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第6章 Dクラス

最下位の教室には、前の年の教材が残っていた。

 段ボール箱の側面に、太い油性ペンで〈基礎〉と書かれている。机は高さが揃わず、椅子の一つだけ背もたれの色が違った。

「倉庫じゃん」

 誰かが言った。

「教材あるだけ、倉庫の方が上」

 笑いが起きた。

 蓮も笑った。

 捨てられたと言う前に、自分たちで捨てられた教室にしてしまえば、少しだけ傷が浅くなる。

「今日からこのクラスを担当します。知念です」

 教卓の知念は、緊張すると声が高くなる。

「Dクラスだから無理だとは、僕は決めません」

 また、後ろで小さな笑いが起きた。

 蓮の隣では、島袋拳が寝ていた。

 鞄は薄い。机の横へ掛けても形が変わらない。筆箱はなく、短いシャープペンが一本、答案の上に転がっている。

 神崎は教室の隅に立っていた。

 Dクラスの掲示を見たときから、妙に静かだった。

「先生」

「授業を聞け」

「自分は聞かないくせに」

 返事はなかった。

     *

「今日は、教える勉強をします」

 知念が例題を配った。

 一次方程式。

 解説付きの例題、その一部を空欄にした問題、最後に自力で解く問題が並んでいる。

「二人一組で、相手に解き方を説明してください。相手が解けたら、次はヒントを一つ減らします」

 蓮は拳を見た。

 数学六点。

 けれど合計九点で、授業中は寝ている。説明するのは自分の方だと思った。

「起きろ」

 拳の机を指で叩く。

「起きてる」

「目、閉じてるじゃん」

「目閉じて聞いてる」

「便利だな、それ」

 拳は顔を上げた。目の下に薄い影がある。

 蓮は例題を指した。

「一次方程式。まず、エックスを左に集める」

「何で」

「そういう解き方だから」

「何で左」

「右でもいいけど、普通は左」

「じゃあ、右でやって」

 蓮は止まった。

「今は左の説明してんの」

「分かってないやつほど、普通って言うよな」

「お前に教えてんだけど」

「頼んでない」

 神崎が小さく息を吐いた。

「移項を説明しろ」

「向こうへ持っていくと、符号が変わる」

「それは現象だ。理由ではない」

「じゃあ先生が説明しろよ」

「ワシの声はあいつに聞こえん」

 拳は二人分の沈黙を待たず、問題用紙の裏へ線を引いた。

 中央に縦線。

 左へ三つの四角と数字の二。

 右へ四角一つと十。

「両方から二を取る」

 拳は左右の二を斜線で消す。

「次、両方からエックス一個取る」

 左と右から四角を一つずつ消す。

「残ったやつ見ればいい」

 天秤の絵すら描かない。左右が同じ重さだと分かっている人間の線だった。

「それ、分かってるなら途中式書けよ」

「答え出るのに、何で先生が喜ぶ順番で書かないといけないわけ」

 次の問題を、拳は暗算で解いた。

 正解。

 その次で符号を間違えた。

「どこで間違えた?」

「知らん」

「途中式ないからだろ」

「一回くらいミスる」

 蓮は、自分の四月模試を鞄から出した。

 赤い斜線の並ぶ数学答案。

「俺、これ。何考えて間違えたか、何も残ってなくて直せなかった」

 拳は答案を見た。

「百点のやつ?」

「五教科でな」

「それ、逆に難しいだろ」

「才能らしい」

 拳の口元が少し動いた。

「途中式は、先生のためだけじゃない」

 蓮は言った。

「明日の自分が、どこで壊れたか調べるため」

 神崎を見ないで言えた。

 拳はシャープペンを持つ。

 全部は書かなかった。

 符号が変わる場所にだけ、短い式を残した。

「これでいい?」

「俺に聞くなよ」

「教えてるんだろ」

「今はお前に教わってた」

 二人とも、どちらが先生なのか分からなくなった。

 その方が、さっきより問題は進んだ。

     *

 休み時間、美咲がDクラスの入口に立っていた。

 胸元に、薄い問題冊子を何冊か抱えている。

「Aクラスで余ったから」

 蓮の机へ置こうとした。

「基礎の確認に使えると思う」

 謝るつもりで来たのだと、蓮には分かった。

 ごめんの代わりに、教材を持ってきた。

「いらない」

 拳が言った。

 美咲の手が止まる。

「未使用だよ」

「だから?」

「使えると思って」

「誰が?」

 美咲は答えられなかった。

 蓮は、以前、神崎に言われたことを思い出す。

 相手が何を望んでいるか、先に聞け。

「必要か、聞いた?」

 美咲が蓮を見る。

 責めるつもりはなかった。だが、同じ言葉を返した形になった。

「……聞いてない」

 美咲は教材を抱え直した。

 帰るのかと思った。

 教室全体を見て、もう一度言う。

「これ、必要な人いる?」

 三人が手を挙げた。

 美咲は一人ずつ渡した。拳の机には置かなかった。

 最後の一冊を蓮へ差し出す前に、尋ねる。

「使う?」

「英語ある?」

「ある」

「じゃあ、借りる」

 美咲は手を離した。

「この前、ごめん」

「うん」

「……それだけ?」

「あれは傷ついた」

 美咲の肩が少し動いた。

 すぐに言い訳をしなかった。

「うん」

 謝罪は、言えば消える消しゴムではなかった。

 それでも、答案を裏返さず机に置くくらいのことはできた。

     *

 比嘉凛は、授業開始から十二分後に入ってきた。

「遅れました」

 謝っているようにも、報告しているだけにも聞こえる。

 髪は校則より少し明るく、制服のスカート丈も短い。鞄を持っていなかった。

「理由は?」

 知念が尋ねる。

「家のこと」

 それ以上は言わない。

 空いた席へ座り、隣の生徒から消しゴムを借りた。

 拳は再び眠っていた。

「島袋君」

 知念が近づく。

 凛は自動販売機の水を拳の机へ置いた。

「昨日も寝てないでしょ」

「寝た」

「何時間」

「忘れた」

 凛は追及しなかった。

 拳も水を返さなかった。

「起きろよ。再テストあるぞ」

 蓮が拳の肩を叩く。

「放っとけ」

「せっかくさっき分かったのに」

「誰のため?」

「拳のためだろ」

 凛が蓮を見た。

「教えてあげてる自分、好きそう」

「は?」

「いい人になれてよかったね」

「そんなんじゃ」

 否定しかける。

 数学五点を取った自分が、九点の拳へ教える。少し前まで教わる側だった蓮にとって、それは気分のいい配置だった。

 拳のためだけではなかった。

「じゃあ、起きたらやるか聞く」

「最初からそうすれば」

 凛は借りた消しゴムで答案の端を擦り、ポケットから出した短い鉛筆で自分の名前を書いた。

 字は、美咲よりずっと乱れていた。

 読めない字ではなかった。

     *

 再テストは、数字だけを変えた同じ型の方程式だった。

 蓮は、拳の線を思い出した。

 左と右から、同じものを消す。

 移項で符号が変わるのではない。両辺へ同じ操作をした結果、反対側へ移ったように見える。

 途中式を一行ずつ書く。

 正解。

 拳は、符号が変わる箇所だけ式を残した。

 一度、マイナスを落とす。

 自分の一行を戻り、誤りを見つける。

 書き直す。

 正解。

「一問ずつですね」

 知念が笑った。

 教室の他の答案には、まだ斜線が多い。誰もが教え合えば一斉に伸びるわけではない。説明そのものを間違えた組もいた。話をせず終わった組もいる。

「でも、Dクラスだから無理とは決めません」

「決めるんだ」

 神崎が言った。

 知念には聞こえない。

「何を?」

 蓮が小声で尋ねる。

「教師は毎日、選んでいる。時間をかける生徒。後へ回す生徒。切る生徒」

「先生も?」

「ワシほど選んだ教師はいない」

 声に、いつもの誇張がなかった。

 拳の居眠りを見ているのではない。

 凛の遅刻を見ているのでもない。

 ここにはいない誰かを見ていた。

「百点の生徒?」

 神崎は答えなかった。

 サングラスの奥で、その目だけが蓮から逃げた。

 神崎が恐れているのは、Dクラスではなかった。

 そこで教師だった自分だった。


神崎の赤ペン補講 第6回「人に教えれば、本当に理解できるのか」

 人へ説明すると、自分が分かっていない場所を見つけやすい。

 蓮は移項を「向こうへ持っていくと符号が変わる」と覚えていた。しかし、拳から「なぜ」と聞かれ、理由を説明できなかった。

 説明できないことは、必ず理解していないという意味ではない。一方、用語を言えることも、理解している証明にはならない。説明、図、式、別の問題を組み合わせて確かめる。

教え合いの三段階

一 完成した例題を見る

 初めて学ぶ内容では、正しい手順と考え方を確認する。

二 ヒント付きで再現する

 途中式の一部、図、最初の一手を手がかりにする。

三 ヒントを減らして自力で解く

 同じ答えを覚えるのではなく、数字や表現を変えた問題で確かめる。

 最初から全部自力で解かせることも、最後まで答えを見せ続けることも避ける。理解に合わせて手がかりを減らす。

途中式は誰のためか

 途中式は採点者へ見せるだけのものではない。

 未来の自分が、どこまで正しく、どこから誤ったかを調べる記録である。ただし、全員に同じ量を書かせればよいわけではない。拳のように、誤りやすい符号の箇所だけ残すところから始めてもよい。

教える前に確認する

 教えたいことと、相手が必要としていることは同じとは限らない。

「説明してもいい?」

「どこまで分かっている?」

「答えが欲しいのか、考え方が欲しいのか」

 先に確認する。

 また、睡眠不足、家庭環境、学習場所、教材不足は、勉強法だけでは解決できない。本人の努力へ押し戻さず、学校、家庭、支援者へつなぐ必要がある。

三分でやってみよう

 一問だけ選び、答えを見ずに次を話す。

・最初に何をするか

・なぜその操作をするか

・どこで間違えやすいか

 言葉が止まった場所が、次に確認する場所である。

保護者の方へ

 子どもへ説明させるとき、詰まった瞬間に答えを言わない。責めない。「どこまでは分かる?」と区切る。

 兄弟姉妹や友人へ教えさせる場合も、教える役を固定しない。教える側が優秀、教わる側が劣るという関係になると、質問と訂正が難しくなる。

神崎の一言

「教えられない所が、お前の分かっていない所だ。ただし、教えたいことと、相手が必要なことは同じじゃない」

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