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第10章 過去問で作られた優等生

 陽向が一音を外したとき、誰も振り返らなかった。

 クラリネットの高い音が、ほんの一瞬だけ薄くなる。

 陽向は指を止めなかった。次の小節へ入る。隣の音を聞き、息を合わせ、四小節後には元の旋律へ戻っていた。

 演奏が終わる。

「伊波」

 顧問が指揮棒を下ろした。

「はい」

「七十三小節目」

「すみません」

「謝るところじゃない。戻り方はよかった。次、最初から」

 部員が楽器を構え直す。

 陽向もマウスピースへ口を当てた。

 間違えても、曲は止まらない。

 吹奏楽では、それを知っていた。

     *

 定期テストまで、あと十日。

 陽向の机には、五年分の問題が並んでいた。

 英語は現在の担当教師が作ったものだけを右へ。理科は前任校の資料も混ぜて左へ。社会は記述問題に青い付箋、用語問題に黄色い付箋。

 出題された回数を正の字で数える。

 英語ワーク、本文穴埋め。四回。

 理科、実験手順の並べ替え。三回。

 社会、資料から理由を書く問題。毎年一問。

 陽向は偶然に頼っていなかった。

 教師が授業で繰り返した言葉、黒板へ二度書いた用語、ワークの提出範囲、前年度との違い。そのすべてを集め、次の試験に出る可能性を計算している。

 塾講師が答案束を見て言った。

「この学校なら、ここまで絞れば九割いける」

「国語は?」

「漢字と文法を落とさない。説明文は先生が授業で扱った設問形式を見て」

 陽向は予定表へ書き込む。

 部活後でも間に合う。

 全部を勉強する必要はない。出るものを、出る形で覚えればいい。

 鞄の底には〈県内模試・実戦問題集〉が入っていた。

 買ってから、一度も開いていない。

 定期テストが終わったら始める。

 予定表の空白へ、その言葉を小さく書いた。

     *

 塾の自習室で、蓮は白紙を睨んでいた。

 英単語帳を閉じ、覚えた意味を書き出す。三十語のうち十八語。間違えた十二語だけを別の紙へ移す。

 次は数学。

 方程式、比例、図形、確率が混ざった基礎問題を解いている。

「範囲、そこじゃないよ」

 陽向が言うと、蓮は顔を上げた。

「何が」

「定期テスト。確率は今回出ないでしょ」

「模試で出るから」

「模試、八月だよ」

「今からやらないと間に合わない」

 陽向は蓮の問題集を見た。

 一ページに、違う単元の問題が並んでいる。解くたびに方法を選び直さなければならない。

「効率悪くない?」

「先生にも言った」

 蓮が神崎のいる方向を見る。

 陽向には、革ジャンの男は見えない。

「何て?」

「効率って、何の点を取る効率だって」

「定期テストでしょ。今は」

「俺は八月模試」

「内申も大事なんじゃなかった?」

 蓮の鉛筆が止まった。

 陽向は言いすぎたと思った。

 蓮の内申が低いことは、塾で知られている。だからこそ、今回の定期テストも落とせない。

「両方やってる」

「時間、足りないって言ってたのに?」

「……足りない」

「だったら出るところからやればいいじゃん」

 自分の答えは明快だった。

 限られた時間で点を取る。それが勉強だと思っていた。

 蓮は反論しなかった。

 代わりに、間違えた数学の問題へ印をつけ、解説を閉じたままもう一度考え始めた。

「正しいことを言われると、人は二種類に分かれる」

 神崎が蓮の横で言った。

「何」

「方法を変える者と、目標を確かめる者だ」

「先生なら?」

「昔のワシなら、点が出る方を選ばせた」

「今は」

「まだ分からん」

     *

 定期テストが返ってきた。

 国語八十八点。数学九十五点。英語九十六点。理科九十二点。社会九十一点。

 合計、四百六十二点。

 陽向の数字が教室の前方に貼り出されることはない。それでも返却が終わる頃には、何人かが知っていた。

「また上位じゃん」

「部活、毎日あるのに」

「どうやって勉強してるの?」

「普通に」

 陽向は答えた。

 普通ではなかった。

 出題者の癖を読み、過去の問題を分解し、短時間で得点へ変えた。自分が積み上げた結果だった。

 顧問からメッセージが届く。

〈よく両立してる。この調子でコンクールも頼む〉

 母親からも来た。

〈すごいね。頑張ったね〉

 胸の奥が緩んだ。

 過去問を使う方法は、正しかった。

 答案をもう一度見る。

 国語で落としたのは、初めて読む説明文の記述。

 数学では、見たことのない条件の図形問題。

 英語では、本文と違う話題の短い英作文。

 全部、過去問に似た形がなかった。

 だが、五百点中三十八点の話だ。

 四百六十二点を取った人間が、三十八点を心配する必要はない。

     *

「これ、解ける?」

 蓮が一枚の紙を差し出した。

 一次関数の問題だった。

 習った内容ではある。だが、グラフは描かれていない。文章を読んで、自分で二つの量の関係を見つけなければならない。

「どこの問題?」

「先生が作った」

「学校の?」

「違う」

 陽向は問題を読んだ。

 もう一度読む。

 何をエックスにするのか分からない。式を作る前に、文章のどこを使えばよいか決められない。

「条件足りなくない?」

「足りてるらしい」

「らしいって、蓮も解けないの?」

「一回間違えた。今は解ける」

 少し腹が立った。

 蓮に解けて、自分に解けない問題があることではない。

 何のために解くのか分からない問題を、得意そうに出されたことに腹が立った。

「答え見せて」

 解説を読む。

 二つの量を表へ整理し、変化の割合を求める。見れば難しくない。

「ああ、分かった」

 紙を返そうとすると、蓮が受け取らなかった。

「もう一回、何も見ないで解いてみて」

「分かったって」

「先生が、分かったと思ったときが一番危ないって」

「それ、定期テストに出ないでしょ」

 声が少し強くなった。

 蓮は黙った。

 陽向は紙を机へ置く。

「今やる必要ないよ。模試の前にやればいい」

「模試、来月だよ」

「だから、定期テスト終わったし、これからやる」

「そっか」

 蓮はそれ以上言わなかった。

 その引き方が、かえって腹立たしかった。

 間違っていると思うなら、言えばいい。

 自分は四百六十二点取った。

 蓮は、まだその点数に届かない。

     *

 夜、陽向は五枚の答案を机へ並べた。

 赤い丸が多い。

 正解した問題を見直すと、答えがすぐ浮かんだ。一度読んだだけで、問題文の次に何が来るかまで分かる。

 自分はできる。

 そう思える時間だった。

 鞄から県内模試の問題集を出した。

 最初のページを開く。

 社会の資料問題。見たことのない統計。地図と表と文章を組み合わせて答える。

 問題文が長い。

 答えを隠したまま二分考えた。

 何を聞かれているのか、輪郭がつかめない。

 解説を開けば、きっと分かる。

 だが、蓮の言葉が残っていた。

 もう一回、何も見ないで。

 陽向は問題集を閉じた。

 今日は定期テストの復習をする日だ。模試対策は、明日からでいい。

 四百六十二点の答案を、過去問束の一番上へ置く。

 県内模試の問題集は、その下へ入れた。

 丸の数は、彼女ができることを教えた。

 できないことだけは、一つも映さなかった。


神崎の赤ペン補講 第10回

過去問は覚えるものか、測るものか

1 過去問は強力な教材である

 過去問を使う目的には、次のものがあります。

・出題範囲と形式を知る

・時間配分を試す

・現在の得点力を測る

・頻出分野を確認する

・本番に近い判断を練習する

 過去問を使うこと自体が悪いのではありません。

 問題は、答えや並び方を覚えた状態の得点を、初見問題にも使える実力だと思い込むことです。

2 「見れば分かる」と「自力で出せる」は違う

 解説を読むと、理解した感覚が生まれます。何度も同じ問題を見ると、解答が滑らかに浮かびます。

 この読みやすさや見覚えを、理解や記憶と取り違えることがあります。これが流暢性の錯覚です。

 確認方法は簡単です。

 解説を閉じ、白紙から解き直してください。

3 過去問を実力へ変える四段階

一 時間を測って解く

二 誤答原因を分類する

三 解説を閉じて再現する

四 数字や問われ方が違う類題を解く

 同じ問題の答えを再現できても、どの解法を使うか選べなければ、初見問題では止まります。

4 定期テスト対策と入試対策は同じではない

 定期テストでは、学校の授業、教科書、ワーク、配布物が重要です。学校の過去問から、形式や重点を学ぶことも有効です。

 一方、高校入試では、初めて見る文章、資料、数値、組み合わせへ対応する必要があります。

 両方に共通する基礎はあります。しかし、練習の範囲と目的を分けて考えてください。

5 三分課題

 解いたことのある問題を一問選びます。

・解説を閉じる

・何も見ずに解く

・なぜその解法を選ぶか一文で書く

・数字を一つ変えても解けるか確かめる

 答えが合うかだけでなく、方法を選べるかを見ます。

6 保護者の方へ

 高得点を否定する必要はありません。

 ただし、定期テストの得点だけで入試実力を判断せず、模試、初見問題、時間制限下の様子も確認してください。

「過去問に頼るな」ではなく、何を測るために使っているのかを本人と話してください。

神崎の一言

「答えを覚えた問題は、お前を褒める。初めて見る問題だけが、お前の現在地を教える」


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