第11章 百四十二点
「試験中、話しかけないで」
蓮が言うと、神崎はサングラスの奥から見下ろした。
「ワシに言っているのか」
「ほかに誰がいるんだよ」
模試会場には、百人近い中学生がいた。
神崎の姿が見えるのは蓮だけだ。周りから見れば、受験票へ向かって独り言を言う危ない生徒である。
「四月は、ワシがいなかった」
「だから百点だった」
「今日もワシは問題を解かん」
「分かってる。でも、迷ったときに先生を見るのもなしにする」
蓮は答案用紙の余白へ、三行書いた。
基礎を先に。
六十秒止まったら飛ばす。
最後の五分は見直す。
「ずいぶん立派になったな」
「先生に言われたことだけど」
「使うと決めたのはお前だ」
試験監督が問題冊子を配り始める。
神崎は教室の後ろへ下がった。
「ワシの声がなくても選べるか、見せてみろ」
*
国語の説明文には、四月にはなかった線が引かれた。
接続語。
指示語。
筆者が言い換えた箇所。
重要そうなところへ全部引くのではなく、設問で問われた条件を探すための線だった。
記述問題で、蓮の手が止まる。
六十秒。
余白に小さな三角を書き、次へ進んだ。
数学。
大問一の計算から始める。
符号。分配法則。平方根。
途中式を残した。
大問二の作図では、条件へ一本ずつ印をつける。証明問題は覚えた型を書けるところまで書く。最後の難問は、読んだ時点で後へ回した。
四月なら、難しそうな問題へ先に腹を立てていた。
今は、取れる点が机の上に残っている。
英語。
知らない単語が一つあった。
神崎を見そうになる。
教室の後ろに、革ジャンの男が立っている。腕を組み、口を閉じていた。
蓮は設問へ戻った。
主語。動詞。誰が、何をしたか。
一語分からなくても、文全部が消えるわけではない。
理科と社会では、一問一答の基礎を先に取った。資料問題は印をつけて後へ回す。
最後の五分。
数学の途中式をたどる。英語の記号を一つ直す。国語の三角へ戻り、条件に合う一文を書く。
終了の合図が鳴った。
神崎は、最後まで何も言わなかった。
*
「自己採点の前に、予想点を書け」
塾へ戻ると、神崎が言った。
「高かったら恥ずかしいだろ」
「恥を避けるために数字を曲げるな」
蓮は五教科の手応えを思い出した。
国語三十。数学三十。英語二十三。理科二十六。社会二十八。
合計百三十七。
「四月の予想は?」
「百五十くらい」
「実際は百点だった」
「今回は違う」
「何が違う」
「どこを取って、どこを捨てたか覚えてる」
神崎は赤ペンを回した。
「なら、採点しろ」
答えを合わせる。
国語、三十一。
数学、三十二。
英語、二十五。
理科、二十六。
社会、二十八。
合計。
百四十二。
蓮は計算をもう一度した。
数字は変わらない。
「先生」
「見れば分かる」
「百四十二」
「聞こえた」
「目標、百三十五だったよな」
「そうだ」
「超えてる」
「七点な」
「もっと驚けよ」
「ワシが驚くと、点が増えるのか」
蓮は答案を持ち上げた。
四月より四十二点高い。
難問が解けたわけではない。国語の記述は半分しか書けず、数学の最後は白紙、英語長文にも推測で選んだ答えがある。
それでも、四月に落とした基礎が戻っていた。
百点のとき、答案には何も残っていなかった。
今日は、取った問題と捨てた問題が残っている。
「よくやった」
神崎が言った。
蓮は答案を下ろした。
「今の、もう一回」
「断る」
「録音しとけばよかった」
「次も取れ。それなら何度でも言う」
*
正式な成績表には、偏差値四十五と書かれていた。
四月は三十五。
志望校判定は、まだ一番下の欄だった。
黒瀬は、百四十二点へ赤い丸をつけた。
「八月目標は達成です。数学と英語の基礎問題も、正答率七十パーセントを超えた」
「じゃあ琉星、いけますか」
「現時点では、合格圏から遠い」
「ちょっとくらい喜ばせろよ」
「成功した事実と、合格できる事実は別です」
「先生と同じこと言う」
「誰と?」
「こっちの話」
黒瀬は成績推移の線を指した。
「ただし、この上昇は偶然ではありません。基礎問題の失点が減っている。再現できる可能性がある」
合格できるとは言わない。
それでも、可能性という言葉を黒瀬が使ったのは初めてだった。
*
Dクラスで百四十二点が伝わると、最初に陸が机を叩いた。
「百点のやつが?」
「元百点って言え」
「四十二点も増えたの?」
誰かが言った。
「俺の合計より増えてる」
笑いが起きた。
四月の笑いとは違った。
知念が拍手する。三人が続き、教室の半分へ広がった。蓮は立っているわけでもないのに、座り方が分からなくなった。
「うるさい。まだ偏差値四十五だから」
「自分で言うなよ」
拳が数学の答案を机へ置いた。
三十八点。
「数学、俺の勝ち」
「合計は?」
「数学の話してる」
「逃げんな」
「お前も四月まで逃げてたじゃん」
言い返せない。
蓮は拳の答案を見る。計算過程は必要なところだけ残され、作図は正確だった。英語と社会は低い。それでも数学では、自分より六点高い。
「次は負けない」
「勝手にすれば」
拳の口元が少し上がった。
凛は蓮の成績表ではなく、自己採点前の予想点を見ていた。
「五点しかズレてない」
「そこ?」
「自分のこと、前より分かってるじゃん」
百四十二点より、その言葉の方が不意打ちだった。
*
陽向の成績表は、百五十六点だった。
国語三十五。数学二十八。英語三十一。理科三十。社会三十二。
偏差値四十九。
数字を見た瞬間、最初に思ったのは、蓮より十四点高い、だった。
安心した。
その自分を、すぐに嫌いになった。
「採点、厳しくない?」
陽向は答案をめくった。
国語は時間不足で記述が空欄。
数学は見たことのない形式の問題で、どの公式を使うか決められていない。
英語は単語に見覚えがあるのに、文の中で意味を選べない。
理科と社会は、資料が二つになると時間が足りない。
定期テストで取った四百六十二点は、嘘ではない。
この百五十六点も、嘘ではなかった。
測られたものが違う。
分かっても、納得はできなかった。
「次、取り返す」
陽向は言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
*
美咲は二百二十一点だった。
国語四十五。数学四十四。英語四十八。理科四十一。社会四十三。
偏差値五十九。
「高っ」
陸が遠くから言った。
周囲も同じ反応をした。
蓮も、最初はそう思った。
自分より七十九点高い。
だが、美咲は笑っていなかった。
四月は二百二十八点、偏差値六十。勉強時間を増やし、教材を変え、睡眠を削った。それで七点下がっている。
最難関の琉星には、まだ届かない。
「たまたまだよ」
美咲は成績表を二つ折りにした。
「次は、もっとやる」
手帳を開く。
朝の欄。
夜の欄。
睡眠と書かれた横線を消し、英語長文と書き換えた。
神崎の赤ペンが床へ落ちた。
音はしなかった。
物に触れられないはずの赤ペンが、神崎の手をすり抜けたように見えた。
「先生?」
神崎は美咲を見ていた。
サングラスの奥の目は見えない。
けれど、呼吸だけが浅くなっている。
「やめさせろ」
「何を」
「あれをだ」
「英語?」
「違う。全部だ」
美咲は何も知らず、手帳へ次の予定を書いている。
「先生、何言ってんの」
「同じだ」
神崎の声が、これまで聞いたことのないほど低かった。
「何が」
「同じ顔をしている」
*
知花颯真は二百三十六点、偏差値六十三。
成績表を受け取っても表情を変えない。
「いつもどおりだな」
蓮が言うと、颯真は答案を整えた。
「最初の数学で時間を使いすぎた」
「それでも四十点超えてるだろ」
「最後の見直しができなかった」
「次、直せばいいじゃん」
「そうする」
完璧な答えだった。
神崎は颯真の数学答案を見た。
最初の難問へ、何本も消した跡がある。
最後の基礎問題には、単純な符号ミスが一つ。
「上位者の穴は、下からは見えにくい」
神崎が言った。
蓮は美咲を見ていた。
自分の成績表を、いつ鞄へしまったのか覚えていなかった。
百四十二点は、蓮が初めて自分で勝ち取った数字だった。
その日、彼が最後まで見ていたのは、自分の成績表ではなかった。
神崎の赤ペン補講 第11回
なぜ点数ではなく偏差値で比べるのか
1 点数は、その試験の中の得点である
説明のため百点満点に換算した試験で、七十点を取ったとします。
平均点が四十点の難しい試験なら、七十点は高い位置にあるかもしれません。平均点が八十五点の易しい試験なら、七十点は低い位置になる可能性があります。
点数だけでは、試験を受けた集団の中でどの位置にいるか分かりません。
2 偏差値は、平均と散らばりから位置を示す
偏差値は、その試験を受けた集団の平均点と、点数の散らばりを使って計算します。
平均点付近なら、偏差値はおおむね五十です。
平均より高ければ五十より上、低ければ五十より下になります。ただし、同じ点数でも、試験の難しさや受験者集団が違えば偏差値は変わります。
3 別の模試の偏差値を、そのまま比較しない
県内模試、全国模試、塾内模試では、受験者集団が違います。
偏差値六十という数字が同じでも、何の試験で、誰が受けたかによって意味は同じではありません。
推移を見るときは、できるだけ同じ模試、同じ母集団の結果を使ってください。
4 偏差値は能力や人格ではない
偏差値が示すのは、その試験、その時点、その受験者集団の中での相対的位置です。
・人間としての価値
・努力の量
・将来の幸福
・すべての学力
・成長可能性
これらを直接示す数字ではありません。
5 模試で見るべき五つ
・総合偏差値
・教科別偏差値
・単元別正答率
・時間不足
・誤答原因
判定だけを見て志望校を決めないでください。どの問題を取れば距離が縮まるかを確認します。
6 予想点と実得点の差
採点前に予想点を書いてください。
予想と実際の差が大きい場合、自分の理解度を正確に判断できていない可能性があります。
これを繰り返すと、メタ認知――自分が何を分かり、何を分かっていないかを見る力――を育てられます。
7 三分課題
最新の模試から一教科を選びます。
・予想点
・実得点
・時間不足で落とした点
・知識不足で落とした点
・次回、最初に変える一つ
偏差値を見た後、必ず答案へ戻ってください。
8 保護者の方へ
偏差値を子どもの能力の呼び名にしないでください。
「偏差値が低い子」ではなく、「今回、この模試で偏差値が低かった」です。
数字を固定した性質にせず、現在地と次の行動を話すための資料として使ってください。
神崎の一言
「偏差値は住所だ。人間の値段ではない。住所が分かれば、次にどちらへ進むかを決められる」




