演習。県内模試。教材費。学習管理費。

 どれにもチェックがついていた。

「全部、お前に必要な内容ではある」

 神崎が申込書を覗き込んだ。

「じゃあ、九万二千四百円あれば、百三十五点取れる?」

「金額と点数に、そのような交換率はない」

「便利なときだけ現実的だな」

「講座を取ることと、受けた内容が身につくことも別だ」

 黒瀬は一人ずつ名前を呼び、封筒を渡していた。

「推奨講座です。家庭で確認し、期限までに提出してください」

 声はいつもどおり穏やかだった。

 拳の番になる。

「島袋君」

「いらない」

「中を見てから判断してください」

「見ても金増えないし」

 拳は封筒を受け取らず、教室を出た。

 黒瀬は追わなかった。

 凛は自分の封筒を受け取り、金額より先に右上を見た。

「締切、いつ」

「六月十四日です」

「過ぎたら?」

「原則、受け付けません」

「原則ね」

 凛は封筒を二つに折り、鞄へ入れた。

 蓮も自分の申込書を折った。

 一度では鞄のポケットに入らず、もう一度折る。九万二千四百円の数字が、折り目の裏へ消えた。

     *

 母親の勤務表は、冷蔵庫へ磁石で留めてあった。

 昼勤。遅番。遅番。休み。昼勤。

 休みの日にも、赤い丸の横へ小さく〈応援〉と書かれていることがある。誰かが急に休んだとき、代わりに入るという意味だった。

 蓮は冷蔵庫を開け、麦茶を飲んだ。

「出さないのか」

「何を」

「鞄の底で四分の一になっている紙だ」

「見えてんの?」

「透視はできん。お前が四回、鞄を気にした」

「いらない」

「内容は必要だと言った」

「自分でやる」

「できる部分はある」

「じゃあいいじゃん」

 神崎は冷蔵庫の横に立ったまま動かない。

「金がないと言われるのが嫌か」

「先生に関係ない」

「ある。金がなくても受験戦略は変わる」

「そういう言い方すんなよ」

「どう言えば満足する」

「黙ってろ」

 母親が帰ってくる前に、蓮は申込書を鞄の一番下へ押し込んだ。

 見せて、困った顔をされるのが嫌だった。

 無理だと言われるのも嫌だった。

 もっと嫌なのは、無理なのに母親が「何とかする」と言うことだった。

     *

 翌朝、食卓に申込書が置かれていた。

 折り目が四本ついている。

「これ、何」

 母親は仕事着のまま立っていた。遅番から帰って寝て、数時間後にはまた昼勤へ出る。

「見れば分かるだろ」

「どうして出さなかったの」

「いらないから」

「塾から要らない講座を九万円分、勧められたの?」

「自分でできる」

「聞いてることと違う」

 母親が申込書を広げた。

 折り目の上を爪で押さえても、紙は完全には平らにならない。

「どうして相談しなかったの」

「相談してどうすんの」

「必要か考える」

「必要でも無理だろ」

 母親の手が止まった。

「何が」

「九万とか。払えないじゃん」

 言ってしまえば、簡単な事実に聞こえた。

 母親は怒鳴らなかった。

「勝手に決めないで」

「じゃあ払えるの?」

「払えるとは言ってない」

「同じじゃん」

「同じじゃない」

 声が少しだけ大きくなった。

「話す前から、私を払えない親にしないで」

「困らせたくないだけだよ」

「困るかどうかも、あんたが決めるの?」

 蓮は椅子を引いた。脚が床を擦る。

「じゃあどうしろっていうんだよ。九万円ほしいって言って、母さんが休みの日まで働けばいいの? 俺が受からなかったら、その金どうすんの」

 母親は口を閉じた。

 冷蔵庫の勤務表が、エアコンの風でわずかに揺れている。

「今夜、話す」

「もう話しただろ」

「金額を見ただけ。選択肢を見てない」

「全部必要って先生が言った」

「その先生は、うちの家計まで見たの?」

 神崎は黙っていた。

 その問いは、たぶん自分にも向いていた。

     *

 夜の食卓から、食事がなくなった。

 代わりに紙が並んだ。

 通常月謝。夏期講習。模試。教材。

 琉星学院の学校案内。受験料。入学金。授業料。施設費。制服。教材。端末。通学費。

「高校って、入ってから払うんじゃないの」

「合格したら、入学金の期限がある」

「公立の結果待ってくれないの?」

「学校による。延納できるかも確認が必要」

 母親は数字へ線を引いた。

「授業料には支援制度がある。でも、入学金や制服や端末まで全部なくなるわけじゃない。支援も、何が対象で、いつ反映されるか調べないといけない」

 琉星学院は、憧れの名前を失い、支払期限のある数字になった。

 受験料、二万円。

 入学金、十五万円。

 授業料、月四万二千円。

 施設や教育充実費、月一万二千円。

 制服、教材、端末など、初年度におよそ二十万円。通学費は別。

「無理じゃん」

 蓮は言った。

「まだ決めるな」

「見れば分かるだろ」

「特待を取れたら」

「取れなかったら」

「授業料支援を使ったら」

「それでも施設費あるだろ」

「だから、条件を一つずつ見る」

 母親は別の紙を出した。

 受験に使える上限。

 毎月出せる金額。

 一度に出せる金額。

 数字は、蓮が期待していたより小さかった。

 だが、ゼロではなかった。

「これ以上は無理?」

「今のままなら」

「仕事増やせば」

「それを最初の答えにはしない」

 母親は勤務表を見なかった。

「私が倒れたら、もっと選択肢が減る」

 神崎が低く言った。

「正しい」

「母さんには聞こえない」

「お前に言った」

 蓮は夏期講習の欄を見た。

「これ、全部取らないと百三十五点いかないって」

「誰が言ったの」

「神崎が――」

 口を止める。

「先生が、必要な内容ではあるって」

「必要と、塾で受けなければできないは違うでしょう」

 母親は三本の線を引いた。

 必ず必要。

 選べる。

 まだ分からない。

「私は高校のことも、今の入試のことも詳しくない。だから一緒に聞く。分からないまま、無理とも大丈夫とも言わない」

 蓮は、母親が何も知らないことを初めて知った。

 知らないのに親をしていた。

 たぶん、ほとんどの親がそうなのだ。

     *

 翌日、上原海斗が学校案内を持ってきた。

「私立って、ただじゃないの?」

「授業料は支援あるって」

「じゃあ、ただじゃん」

「入学金とか施設費とか制服とかある」

 海斗の顔が止まった。

「うちの父ちゃん、高校は無償化になったから好きなとこ行けって」

「応援してるんだろ」

「してる。めっちゃしてる」

 海斗は少し考えた。

「でも父ちゃんも母ちゃんも、高校出てすぐ働いたから、今の制度知らんはず」

「うちも知らなかった」

「親って、知らんって言わないよな」

「子どももだけどな」

 二人で学校案内を開いた。

 小さな文字で、授業料以外の費用が並んでいる。支援制度の案内には〈対象となる場合〉〈申請が必要〉と書かれていた。

「どこに聞けばいい?」

「学校じゃない?」

「何を?」

 蓮は、昨日の食卓を思い出した。

 海斗は紙の裏へ質問を書いた。

 入学金の期限。

 延納できるか。

 授業料支援の申請時期。

 施設費は対象か。

 通学費補助はあるか。

「父ちゃんに見せる」

「怒られない?」

「何で」

「知らなかったって」

 海斗は首を傾げた。

「知らんから聞くんだろ」

 その言葉は、神崎の授業より短かった。

     *

「全部必要ですか」

 蓮は黒瀬の机へ、九万二千四百円の申込書を置いた。

「必要の意味によります」

「取らないと合格できないのかって意味です」

「その質問なら、いいえ」

 予想していなかった答えだった。

 神崎もわずかに顔を動かす。

 黒瀬は講座を一つずつ指した。

「英数基礎。これは、現在の君に指導と確認が必要です。五教科総合演習。理科と社会は、自宅で計画どおり進められるなら代替できます。県内模試は、現在地の確認に必要。教材は、すでに持っているものと重複を確認する。自習管理は、家庭で開始できるなら外せます」

「全部取った方が伸びるんじゃないんですか」

「全部を消化できるなら」

 黒瀬は蓮の学習記録を見た。

「講座を増やすと、復習時間が減ります。受けただけで満足する生徒もいる」

「塾長が、それ言っていいの?」

「不要な講座を売って合格率が下がれば、私にも不利益です」

 善意だけではない。

 だから信用できないとも、だから信用できるとも言い切れなかった。

 神崎が申込書へ赤ペンを向ける。

「ワシなら五教科を取らせた」

「何で」

「管理する側が楽だからだ。全時間をこちらで押さえられる」

「生徒のためじゃなくて?」

「生徒のためでもある。指導者のためでもある」

 蓮は講座へ線を引いた。

 英数基礎。

 県内模試。

 必要な教材だけ。

 合計四万五千六百円。

「外した理社は、毎週の学習記録を出してください」

 黒瀬が言った。

「安くなった分、楽になるわけではありません。塾が持つ責任を、君が引き受ける」

「分かりました」

「本当に?」

「分からなくなったら聞きます」

 黒瀬は初めて、ほんの少しだけ頷いた。

     *

 母親は申込書にすぐ署名しなかった。

 金額を確認し、選んだ講座を読み、外した講座を指でなぞった。

「理科と社会は?」

「自分でやる。記録出す」

「できなかったら?」

「次の月に考え直す」

「琉星の費用は?」

「特待と支援を調べる。入学金の期限も。無理だったら、ほかの学校も見る」

 口にすると、胸の奥が痛んだ。

 同じ高校へ行く。

 あれほど大きな声で言った目標に、条件がついた。

 それは諦めに似ていた。

 だが、何も知らずに夢を見るより、自分の足で立っている感じもした。

 母親はペンを置いた。

「決めなさい」

 申込書を蓮へ返す。

「ただし、決めた金額は二人で背負う」

「俺、金ないけど」

「だから、あんたは選んだ勉強をやる。私は払う。それぞれの分を背負うの」

 蓮は費用欄をもう一度読んだ。

 四万五千六百円。

 今度は折り目の裏へ隠さなかった。

 申込者氏名の欄へ、新垣蓮と書く。

 翌日、Dクラスで申込書を集めると、拳の机には何もなかった。

 凛の机には、二つ折りの封筒が残っていた。

 締切まで、あと三日だった。


神崎の赤ペン補講 第9回

授業料無償化なら、私立高校にお金はかからないのか

1 授業料と「高校へ通う総費用」は違う

 高校で必要になる可能性がある費用には、次のものがあります。

・受験料

・入学金

・授業料

・施設費、教育充実費

・制服、体操服

・教科書、副教材

・端末

・模試、講習

・修学旅行等の積立

・部活動費

・通学費

 授業料への支援が拡充されても、すべての費用が自動的にゼロになるわけではありません。

2 月額費用と一時費用を分ける

 特に確認したいのが、合格後から入学までに必要な一時費用です。

・入学金の納付期限

・公立高校の合格発表まで延納できるか

・制服や端末の購入時期

・特待制度の条件

・支援制度が学校で相殺される時期

・いったん立て替える必要があるか

「年間では払える」家庭でも、短期間にまとまった現金が必要になると難しい場合があります。

3 令和8年度の授業料支援

 令和8年度から高等学校等就学支援金制度が改正され、所得制限が撤廃されました。私立高等学校全日制の支給限度額は月額三万八千百円です。

 ただし、学校の授業料が支給限度額を超える部分、授業料以外の費用、申請要件や手続きは別に確認する必要があります。

 制度は変更されます。必ず文部科学省、都道府県、進学先学校の最新案内を確認してください。

4 授業料以外への支援もある

 世帯要件等を満たす場合、授業料以外の教育費負担を軽減する高校生等奨学給付金があります。沖縄県には、対象世帯の高校生に対する遠距離等通学費補助もあります。

 制度があることと、自動的に受け取れることは同じではありません。

・対象条件

・申請者

・申請時期

・必要書類

・支給時期

・対象費目

 この六つを確認してください。

5 三分課題

 進学候補校の費用を、三つに分けてください。

・必ず必要

・条件によって変わる

・まだ確認していない

「授業料」だけを見ず、入学前、毎月、年ごとの三つの時期に分けると見落としが減ります。

6 保護者の方へ

 家計の責任を子どもに負わせる必要はありません。

 しかし、進学できる条件を最後まで隠し、合格後に初めて「払えない」と伝えることも、子どもの選択を狭めます。

・受験に使える上限

・私立へ進む場合の条件

・利用できる制度

・まだ分からない項目

 必要な範囲を共有し、一緒に質問してください。

神崎の一言

「金で夢を決めるな。だが、金を見ずに立てた夢は、誰かの沈黙の上に乗る」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。