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第12章 私の未来を決めないで

「同じだ」

 神崎は、美咲の手帳を見たまま動かなかった。

 睡眠と書かれていた線は消されている。

 その上に、英語長文。数学演習。理科復習。

 空いた時間へ勉強を入れたのではない。眠る時間を、勉強という名前に変えていた。

「誰と」

 蓮が聞く。

 神崎の返事はなかった。

 代わりに、窓の外を見ていたはずの目が、別の教室を見始めた。

 東京の校舎。

 蛍光灯の白い廊下。

 最下位クラスの出席表。

 一人の生徒の名前に引かれた赤い線。

〈指導効率低〉

 神崎自身が書いた字だった。

 何度か声をかけた。

 宿題を出せと言った。

 やらないなら伸びないと伝えた。

 その後、担当を若い講師へ渡した。

 合格実績を作れる生徒へ時間を移した。

 何年もあとになって、その生徒が亡くなったと聞いた。家族が離れ、残った者たちの生活まで崩れていったという話も、人づてに届いた。

 原因を、神崎は知らない。

 知らないからこそ、自分が見なかった時間のすべてが、自分の責任に見えた。

「教材を減らせ」

 神崎が言った。

「美咲の?」

「志望校から離せ。一人にするな」

「急に何だよ」

「同じ顔をしている」

「同じじゃないだろ」

「お前に何が分かる」

 神崎の声が鋭くなる。

「先生だって、美咲のこと知らないだろ」

「だから止める」

 分析ではなかった。

 だが、蓮には分析に聞こえた。

 伝説の講師が、見逃してはいけない兆候を見つけたのだと思った。

 それに、美咲を失うかもしれないという言葉は、蓮の中に別の恐怖を呼び起こした。

 同じ高校へ行く。

 そばにいる。

 守る。

 最初から、その三つを同じ意味にしていた。

     *

 黒瀬の面談室で、四つの正解が並んだ。

「二百二十一点は、一般的には高い得点です」

 黒瀬は美咲の成績表を机へ置いた。

「しかし琉星学院の最難関コースを基準にすれば、合格可能性は高くない。教材を増やす必要はありません。数学の時間配分と、理科の資料問題を分析しましょう」

「続けて大丈夫ということですか」

 美咲の母親が聞いた。

「本人が挑戦を望むなら、現時点で下げる必要はないと考えます」

「美咲なら、もう少し頑張れると思うんです」

 母親は娘を見た。

「ここまで来たんだもの。将来、選べる側にいてほしいの」

 美咲は膝の上で手を重ねていた。

 進路資料には、琉星のほかにも三校が記載されている。

 公立上位校。

 私立特進。

 通学時間の短い中堅校。

「宮城さんは、どう考えていますか」

 黒瀬が尋ねた。

「私は……」

 美咲は一度、母親を見た。

「琉星でいいです」

「で、ではなく、が、ですか」

 黒瀬の問いに、美咲は答えなかった。

 面談室の外で、蓮は待っていた。

 偶然ではない。美咲から結果を聞くと言って、同じ時間に塾へ来た。

 神崎は扉の横に立っている。

「聞け」

「盗み聞きだろ」

「手遅れになってから礼儀を守っても意味はない」

 扉が開いた。

 美咲の母親が黒瀬と話しながら先に出る。美咲は少し遅れて廊下へ出た。

「どうだった」

 蓮が聞いた。

「別に。今までと同じ」

「琉星、続けるの?」

「そのつもり」

「本当に?」

 美咲の眉がわずかに動いた。

「何、その聞き方」

「いや。ほかの学校もあるから」

「蓮も琉星を目指してるんじゃなかった?」

「俺はそうだけど」

「私は違うの?」

 うまく答えられなかった。

 神崎が低く言う。

「今、言え。教材を減らせ。睡眠を戻せ」

「最近、寝てる?」

 蓮は聞いた。

「急に何」

「手帳の睡眠、消してたから」

 美咲の顔から表情が消えた。

「見たの?」

「見えただけ」

「見てたんでしょ」

「心配だったから」

 美咲は手帳を抱え直した。

「大丈夫」

 その言葉に、神崎が反応する。

「『大丈夫』の一語で、確認を終えるな」

「先生の声、美咲には聞こえないんだよ」

「なら、お前が言え」

「今日は帰るね」

 美咲が歩き出した。

「待って」

 蓮は追った。

     *

 数日後、自習室の机から美咲の手帳が落ちた。

 机の脚へ当たり、開いたまま床へ滑る。

 蓮が拾う。

 睡眠の欄はさらに短くなっていた。

 朝五時半、英語。

 夜十二時、就寝。

 その下へ、小さく〈できなければ翌日〉と書かれている。

「七時間半へ戻せ」

 神崎が言った。

「勝手に見たら怒るだろ」

「怒らせろ。壊れるよりいい」

「でも」

「書け」

 赤ペンを握っているのは神崎だった。

 実際に紙へ触れられるのは、蓮だけだった。

 蓮は机にあった赤いボールペンを取った。

 睡眠七・五時間。

 教材一冊削減。

 琉星、再検討。

 三つ書いた。

 書き終わった瞬間、間違えた気がした。

 消そうとしたとき、美咲が戻ってきた。

「何してるの」

「落ちたから拾って」

 美咲は手帳を見た。

 蓮の赤い字を読む。

「これ、蓮が書いたの?」

「説明する」

「何で書いたの」

「このままじゃ駄目だから」

「何が?」

「寝てないし、教材増やしてるし、模試も下がっただろ」

 美咲が手帳を取ろうとする。

 蓮は渡さなかった。

「聞いて。睡眠削ると覚えたことも残らない。教材増やしても復習できない。今のまま琉星を目指す必要ないだろ」

「返して」

「ほかの学校でもいい。俺と同じところなら、俺も――」

「返して」

 強い声だった。

 蓮は手を離した。

 美咲は手帳を閉じる。

「俺は助けたいだけだよ」

「何から」

「だから、このまま続けて壊れるのを」

「私、壊れてる?」

「今はまだ。でも」

「でも、何」

 未来で何が起きるか、蓮は知らない。

 神崎の過去の生徒が亡くなったことも、美咲とは関係がない。

 それでも、危険だという確信だけが大きくなっていた。

「分かるんだよ」

「私より?」

「そういう意味じゃない」

「私より、私のことが分かるの?」

 蓮は答えられなかった。

     *

 美咲にとって、手帳は自分のものだった。

 母親が志望校を選ぶ。

 黒瀬が合格確率を出す。

 教師が安全校を勧める。

 その間で、何時に起き、何を何分するかだけは、自分で決めていると思っていた。

 実際には、母親の期待を埋め、黒瀬の課題を埋め、学校の提出物を埋めていただけかもしれない。

 それでも、自分の字で書いていた。

 そこへ蓮の赤い字が入った。

 心配していることは分かる。

 睡眠を削るのがよくないことも、教材を増やせばよいわけではないことも、たぶん蓮が正しい。

 正しいからこそ、腹が立った。

 正しい答えを持つ人は、いつも本人が考える時間を待たない。

「先生も、お母さんも、あなたも同じ」

 美咲は言った。

「私のためって言えば、私の未来を決めていいと思ってる」

「違う」

「何が違うの」

「俺は、君を助けたい」

「助けてって、私が言った?」

 蓮の顔が止まった。

 傷つけたと分かった。

 けれど、今ここでその傷まで美咲が手当てをする必要はなかった。

「心配するなら、聞けばよかったじゃん」

「聞いた。寝てるかって」

「もう答えを決めてから聞いたでしょ」

 そうだった。

「怖いのか。眠れてるのか。何をしたいのか。分からないなら、分からないって言えるのか。先に聞くこと、あったでしょ」

「でも美咲、大丈夫って言うから」

「言ったよ」

 美咲は手帳を胸へ押しつけた。

「私も言った。大丈夫じゃないのに」

 初めて、口にした。

 その一言で、すべてを話せるわけではない。

 琉星へ行きたいのか分からない。

 下げたら母親を失望させる気がする。

 頑張っても伸びないのが怖い。

 蓮が追いついてくるのを嬉しいと思う自分と、怖いと思う自分がいる。

 どれも、まだ言葉にできなかった。

「だからって、蓮が決めないで」

 進路希望票を鞄から出す。

 琉星学院と書いた紙を、二つに折った。

 捨てなかった。

 提出もしなかった。

「今は、自分で考えたい」

「美咲」

「もう、私の予定を見ないで」

 美咲は自習室を出た。

 廊下を曲がるまで、足を速めなかった。

 曲がったあと、壁へ手をついた。

 泣かなかった。

 泣くことまで、誰かへの答えになる気がした。

     *

 帰り道に、美咲はいなかった。

 蓮は一人で歩いた。

 鞄には百四十二点の成績表が入っている。

 昨日までなら、角が折れないように何度も確かめた紙だった。

「ワシは間違っていない」

 神崎が言った。

「睡眠を削るのは危険だ。教材を増やすのも、あの志望校に固執するのも」

「正しいよ」

 蓮は前を向いた。

「先生の言ったこと、全部正しい」

「なら」

「先生は、あの生徒に聞いたのか」

 神崎の足が止まった。

「何を」

「何が怖いか。どうしたいか。先生が捨てたっていう生徒に」

「捨てたとは言っていない」

「じゃあ、聞いた?」

 神崎は答えなかった。

 蓮も歩みを止める。

 今から美咲を追えば、謝れるかもしれない。

 許してもらえるかもしれない。

 だが、それは自分の苦しさを、美咲に片づけてもらいに行くことでもあった。

 蓮は追わなかった。

 百四十二点の紙は、鞄の中で折れなかった。

 折れたのは、正しいことをすれば人を救えるという、蓮の方だった。


神崎の赤ペン補講 第12回

助けることと、決めることの境界線

1 観察した事実と、推測を分ける

 事実:

「手帳の睡眠時間が短くなっている」

「以前より疲れて見える」

「模試のあと、勉強時間を増やした」

 推測:

「このままでは必ず壊れる」

「その志望校をやめれば解決する」

「自分がそばにいれば救える」

 推測が間違っているとは限りません。しかし、事実と同じ確かさで扱ってはいけません。

2 助言の前に尋ねる

・最近、眠れているか

・何が一番つらいか

・本人は今の進路をどう考えているか

・話を聞いてほしいのか、情報がほしいのか

・誰かほかに相談できる人はいるか

 答えを聞く前に解決策を出すと、助言が支配へ変わることがあります。

3 本人に任せることと、放置は違う

 自己決定を尊重することは、何もしないことではありません。

・選択肢を一緒に調べる

・利点と危険を伝える

・相談先を増やす

・必要なら大人や専門家へつなぐ

・結論を急がせない

 本人が一人で抱えなくてよい環境を作りながら、最終的な選択を奪わないことが重要です。

4 生命や安全に切迫した危険がある場合

 自傷や自死をほのめかす言葉、具体的な計画、極端な心身状態など、生命に関わる切迫した危険がある場合は、秘密や本人の同意だけに依存しないでください。

 信頼できる保護者、学校、医療機関、公的相談窓口などへつなぎ、安全確保を優先します。

 一人の友人や恋人だけで背負わないことが必要です。

5 境界線は拒絶ではない

「予定を勝手に見ないで」

「今は助言より話を聞いて」

「その話はまだしたくない」

 これらは、関係を終わらせる言葉とは限りません。

 相手が安心して関係を続けるための条件である場合があります。

6 三分課題

 誰かへ助言したい問題を一つ選び、紙を二つに分けます。

・自分が実際に見聞きしたこと

・自分が推測していること

 次に、解決策ではなく最初に尋ねる質問を一つ書いてください。

7 保護者の方へ

「あなたのため」は、親の愛情から出る言葉です。

 しかし、その言葉だけで子どもの希望や迷いを省略しないでください。

 大人には情報を集め、危険を伝え、選択肢を整える責任があります。同時に、子どもには年齢と発達に応じて、自分の人生について意見を表明し、その意見を考慮される権利があります。

神崎の一言

「手を差し出す前に、相手の手がどこにあるかを見ろ。つかむことと、つなぐことは違う」


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