第7章 百十点の持ち点
正解が一つ増えると、答案は少しだけ重くなる。
そんなわけはない。紙の重さは変わらない。それでも蓮は、返された小テストを鞄へしまわず、机の右上に置いていた。
三十点満点で十四点。
前回より一問多い。英語の並べ替えだった。
美咲が廊下を通ったとき、答案の角を指で押さえた。見えるように少しずらそうとして、やめた。
「見せないのか」
神崎が窓際で言った。革ジャンの肩が、五月の日差しを無意味に弾いている。
「別に。一点だし」
「前は一問に三分も文句を言っていた」
「成長したんだよ」
「見栄の張り方がな」
蓮は答案を二つ折りにした。美咲は教室の前を過ぎ、こちらを見なかった。
見てほしい気持ちはあった。だが、それを理由に机から追いかけるのは違う気がした。
代わりに、担任が配った灰色の紙が机へ落ちてきた。
進路指導資料。
志望校、通学時間、希望学科、保護者意見。四月模試の欄には百点と書かれている。その右隣に、見慣れない数字があった。
調査書成績見込 110/165
「百十」
後ろから陸が覗き込んだ。
「お前、百点より内申の方が高いじゃん」
「比べる満点が違うだろ」
「細かいな。両方百点台。仲良し」
蓮は笑った。
笑ってから、紙を伏せた。
百十が高いのか低いのか、まだよく分からない。百六十五のうちなら、三分の二はある。四月模試の三分の一より、ずっとましに見えた。
神崎は笑わなかった。
「これで琉星を受けるのか」
「私立は内申あんまり見ないって、黒瀬が言ってた」
「琉星の一般はな。だが、公立の選択肢はこの数字が握っている」
「百十あれば、普通の高校には行けるんだろ」
「行ける学校があることと、選べることは同じではない」
神崎の赤いペン先が、紙の上をなぞる。触れてはいないのに、数字だけが囲まれたように見えた。
「お前は入試当日、ほかの受験生より先に重りを背負う」
「じゃあ当日、そいつらより点取ればいい」
「取れるならな」
十四点の答案が、急に薄く見えた。
*
面談室の机には、三枚の通知表が並べられていた。
一年。二年。三年の見込み。
担任はそれらを、蓮の人生を三枚で説明できるとでもいうように、きれいに揃えた。
「五教科だけじゃないんですか」
蓮は保健体育の欄を見た。五。そこだけは昔から強い。
「内申は九教科だ。音楽、美術、保健体育、技術・家庭の四教科は、入試では比重が大きくなる」
「体育が五なら、俺、結構よくないですか」
「だから百十ある、とも言える」
担任は計算表を蓮の前へ置いた。
一年、三十六点。二年、三十六・五点。三年見込み、三十七・五点。合計百十。
数学の二が目に止まる。二年のものだった。
その隣にある体育の五が、倒れかけた数字を肩で支えているように見えた。
「最近は勉強してます」
「聞いている」
「小テストも上がりました」
「それも見ている」
「だったら、もっと上がってもよくないですか」
担任は三枚の紙から目を上げた。
「どれを、いつの評価に変えたい?」
蓮は答えに詰まった。
「……全部」
「一年と二年の評定は、もう確定している」
「昔の俺が、今の俺を落とすんですか」
言った瞬間、喉の奥が熱くなった。
笑われると思った。神崎なら、過去はお前が作ったものだと言いそうだった。
担任は笑わなかった。
「過去の記録は変えられない」
「ほら」
「だが、今学期の評価材料は、まだ作れる」
机の端から、透明なファイルが出てきた。
中には、蓮の名前が書かれた紙が何枚も入っていた。英語ワーク未提出。理科レポート再提出。美術の鑑賞文、未提出。技術の設計図、期限後。
「こんなに?」
「数えたことがなかったか」
「いや、出したやつもあるし」
「出したものはここに入っていない」
神崎が腕を組んだ。
「敵が親切に残数を教えてくれた。喜べ」
「誰のせいで、こうなってると思ってんだよ」
「お前だ」
正しかったので、腹が立った。
「でも、提出物とか授業態度って、勉強と関係なくないですか」
蓮は担任へ言った。
「テストで点取れるかどうかで決めればいいじゃないですか。美術とか音楽が一・五倍って、数学より大事ってことですか」
「数学より大事だという意味ではない」
「じゃあ何で」
「一回の学力検査では測らない教科だからだ」
担任は、美術の鑑賞文を一枚抜いた。ほとんど白紙で、下に短く〈特になし〉と書いてある。自分の字だった。
「準備をしたか。技能をどう使ったか。考えを表現したか。継続して取り組んだか。試験当日の五十分だけでは見えないものを、学校は記録する」
「先生に好かれたやつが勝つゲームじゃん」
「好かれる必要はない」
「授業中に手を挙げるやつが得するだろ」
「見える行動の方が評価しやすい、という問題はある」
担任はすぐに否定しなかった。
「家で課題をする時間がある生徒と、ない生徒でも差が出る。人前で話すのが得意かどうかも影響する。評価が完全だとは言わない」
蓮は顔を上げた。
「じゃあ、おかしいって分かってるんじゃないですか」
「分かっている。だが、私は見えていないものに点をつけることもできない」
部屋が静かになった。
廊下で別の教師が台車を押している。車輪が一周するたび、金属が小さく鳴った。
「見せろ」
神崎が言った。
「は?」
「評価者へ届く形にしろ。頭の中で反省しても、提出物は完成せん」
「結局、先生の機嫌取れってことだろ」
「違う。条件を聞けと言っている」
担任も同じことを言った。
「どの課題が評価に入るか。期限はいつか。再提出できるか。分からなければ確認しなさい。私の好き嫌いを当てる必要はない」
「聞いたら、内申上げてくれますか」
「それは約束できない」
腹の立つ答えだった。
黒瀬の言葉と同じ種類の冷たさがあった。努力した事実と、評価が上がる事実は別だ。
ただ、逃げ道を塞ぐための冷たさではなかった。
どこからなら歩けるか、線を引くための冷たさだった。
*
放課後、蓮は金城奏太の机を見ていた。
透明なファイルが四冊。赤、青、緑、黄。背表紙に教科名と提出日が書かれ、角がすべて揃っている。
「それ、自分で作ったの?」
「うん。まあ、母さんと」
奏太は英語のワークを青いファイルへ入れた。
スマートフォンが震える。
〈英語ワーク、提出前の写真送って〉
「写真まで送るの」
「出し忘れたら困るから」
もう一度、震えた。
〈次は美術。鑑賞文は先生の評価規準を確認した?〉
蓮は思わず言った。
「最強じゃん」
「何が」
「全部教えてくれるんだろ。今日やることとか、出すものとか」
「普通じゃない?」
「うち、飯があるかも帰るまで分からない日あるぞ」
「それは……大変だな」
奏太は本当に困った顔をした。自慢するつもりはないらしい。
担任が自由課題の希望用紙を配った。地域の産業、環境、福祉から一つ選ぶ。
「奏太、どれにする?」
「まだ」
「得意そうなの、地域産業じゃない?」
「母さんに聞いてから決める」
また通知が来た。
〈自由課題の用紙も写真送って〉
奏太は安心したように画面を開いた。
「管理されて結果が出る時期はある」
神崎が隣で言った。
「じゃあ、あれが正解じゃん」
「一人になった後も動けるならな」
「でも今は中学生だろ。親がやってくれるなら、やってもらえばいい」
「そういう考えもある」
神崎は珍しく否定しなかった。
奏太は写真を送り、数秒後に届いた返信を見て、地域産業へ丸をつけた。迷いは消えていた。
その紙は、きっと期限どおりに提出される。
先生から見える形で。
*
夜、蓮は未提出の紙を床へ並べた。
英語。理科。美術。技術。
プリントの角が重なり、どれが下でどれが上かも分からない。
「今夜、全部やる」
「無理だ」
「やる前から決めんなよ」
「量を見て決めた」
「俺だって本気出せば」
「本気は、時間を増やす魔法ではない」
蓮は神崎を無視した。
英語ワークを開き、三問解く。理科のレポートが気になり、教科書を探す。美術の鑑賞文なら早いと思い、作品名を検索する。途中で技術の設計図が目に入り、定規を出す。
二十分後。
完成したものは一つもなかった。
「ほら」
「黙れ」
「ワシは黙れる。未提出は黙って消えんがな」
蓮は英語ワークを閉じた。
「奏太なら全部終わるんだろうな」
「奏太なら、全部を今夜へ残さん」
「分かってるよ」
「分かっている顔ではない」
床の紙を見た。
過去の自分が部屋中に散らばっていた。期限を忘れた自分。面倒になった自分。なくしたことにした自分。
全部片づけなければ、今の自分になれない気がした。
「昔の俺を消したいんだよ」
神崎はすぐには答えなかった。
「消すな」
「何で」
「そいつもお前だ。消そうとすれば、今日まで一緒に消える」
神崎は床の紙を赤ペンで指した。
「過去を一晩で取り戻すな。明日出す一つを決めろ」
蓮は紙を三つに分けた。
まだ提出できるかもしれないもの。
期限を確認しないと分からないもの。
もう評価対象にならないもの。
最初は違いが分からなかった。分からないものは、勝手に諦めず、明日聞く方へ置いた。
美術の鑑賞文を選んだ。
〈特になし〉とだけ書いた紙を、新しい用紙の横へ置く。
作品をもう一度見た。赤い屋根の家。その後ろの空だけ、妙に暗い。
上手な感想を書こうとするのをやめた。
なぜ空を暗くしたのか分からない、と書いた。分からないが、そのせいで家の中だけが暖かく見える、と続けた。
一枚が埋まった。
時計は十一時前だった。
「次」
「寝ろ」
「まだできる」
「明日、質問するんだろう」
蓮は透明ファイルへ鑑賞文を入れた。
スマートフォンのメモに三つ書く。
再提出できる課題。
今学期の評価に入る期限。
技術の設計図は、どこまで直せばよいか。
奏太の母親なら、もっときれいな文章にしただろう。
蓮のメモは、主語が抜けていた。
それでも、自分で書いた。
*
翌朝、職員室の前で担任を待った。
教師が出入りするたび、透明ファイルの角を握り直す。
神崎は壁にもたれていた。
「これ出したら、内申上がりますか」
担任が来る前に、蓮は練習した。
「悪い質問ではない」
「じゃあ、これでいいだろ」
「答えが『分からない』で終わる」
「他に何聞くんだよ」
担任が廊下の角を曲がった。
蓮は口を開いた。
「先生、これ出したら――」
神崎を見た。
サングラスの奥は見えない。だが、赤ペンは動かなかった。
蓮は言い直した。
「今学期、まだ評価に入るものを教えてください。期限も。俺が、まだ出せるやつ」
担任は透明ファイルを受け取った。
鑑賞文へ目を通し、昨日の一覧を出す。
「英語ワークは金曜。理科レポートは再提出できる。技術の設計図は、今日、担当の先生へ自分で確認しなさい」
「これで上がりますか」
「上がるとは約束できない」
「ですよね」
「ただ、昨日より評価できる材料は一つ増えた」
担任は鑑賞文を抜き、残りの紙をファイルへ戻した。
奏太のファイルのように、角は揃っていない。古いプリントで膨らみ、閉じると片側だけ浮いた。
その一番上へ、担任が期限を書いた新しい紙を入れた。
百十点は、過去の蓮が残した数字だった。
次の一枚まで、そいつに書かせる必要はない。
神崎の赤ペン補講 第7回
内申は、先生に好かれる点なのか
1 なぜ高校入試に内申があるのか
学力検査は、決められた日の限られた時間で学力を見る方法です。公平に比較しやすい一方、その一日だけでは、日常の学習、実技、表現、継続的な取り組みのすべては測れません。
そこで調査書には、中学校での各教科の評定などが記載されます。
沖縄県立高校の一般選抜では、調査書と学力検査等の成績を資料として選抜し、その比重は原則五対五です。ただし、学校や学科によって四対六から六対四の範囲で異なる場合があります。志望校の最新の募集要項を必ず確認してください。
2 なぜ実技四教科の比重が大きいのか
国語、社会、数学、理科、英語は学力検査があります。一方、音楽、美術、保健体育、技術・家庭は、同じ形の県共通学力検査を行いません。
そのため沖縄県で一般に使われる内申計算では、実技四教科の評定を一・五倍して扱います。一学年分の上限は五十五点、三年間では百六十五点です。
一学年の計算例は、次のとおりです。
五教科の評定合計+実技四教科の評定合計×一・五
ただし、実際の選抜では調査書全体や学校ごとの比重も関係します。「百十点なら必ずこの高校」という単純な合否表ではありません。
3 内申は完全な制度ではない
提出物、授業での表現、実技、継続的な取り組みには、家庭の時間、健康状態、対人不安、教師が行動を把握できるかどうかも影響します。
だから、内申を人格の点数だと考えてはいけません。
同時に、「先生の好き嫌いだけで決まる」と決めつけても、次の行動にはつながりません。大切なのは、評価規準、提出期限、再提出の可否を具体的に確認することです。
4 変えられない記録と、変えられる行動を分ける
過去の評定は、今日の努力で書き換えられません。
しかし、次の行動は変えられます。
・今学期、評価に入る課題は何か
・提出期限はいつか
・再提出できるか
・試験以外に、どのような評価材料があるか
・自分が未確認の項目は何か
「内申を上げる」という大きすぎる目標を、「明日、理科レポートの再提出期限を聞く」という行動へ変えてください。
5 三分課題
紙を三つに分けます。
・確認済み
・未確認
・もう変更できない
提出物、試験、実技、授業での課題を一つずつ分類してください。
未確認の項目から、明日尋ねる質問を一つだけ書きます。
6 保護者の方へ
「内申を上げなさい」だけでは、子どもは何をすべきか分かりません。
通知表を責める材料にする前に、本人と一緒に次を確認してください。
・学校が示している評価規準
・未提出物と期限
・本人が困っている教科
・家庭で用意できる時間や環境
・本人から教師へ確認する内容
保護者がすべて管理すると、短期的には抜けが減ります。しかし、子ども自身が確認し、選び、提出する経験も必要です。
神崎の一言
「評価に媚びるな。だが、評価の条件を知らずに怒るのは、分析ではない」




