第8章 部活を辞めれば合格するのか
「七時間足りん」
神崎は、蓮の一週間を赤ペンで切り分けた。
学校。移動。食事。風呂。睡眠。塾。バスケットボール部。
机の上の紙は、一日を生きる予定というより、解剖された魚に見えた。残った白い部分へ、英語、数学、理科、社会、国語が押し込まれている。
「何が」
「八月の県内模試で百三十五点を取るための時間だ」
「まだ五月だろ」
「だから七時間で済んでいる」
四月は百点だった。
八月までに三十五点。数学と英語の基礎問題正答率を七割まで上げる。そのために必要な演習量を、神崎は過去の指導経験から割り出していた。
「睡眠を一時間減らせば、週七時間」
「却下だ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言った」
「じゃあ飯を早く食う」
「一食を何分で済ませる気だ」
「五分」
「犬でももう少し噛む」
神崎の赤ペンが、部活の欄で止まった。
平日二時間半。土曜は午前。大会前は延長。
「ここを削れば埋まる」
「部活、辞めろって?」
「計算上はな」
「簡単に言うなよ」
「簡単ではないから、数字にした」
神崎は紙から目を上げた。
「ワシは選択肢を示した。決めるのはお前だ」
決めると言われる方が、命令されるより面倒だった。
*
その日の練習で、蓮はパスを取り損ねた。
陸のボールが両手の間を抜け、体育館の壁へ当たる。乾いた音が、顧問の笛より先に全員を止めた。
「悪い」
「さっきから三回目」
「分かってる」
「分かってるやつは、次取るだろ」
陸がボールを拾った。
練習を再開しても、蓮の頭には七時間が残っていた。
ドリブルの一本が何秒。シュート練習が何分。片づけと着替えで何分。体育館から家まで何分。
すべて英単語へ換算できる気がした。
翌日、蓮は自主練へ行かなかった。
その次の日は、全体練習の片づけ前に帰ろうとした。
「どこ行く」
体育館の出口で陸に止められた。
「塾」
「今日ないだろ」
「自習」
「片づけは」
「一日くらい頼む」
「昨日も自主練いなかった」
「受験なんだから仕方ないだろ」
言ってから、周りが静かになった。
三年生の何人かが、聞こえないふりをしてボールを集める。
陸は怒鳴らなかった。
「辞めるなら言えよ」
「辞めるなんて言ってない」
「じゃあ、いる時間くらい、いろ」
「いるだろ」
「半分しかいない」
蓮は言い返せなかった。
「俺だって受験するんだけど」
陸はボールを蓮の胸へ押しつけた。
「お前だけ急に大変になったみたいな顔すんな。抜けるなら、誰がその場所やるか話してから抜けろ」
神崎は体育館の壁際にいた。
何も言わない。
「先生は、部活削れって言ったよな」
帰り道で蓮が責めると、神崎は前を向いたまま答えた。
「ワシは時間を削れと言った」
「同じだろ」
「お前は相談を削った」
*
翌日、蓮と陸は顧問の前に座った。
顧問は大会予定表を机へ置いた。地区大会まで七週間。蓮は主力ではないが、交代要員として練習の組み合わせに入っている。無断で抜ければ、相手役も一人余る。
「受験勉強を優先したいなら、それは悪いことじゃない」
顧問は言った。
「ただ、続けるのか辞めるのか、こっちが当てるのは無理だ」
「七月までは続けたいです」
蓮は答えた。
言葉にすると、自分でも少し驚いた。
バスケが将来の仕事になるわけではない。内申のためだけでもない。それでも、陸たちと最後の大会には出たかった。
「平日の自主練を二日、外したいです。その日は早く帰ります。全体練習と片づけはやります」
「大会前は?」
「一週間だけ、練習を優先します。その分、前の週に勉強をずらす」
「睡眠は」
「七時間は寝ます」
神崎が横から言った。
「七時間半だ」
「七時間半」
顧問には神崎の声が聞こえない。
「誰に訂正された?」
「自分です」
陸が横で吹き出した。
顧問は予定表に二本の線を引いた。
七月までの部活。
八月模試までの勉強。
「両方やると言えば格好はいい。でも、両方の時間が同じまま増えるわけじゃない。決めたら、守れ」
「はい」
陸が言った。
「お前も返事するのかよ」
「お前一人じゃ、また半分になるから」
*
体育館を出ると、音楽室からクラリネットの音が聞こえた。
同じ四小節が繰り返されている。
一度目は滑らかだった。二度目は途中で止まった。三度目は最初より遅い。四度目で、音のつながりが変わった。
「上手いのか、下手なのか分からんな」
神崎が言った。
「先生、楽器分かるの?」
「英語よりは分からん」
「じゃあ黙って聞けよ」
階段の下に、白い紙が落ちていた。
吹奏楽部年間予定。
六月の地域演奏会。八月のコンクール。九月の学校行事。十月の地域祭。十二月のアンサンブルコンテスト候補。
七月で線が終わっていない。
「それ、私の」
上から声がした。
伊波陽向が楽器ケースを抱えて降りてくる。髪は後ろで一つに束ねられ、制服の袖だけが少し皺になっていた。
蓮は予定表を渡した。
「三年って、夏で終わりじゃないの」
「運動部はね」
「十二月って、入試直前だろ」
「全員が出るわけじゃないよ。オーディションあるし」
「出るの?」
「選ばれたら」
陽向は当然のように答えた。
「勉強、大丈夫なの」
「今のところは」
学年上位。内申も高い。定期テストのたび、陽向の名前は上位者の一覧に載る。
「慣れてるから。部活ある方が時間決めやすいし」
楽器ケースの横から、コピー用紙の束が見えた。
前年度定期テスト。理科。社会。英語。
出題された箇所へ蛍光ペンが引かれている。
「それ、過去問?」
「塾でもらった。先生ごとに出し方、似てるから」
「頭いいやつも、過去問やるんだ」
「頭いいからやるんでしょ」
陽向は笑った。
その笑い方には、成績上位者の余裕があった。
鞄の奥に、県内模試対策と書かれた新しい問題集が見えた。背は折れていない。
神崎が予定表を覗き込む。
「あの子の時間表には、受験を始める日がない」
「でも点取れてる」
「学校の試験ではな」
「過去問で取れるなら、それでよくない?」
「本番にも過去問と同じ問題が出るならな」
音楽室から、また同じ四小節が聞こえた。
陽向は振り返る。
「戻らないと」
「夏休みは?」
「コンクール終わったら、本気出す」
陽向は階段を上がった。
蓮が持っていた予定表には、八月の後にも本番が続いていた。
*
自主練を外した最初の火曜日。
蓮はいつもより一時間早く家へ着いた。
鞄を置き、冷蔵庫を開け、水を飲んだ。スマートフォンを手に取る。
動画一本だけ。
気づくと、二十七分経っていた。
「部活を辞めたら勉強できると思っている人間の、模範的な二十七分だな」
神崎が冷蔵庫の横に立っている。
「今日は辞めてない」
「自主練を削って、動画を増やした」
「休憩だよ」
「何から休んだ」
蓮は答えられなかった。
「時間は空けただけでは使えん」
神崎は机を指した。
「いつ、どこで、何を始める」
「今から、ここで、英語」
「何をする」
「単語」
「何語」
「三十」
「どう確認する」
「見ないで意味を書く」
スマートフォンを玄関の靴箱へ置いた。
机には英単語帳と白紙一枚だけを出す。三十語のうち、何も見ずに書けたのは十一語だった。
前なら、十九語できなかったと思った。
今日は、十一語は取り出せたと記録した。
数学は基礎計算を十分。途中式を残す。
終わったとき、空いた一時間のすべてが勉強になったわけではなかった。それでも四十二分は残った。
「七時間まで、あと六時間十八分」
「細かいな」
「数字で始めたのは先生だろ」
*
翌日の体育館で、蓮は陸のパスを取った。
取って、返す。
練習中、英単語の数を考えなかった。片づけまで終え、予定の時刻に陸へ声をかけた。
「帰る」
「今日は全部いたな」
「うるさい」
「半分のときより使えた」
体育館の照明が一列ずつ消える。
外へ出ると、音楽室だけが明るかった。
同じ四小節が、昨日より速く流れている。途中で一音外れた。演奏は止まらず、次の小節へ進んだ。
蓮は足を止めた。
「反復は裏切らん」
神崎が言う。
「先生もそういうこと言うんだ」
「ワシを何だと思っている」
「リーゼントの幽霊」
「伝説の講師だ」
音楽室の窓際で、陽向がクラリネットを構えていた。
机の端には、丸が並んだ定期テストの過去問がある。
その下で、県内模試の問題集は閉じたままだった。
神崎の赤ペン補講 第8回
部活を辞めれば、勉強時間は増えるのか
1 最初に「使える時間」を数える
一週間は百六十八時間です。
そこから、睡眠、学校、移動、食事、入浴、家庭の役割、部活動を引きます。残った時間が、現実に使える時間です。
勉強時間だけを先に理想で決めると、睡眠か食事か人間関係のどれかが壊れます。
2 退部か継続かの二択にしない
確認する項目は次のとおりです。
・最後の大会や本番はいつか
・本人にはどの役割があるか
・全体練習と自主練を分けられるか
・大会後に時間は本当に空くか
・塾、模試、学校行事と重なる日はいつか
・本人は何を残し、何を減らしたいか
続けることにも価値があります。辞めることにも合理性があります。大切なのは、本人が必要な情報を持ち、周囲と相談して決めることです。
3 空いた時間は、自動的に勉強時間にならない
「部活が終わったら勉強する」だけでは、開始条件がありません。
実行意図を作ります。
例:
「火曜日、帰宅して水を飲んだら、食卓で英単語を三十語、白紙に書き出す」
・いつ
・どこで
・何を
・どの方法で
ここまで決めると、始める負担が下がります。
4 睡眠を最後の予備時間にしない
睡眠は、余った時間に取るものではありません。
学習した内容の記憶固定、注意力、感情の調整に関わります。受験直前だけでなく、日常から下限を決めてください。
5 吹奏楽部など、活動期間が長い場合
部や地域、大会によって活動期間は異なります。運動部の多くが夏前後に区切りを迎えても、吹奏楽部などでは秋以降も本番が続く場合があります。
長く続けること自体を悪と考える必要はありません。
ただし、「みんなが続けるから」「顧問に言いにくいから」だけで受験準備の開始日が消えないよう、年間予定と模試日程を早めに並べる必要があります。
6 三分課題
一週間の予定から、次の三つを一つずつ探してください。
・減らせる時間
・守る時間
・開始方法が決まっていない時間
空いた時間には、具体的な最初の行動を書きます。
7 保護者の方へ
退部を命じる前に、本人へ四つ尋ねてください。
・続けたい理由
・最後に果たしたい役割
・受験勉強を始める具体的な時期
・顧問や仲間へ相談できる調整案
部活を続けるかどうかだけでなく、本人が自分の時間を説明し、交渉する経験も成長の一部です。
神崎の一言
「時間は空けただけでは使えん。始める場所まで決めて、初めて勉強時間になる」




