第13章 彼女のいない勉強
宮城美咲は、以前と同じ声で「おはよう」と言った。
以前と同じだったのは、声だけだった。
蓮が顔を上げたときには、もう美咲は自分の席へ向かっていた。立ち止まらなかった。窓際の友人に呼ばれ、小さく手を振る。その横顔にも、怒っている様子はない。
怒ってくれていた方が、まだ楽だった。
「返事くらいせんか」
窓のそばに立つ神崎が言った。黒い革ジャンも、朝の教室ではひどく場違いだった。もっとも、誰にも見えない男に場違いも何もない。
「した」
「口が動いとらん」
「心の中で」
「お前の学校では、挨拶も記述式か」
いつもなら少しは笑えた。
蓮は机の中へ手を入れた。指先に細いプラスチックが触れる。美咲から借りたままのシャープペンだった。返す機会はいくらでもあった。それでも今朝は、取り出せなかった。
チャイムが鳴った。
美咲はこちらを見なかった。
その日の放課後、蓮は塾の自習室で英単語帳を閉じた。
閉じたのは、検索練習をするためだ。
中学一年から二年までの基本単語を、何も見ずに白紙へ書く。書けなかったものに印をつけ、翌日、三日後、一週間後にもう一度確かめる。神崎に教えられてから、何度も繰り返してきた方法だった。
白紙の上には、becauseと、differentと、futureの三語しかなかった。
「三分経ったぞ」
神崎が壁時計を見上げた。
「分かってる」
「なら続けろ。止まっとる時間の方が長い」
「今、思い出してる」
「単語をか」
「うるせえな」
蓮は単語帳を開いた。
知っているはずの単語が並んでいた。見れば分かる。意味も、発音も、例文も、だいたい覚えている気がする。
もう一度閉じると、消えた。
見れば分かることと、何も見ずに出せることは違う。
それを知ったとき、蓮は少し賢くなった気がした。今は、その違いだけが残り、単語は残っていなかった。
「二十分で区切れ」
神崎が言った。
「今、何分」
「ストップウォッチを押しとらん」
「あ」
机の端のスマートフォンは、零分零秒を表示していた。
蓮は画面へ指を置いた。そのまま通知欄を下ろしかけ、手を止めた。美咲からの連絡はない。来るはずもない。
画面を伏せた。
「今日は英語を減らす。数学の誤答修正へ移れ」
「量を減らせばいいって話じゃねえだろ」
「集中できん日に同じ量を積んでも、雑な誤答を増やすだけじゃ」
「だから、そういう話じゃない」
「なら何の話じゃ」
蓮は答えなかった。
机の横には、八月の県内模試の個票が差し込まれていた。
国語三十一点。数学三十二点。英語二十五点。理科二十六点。社会二十八点。合計百四十二点。偏差値四十五。
四月は百点、偏差値三十五だった。
四十二点上がった。数学と英語の基礎問題正答率も、黒瀬に示された七割を越えた。
結果を見た日は、紙が薄く光って見えた。
今は、誰か別の生徒の成績表みたいだった。
「目的は変わっとらん」
神崎が言った。
「琉星学院へ行く。次は秋の模試で百六十点を狙う。英語は単語と文法、数学は大問一、二を固めた上で――」
「それ、誰の目的だよ」
神崎の声が止まった。
「何?」
「琉星に行けって言ったのは、あんただろ。美咲と同じ高校へ行けば未来を変えられるって」
「行きたいと言ったのはお前じゃ」
「言ったよ。だから勉強した。百点から百四十二点まで上げた。それで、何が変わった」
自習室の前方で、椅子を引く音がした。
蓮は声を落とした。周囲から見れば、誰もいない空間に腹を立てているだけだ。
「美咲には、あんなこと言われた。俺はあいつのためだと思ってた。でも、美咲は頼んでない」
「だからといって、お前の成績まで元へ戻してええ理由にはならん」
「分かってるよ」
「分かっとらん。分かっとる人間は手を動かす」
正しい。
神崎は、こういうときに限って正しかった。
蓮は鉛筆を握った。先が紙へ触れたまま、一本の線にもならなかった。
「二十分でいい。英単語を――」
「黙ってくれ」
声が思ったより低く出た。
「今は、あんたの言うとおりにやりたくない」
神崎のサングラスには、自習室の蛍光灯だけが映っていた。
「そうか」
それきり、神崎は何も言わなかった。
蓮は二十分、机に座っていた。
勉強した時間は、たぶん五分もなかった。
塾を出ると、空はまだ明るかった。
バス停の屋根に、昼間の熱が残っている。道路の向こうでは車が途切れず、誰かの人生だけが遅れていることなど知らないように流れていた。
神崎はベンチの前に立った。
「一週間、やることを固定する」
蓮は顔を上げなかった。
「英語は中一、中二単語の検索練習。数学は模試の大問一、二の誤答修正。理社は一問一答を日替わり。国語は説明文を二日に一題。感情と学習を分けろ。お前が美咲と話せるかどうかと、入試日は関係ない」
「正しいな」
「当然じゃ」
「でも、それ、美咲にやったことと何が違う」
神崎の眉が動いた。
「美咲は自分の志望校を決められてた。俺は勉強する理由を決められてる。どっちも、本人のためって言えばいいのか」
「勉強法と進路を一緒にするな。今のお前に必要な手順は明らかじゃ」
「手順の話だけしてない」
「では何がしたい」
「それを、今からあんたが決めるのかよ」
バスが一台、二人の前を通り過ぎた。蓮が乗る路線ではなかった。風だけがシャツの裾を持ち上げた。
神崎の口が、誰かの名前の形に動いた。
声にはならなかった。
「何だよ」
「いや」
神崎はサングラスを外した。
初めて会ったとき、蓮はその目が思ったより疲れていることに驚いた。今は、疲れているというより、遠い場所を見ていた。
「目的を聞く前に、点を取らせたことがある」
「誰に」
「今は関係ない」
「関係あるだろ」
「話せるほど、ワシにも分かっとらん」
それは、神崎が口にした中で最も教師らしくない言葉だった。
何でも知っているふりをする男が、分からないと言った。
神崎はサングラスを戻した。
「なら聞く。お前はどうしたい」
蓮は道路を見た。
次のバスが来るまで、あと六分あった。
六分あれば英単語を二十個は確認できる。神崎ならそう言う。
六分考えても、答えは一つも出なかった。
「分からない」
「そうか」
「それだけかよ」
「分からんと言った人間に、ワシが答えを入れたら、また同じじゃろ」
「急に物分かりよくなるなよ」
「腹が立つなら、その感情を手がかりにしろ。ただし、覚え直す作業は別に要る」
「何でも勉強にするな」
神崎は笑わなかった。
蓮も笑えなかった。
部活では、フリースローを三本続けて外した。
「お前、今日リング小さく見えてる?」
大城陸が、跳ね返ったボールを拾った。
「いつもと同じ」
「じゃあ、お前が下手になったんだな」
「うるせえ」
蓮は投げ返した。陸は胸の前で受け止め、片手で回した。
「模試、上がったんだろ」
「まあ」
「百四十何点?」
「百四十二」
「四月が百点だっけ。四十二点アップ。俺なら廊下に貼るね」
「勝手に貼れ」
「俺のじゃねえし」
陸がシュートを放った。
ボールはリングの手前に当たり、真下へ落ちた。
「振られた顔でフリースローまで外すな。こっちが困る」
「振られてねえ」
「じゃあ、もっとダサいな」
蓮は陸からボールを奪った。
「美咲と何かあったって決めつけんな」
「何もないのに、その顔なら病院行け」
「俺は普通だ」
「練習一本休んだ。昨日、自主練来なかった。さっきからスマホ四回見た。普通って便利だな」
蓮はボールを床へ強くついた。
一度目は高く戻り、二度目は手の外へ逃げた。陸が足で止めた。
「勉強もやってんの?」
「やってる」
「何時間」
「時間で決まらねえだろ」
「神崎先生みたいなこと言うじゃん」
蓮は息を止めた。
陸には神崎のことを話していない。
陸はただ、最近の蓮が急に講師のような言い方をするのをからかっただけだった。
「誰だよ、それ」
「知らねえよ。有名な先生っぽい名前、適当に言った」
「適当すぎるだろ」
陸は笑った。
蓮は笑えなかった。
「美咲と同じ高校、行くんだろ」
「……それは」
「やめんの?」
「別に、美咲のためにやってたわけじゃねえし」
「へえ」
「何だよ」
陸は床に落ちた蓮のタオルを拾った。タオルの下に、折れた学習記録表が挟まっていた。陸は中を読まず、紙の端を指で弾いた。
「美咲がいなければやめるなら、それ、お前の受験じゃないだろ」
蓮はボールを投げた。
陸の横を抜け、体育館の壁に強く当たった。
「分かったようなこと言うな」
「分かんねえよ。俺、自分の志望校も決めてねえし」
「だったら黙ってろ」
「決めてないから分かるんだよ。人の行く高校を理由にしたら、その人がいなくなったとき何も残らない」
「じゃあ、お前は何で部活やってんだよ」
陸は少し黙った。
いつもなら、楽しいから、とすぐ言うはずだった。
その答えを言わなかった。
「それ、今考えてる」
陸は壁から戻ってきたボールを拾わず、蓮の足元まで転がるのを見た。
「返ってくるだけ、ボールの方が素直だな」
「意味分かんねえ」
「俺も」
陸は先に体育館を出た。
蓮は一人でフリースローラインに立った。
十本だけ投げた。
一本目は外れた。二本目は入った。三本目も入った。四本目はリングに嫌われた。
十本中、七本。
合格点でも、不合格でもない。
ただ、今の自分が七本だった。
母は、蓮の部屋の明かりが消えていることに気づいたらしい。
「ご飯、置いとくよ」
扉の外から声がした。
「うん」
「寝るなら風呂だけ入って。汗くさい」
「分かってる」
「あと、ユニフォーム。鞄の中に入れっぱなしにしないで」
「分かったって」
母は勉強のことを言わなかった。
塾の費用を二人で削った日の後も、家では米を炊き、洗濯物が増え、風呂の順番で揉めた。人生は大きな決意だけでは動かない。細かい用事に押されながら、それでも翌日になる。
蓮は机の明かりをつけた。
神崎が本棚にもたれていた。
「口は出すなよ」
「まだ何も言っとらん」
「顔が言ってる」
「ワシの顔が読めるなら、国語はもう少し取れそうなもんじゃ」
「そういうのいいから」
蓮は進路希望票を取り出した。
第一志望の欄には、琉星学院高等学校と書いてある。その文字は、自分で書いたはずなのに、誰かから借りた名前のようだった。
裏返し、定規で三つに区切った。
一つ目に書く。
美咲と同じ高校へ行きたい理由。
隣にいてほしい。
置いていかれたくない。
未来で死んでほしくない。
最後の一行だけ、すぐ消した。
未来のことを知っているのは神崎と自分だけだ。書いた文字まで秘密を持つのが怖かった。
二つ目。
琉星学院でなければできないこと。
県外大学への進学。
国語・数学・英語の三教科(各百点)の当日点を重視。
上位特待。
強い生徒が集まる。
並べた言葉は、黒瀬の資料と神崎の説明から借りたものばかりだった。
三つ目。
美咲がいなくても勉強する理由。
鉛筆が止まった。
「県外へ出たい、はどうじゃ」
「俺が?」
「選択肢は増える」
「増やしたいって思ってるか分からない」
「将来、教える側に――」
「それ、あんただろ」
神崎は口を閉じた。
「バスケを続けられる学校」
「琉星は強豪ではない」
「じゃあ理由にならない」
「学力を上げれば、今より多く選べる」
「それは正しい。でも、俺の理由じゃない」
神崎は机の横へ来た。
紙をのぞき込む。触れることはできない。
「ないなら、作ればええ」
「目標って作るもんなのか」
「見つかるまで待っとる奴は、大抵、他人の目標を着せられる」
「それをやったのが、あんただろ」
神崎の頬がわずかに動いた。
「そうじゃ」
言い訳をしなかった。
蓮は、三つ目の欄に書いた。
まだ分からない。
たった八文字だった。
模試の記述なら、点はもらえない。具体性も、根拠も、何もない。
それでも、空白を埋めるための嘘よりは、自分の答えだった。
「明日、考える」
「今日ではないのか」
「今日は風呂入る。ユニフォーム出す。寝る」
「睡眠は記憶の固定に――」
「口出すなって言っただろ」
「睡眠は勉強法ではなく生活じゃ」
「屁理屈」
蓮は少しだけ笑った。
翌朝、Dクラスの自習机に座った。
模試の誤答一覧を開く。
英語は単語不足と文法。数学は基礎計算と作図。理科と社会は知識不足。国語は根拠の線が足りない。
やるべきことは多かった。
「今日は何を――」
蓮は神崎を見て、言葉を止めた。
神崎は腕を組んで待っている。
「英語の中一、中二単語。何も見ないで書く。それと数学の大問一、二の間違い直し」
「理由は」
「一番、基礎の失点が多い。次も出る。今の俺でも始められる」
「時間は」
「二十分」
「ワシなら三十分にする」
「今日は二十分で始める。終わったら、間違いを知識不足、読み違い、計算ミス、時間不足に分ける」
神崎はすぐに褒めなかった。
その沈黙に、蓮は少し腹が立った。
「何だよ」
「上等じゃ」
蓮はストップウォッチを押した。
そのとき、教室の後ろから、金属が床へ落ちる音がした。
島袋拳が、卓上扇風機を分解していた。
首が折れ、廃棄の札を貼られていたものだ。机の上には小さなねじが大きさ順に並べられている。拳の指は黒く汚れていた。
「それ、直せるのか」
蓮が聞いた。
「問題に答えがあるならな」
拳は顔を上げずに言った。
机の端には、返された模試の答案があった。
数学だけ、途中式が驚くほど整っている。図形問題の補助線も正確だった。英語と社会は、後半のほとんどが空欄だった。
神崎が答案と、分解された扇風機を見比べる。
「蓮。こいつは頭が悪いんじゃない」
「それ、俺にも言ったな」
「お前とは穴の形が違う」
拳が切れた配線をつなぎ、カバーを戻した。
電源を差す。
扇風機の羽根が、久しぶりに回った。
島袋拳は、一度も笑わなかった。
神崎の赤ペン補講
第13回 やる気を待たず、目的を三段に分けろ
一 他人がきっかけでも構わない
友達と同じ高校へ行きたい。親を安心させたい。先生に認められたい。
受験勉強の出発点が他人にあっても、それ自体は悪くありません。
ただし、他人だけを理由にしていると、関係が変わったときに行動も止まりやすくなります。始めるために借りた理由を、少しずつ自分の理由へ変えていく必要があります。
二 目的を三段に分ける
遠い目的
どのような高校生活を送りたいか。将来、どのような選択肢を持ちたいか。
中間目標
次の模試で何点を取るか。どの単元の正答率を上げるか。
今日の行動
いつ、どこで、どの教材を、何分または何問行うか。
「合格したい」だけでは、今日の午後八時に何をするか決まりません。遠い目的を、実行できる大きさまで下ろします。
三 自分で選ぶとは、助言を無視することではない
先生や保護者の情報は必要です。
自分で選ぶとは、何でも一人で決めることではありません。
複数の選択肢と理由を知り、その結果を引き受けることです。迷っているなら、「まだ分からない」と認めることも出発点になります。
三分課題
次の三行を書いてください。
・その高校へ行きたい理由
・次の模試で変えたい数字
・今日、何時に、どこで、何をするか
一行目の理由から特定の誰かを消しても、残るものがあるか確かめましょう。
保護者の方へ
子どもの目標が、友達や親の影響から始まることは珍しくありません。すぐに「自分のために勉強しなさい」と結論を求めるより、「その学校で何をしたい?」「ほかの学校と何が違う?」と問いを返してください。
親が目的まで決め続けると、子どもは停滞したときに戻る場所を失います。情報を渡すことと、答えを代わりに決めることは別です。
神崎の一言
「借りた火で走り出してもええ。じゃが、最後まで燃やす薪は、自分で拾え」




